AI学習 今野1

今野由梨 女の選択

プロローグ
不思議な感覚ですが、私の中で突如、まるで、かすかな閃光が弾けるように、『ワタシハイマコニイマス』という思いに突き動かされることがあります。
私が今、ここにいる、そんな当たり前のことが、私にはとても感動的なことに思えるのです。
私が、何故このことにそんなに深い感慨を持つのか。たぶんそれは、自分の原点であるルーツ、9歳のときの戦災体験をはじめ、あの時代の音やにおい、幼少期を過ごした故郷、家族や友人、地域社会や学校といった人格形成の場と、その後の半世紀余りという膨大な時間クが創り出した「今ここにいる私」とのギャツプに、圧倒されているのだと思います。
人生には、あと何年がんばれば、という保証など、何ひとつありません。時には、何もかも投げ出してしまいたいと思うこともあります。でも、人それぞれの想いと努力の果てに、気がついてみたら、あなたも、私も、今、ここに、こうして″生かされているクのです。何ひとつ思いどおりにいかなかったとしても、逆に思ってもみなかった天からの贈り物を授かって、今の居場所にたどり着けたのではありませんか。そして、今私はここにいます。

私の『ここ』とはダイヤル・サービス株式会社の社長です今から4年前に電話を使った日本で最初の「電話相談サービス」というビジネスを始めました。つまり、日本で最初のベンチャー、女性起業家です。
「電話相談」という変わった仕事を始めたおかげで、電話の向こうの名も知らぬ女性たちが、こんなにも話したいという切実な思いを抱えて生きているということを知り、そのパワーに感動しました。私の始めたサービスは、それまでの日本では社会の表面に出なかった巨大なマグマを掘り当ててしまったのです。
電話という「道具」を「メディア」にしたことで人々は情報の受け手から発信者になり、日本は、名実ともにニューメディア時代の夜明けを迎えることになりました。ハードからソフトヘ、経済一辺倒の世界から、人間尊重型、アートとハートの時代へと、静かに、したたかに、着実に、社会を変えてきたのは
女性たちでした。
私は今でこそ会社の社長。しかしはじめから、それを目指していたわけではありません。大学を出て、ことごとく就職活動に失敗したおかげで、起業家という思いもよらぬ道を選択することになったのです。卒業から起業までの10年間は今で言う「フリーター」でした。
当時女性が働くということがまだ珍しかったという時代背景もありますが、起業家として、誰よりも厳しい苦難を経験したからこそ、後から続く起業家たちに同じことを繰り返させたくないと思いました。
ベンチャーの母と呼ばれ、国内外にいるたくさんのベンチャーを支援しているのも、そうした経験によるものだと思います。 ……と考えてゆくと、私自身が行った選択のひとつひとつが、今ここにいる私へとつながってきているのです。そのたったひとつでも、もし別の方向を選んでいたとしたら、今とは違う他の場所に見知らぬ別の私がいるはずです。過去と今の自分は、私たち自身の作品です。少々出来映えが気に入らなくても、紛れもなく自分が選択したことなのです。受け入れるしかありません。
でも、安心してください。今からの選択で、未来はあなたの心のおもむくままに、新たに創り出してゆくことができるのですから。

人生という名のステージ
私たちは、誰もが、それぞれに人生という名のステージに立っています。自分の人生ですから誰もが主役です。あなたは、どのようなドラマの中のどんな主人公を演じたいのですか?シナリオも演出も、衣装、大道具、小道具、ヘアーメイクも、すべて自作自演の超大作ロングランです。エキサイティングではありませんか。中でも大切なのは、登場人物です。あなたの人生ステージに登場してくれる、愛するバイプレイヤー(共演者)つまり親兄姉夫婦子ども仕事仲間友人たちと、台詞ひとつの使い方で、想わぬ場面へと展開してゆきます。中に
は、たった一度の登場でフェイドアウトする人もいるでしょう。クライマック
スを迎えそして、エンデイング、幕を下ろす。それはあなただけの、たったひとつのステージなのです。
私のこれまでの人生ステージを振り返ると、起業家という道は、自分の前に誰の姿も見えないケモノ道でした。たったひとりで、西も東もわからない原生林をさ迷い歩くようなものでした。人のやらない経験をした分、失敗の数も半端ではありませんでした。
人生には経験してみてはじめてわかることがたくさんありました。
失敗も試練も、渦中のときは地獄です。でも、そこを通り過ぎたとき、目の前に開ける新しい世界ほど感動的なものはありません。
人生に偶然などありません。みんな理由があり、意味があって体験させていただくものだと思います。そして、「失敗の数だけ人は賢くなれるし、試練こそ豊饒の海」なのです。だから、どんなにぶざまでもカッコ悪くても、その先にあるものを信じて生きて生きて生き抜いてこそ人生です。
今日食べるメニューから人生の一大転機まで、今からの選択をどうか存分に楽しんでください。選択の自由と権限はすべて、あなたにあります。そしてもちろん責任のすべてもです。
絶望しそうなとき、投げ出しそうなとき、実はそのときこそ、あなたの人生の大切な岐路なのです。そんなときに、気を取り直してこの本を開いていただけたらと、願いを込めてこの本を書きました。読者の皆様が健康で幸せなマイ・ライフを楽しむために、この本がささやかでもお役に立てますように、心から願ってやみません。

1章逆境のときこそ勝ちにいくという選択

人生の選択はまず「己を知ること」から
不得意なことを知ると得意なことが見えてきます
私はこれまで、人がやらないようなはじめてのことばかりやってきたため、
よく「奇人」「変人」と言われてきました。思い返せば、故郷、三重県の桑名から進学のため上京するときの「どうして、女だてらに四年制大学に行くのか?」に始まり4年前に会社を興したときもそうでした。
「どうせ会社を作るのなら、人の役に立つ仕事を。困ったとき、迷ったとき、辛いとき、腹が立つとき、電話で何でも相談できるサービスを」ということでダイヤル・サービス株式会社を立ち上げましたが、それまで見たことも聞いたこともないサービスだったため、周囲には理解されませんでした。誰にでも馴染み深い仕事なら、他にいくらでもあるのに変わったやつだ、と思われていたのです。
実際に、私の友人たちの中には、食品、服飾デザイン、建築デザインといった分野で大成功し、名を挙げ、財を成している人たちがたくさんいます。それは素敵なことだと思いますし、尊敬もしています。しかし残念ながら私には、そうした職種で花開く才能はありませんでした。また、自分の進むべき世界でないということも知っていました。
人には持って生まれた使命とでも言うべきものがあるのだと思っています。自分に与えられたミッション=役割があるはずで、それを成し遂げるために必要な才能も与えられているのだと思います。
「私には何もないわ」「何をしていいのかわからない」「得意なことなんて何もない」本当にそうでしょうか。よく考えて得意なことが見つからなければ、不得意なことを考えてみてはどうでしょう。不得意なこと、苦手なこと、興味が持てないこと……消去していくと、選択肢からひとつずつ外れていくでしょう。
私の場合、家事はまったく得意ではありませんでした。子どもの頃から家庭科が苦手で、教科書代わりに本を持ち込んで担当教諭を困らせていました。母や姉妹たちを見ていても、自分に家事は向かないと思い知らされていました。私はこう思っていたのです。「私は専業主婦には向かない。その代わりに、人
のための仕事をしよう。自分で働いたお金で、縫う仕事が好きな人たちが作ってくれる服や着物を買おう。私が払うお金で、その人たちは私の仕事の何かを使ってくれるかもしれない。みんな得意なことを生かせればみんなが幸せな世の中ができるのだから、自分は一生仕事を続けていこう」と。
不運な出来事が素晴らしい転機の始まり

18歳で故郷の三重県・桑名を出て東京の大学に進学しましたがいざ就職というとき、目指す企業のほとんどは「男子のみ」の採用で、女子は「短大卒」や「高卒」のほうが有利でした。筆記試験がよくても、面接で必ず落とされてしまうのです。
社会からは門戸を開ざされ、ある意味では「不遇な時代」だったのかもしれません。しかし今の私はそうは思ってはいません。とんでもない「不運」な出来事が、人生の素晴らしい転機だったりすることを知ったからです。気に入らないことが起こる度に、まずは受け入れ、感謝しています。不平不満を言う前に、その意味を考えてみます。
もしあのとき、就職試験にすんなりと合格してどこかの企業に勤めていたなら、今の私は絶対にいませんでした。就職できなかったからこそ、起業家の道に進ませていただけたのだと思っています。
私自身、就職にしても、起業にしても、お金もなく、経験もなく、支援者もなく、もちろん親の七光りもない、「ないないづくし」状態での出発でしたから、
当然、はじめからうまくいったわけではありません。ゼロから、いえマイナス
の世界からすべては始まりました。

現代は私の10代20代の頃に比べると女性の働く環境も見違えるほど改善されています。しかし不況で就職難と言われる今の状況は、当時と似ているところもあります。
実際に、就職試験において筆記試験の点数だけをみてみると、女子学生が上位大半を占めることがあると聞きます。それでも企業は、その点数だけで女子学生を採用するなどということはありません。まだまだ男性社会の名残が色濃く、女性は点数以上の努力をしなければ採用もされなければ、幹部になる人も少ない……。それが現状のようです。
とはいえ、1つ2つの就職試験がうまくいかなかったとしても、落ち込む必要はありません。企業に採用されるだけが進むべき道ではないはずです。自分を知り、自分を生かすことのできる道、自分の進むべき別の道を探してみましょう。狭き門であっても、今や門は多様化していて、選択肢はたくさんあるはずです。
ベンチャー育成ということにおいては、年々若者を支援する制度も十分整備されてきています。しかしこれは、「恵まれすぎた時代」ともいえ、逆に、打たれても打たれてもまた出てゆこうとするベンチャースピリットをかき立てるという意味では、以前よりも難しい環境にあるのかもしれません。
この時代に、この国で、この自分に与えられたミッションとは何なのか。
次にどのような目的を掲げて生きるのか。
己の人生を振り返りながら、今も日々私自身の選択を続けています。
アメリカのサブプライム・ローンから始まった今の不況で、仕事に就けない人が増えています。人の心やモラルも壊れ、女性たちの犯罪も増え、先の見えない不安感が充満しています。
でも決して悪いことばかりではありません。
子どもたちに、お年寄りに、働く女性に、外国人に、どんな問題が新たに起こっているかを考えるだけでも、小さな起業の種はいっぱいあるのです。
「100年に一度の不況と言われる今は、私から見れば、100年に一度のチャンスのときです。嘆いている暇はありません。小さなことでも、自分のテーマを見つけてみませんか。
選択に迷ったら、「三つ子の魂」を自己の中に見つけましょう
「私はだぁれ?」原点に戻ると、未来も見えてくる世に言う、「三つ子の魂百まで」とは、いつどのように作られていくのでしょうか。
私は6人姉妹の次女として生まれ育ちましたが、子どもの頃から他の5人と
は何もかも大いに違っていました。そして子ども心にそのことを不思議に思っていました。
「60兆(⁉)もの細胞で成り立っている人の遺伝子はみな同じ」とかの有名な遺伝子研究の第一人者、村上和雄氏はおっしゃっています。そうだとすれば、その遺伝子上に個別の情報を書き込むのは、ひとりひとりの固有の経験ではないかと思うのです。
そのように考えてみると、確かに、同じ時代に、同じ町で、同じ両親から生まれたのに、私は他の姉妹とはまったく違う経験をしています。たとえば、子どものいない伯父が、6人姉妹の中の私をなんとしても養女にしたくて、何度も東京の伯父の家に連れて行きました。3歳から6歳の頃のことでした。
今から6.7年前に二重県の実家と東京を夜行列車に揺られて何回も行き来した子どもはそう多くはありません。
6歳で何度目かに東京に連れてこられたとき、伯父が勤める茅場町の大きな会社に伯父と一緒に出勤したことがあります。伯父が仕事をしている間、自由に社内で遊ぶことを許され、オフィスをくまなく散策したことを今でもよく覚えています。広い建物の中央に大きならせん階段があり、お姫様気取りで何度
も上ったり下ったり……。今でも忘れられません。田舎の子が大家族のもとを離れ、たったひとりで大都会にやって来て、他の子は行けないようなところへ行く。周りは時代を象徴するような大人ばかりの世界でした。
子どもとしてはかなり変わった体験だったと思います。
もうひとつ、これも珍しい体験なのかもしれません。伯父が私の関心をひくためなのか、毎日、象形文字から始まり、言葉の読み書きを教えてくれたこと
です。そのおかげで故郷の小学校に入学したときには、すでに3年生くらいまでの読み書きができたため、先生の授業は退屈で仕方ありませんでした。授業に身が入らない私に、親も先生もいつも頭を抱えていました。そんな小学生の頃、私のお気に入りの遊びは、紙芝居や壁新聞を作ること。後年、現在にいたるまで一貫して情報分野に携わり生きているのは、きっとこのあたりの原体験「三つ子の魂」のなせる業だと思います。
今の私をつくる「原風景」と「原体験」
伯父とは逆に、父は私に大自然、大宇宙を体験させてくれました。故郷の桑名に戻っているときは、父と一緒にたくさんの小さな旅に出かけていたこともよく覚えています。父は、仕事が休みの日には、趣味のヵメラを担ぎ、私の手を引いて故郷の山河をくまなく歩きました。
父はお百姓仕事や牧場をしている家の長男だったけど、それを継ぐのが嫌で、自分で修業して商人になった人です。世界中のヵメラを集めるのが趣味で、その愛器を携えて、よちよち歩きの私を連れて、三重県中の海山に連れていってくれました。
あるとき、父と一緒に山火事に遭遇したことがあります。父は、麓の村人に知らせに山を下り、村人が総出で火消しの道具を担いで大声をあげて上がってきました。今もその様子が映画のワンシーンのように思い浮かびます。そのとき父は、幼い私をひとり山に残していったのです。残された私は、山林の中で、風と一緒に踊る炎に見とれていました。その音とにおいは、今でも五感に焼き付いています。
また、あるときは、断崖絶壁に立ち、「あの向こうにはアメリカという国がある」と父は指差し、私は大声で唱歌『海』を歌いました。
うみはひろいな、大きいな、つきがのぼるし日がしずむ(中略)うみにおふねをうかばせて行ってみたいな、よそのくに
(作詞 林柳波)
この歌詞の持つパワーは、そのときの情景とともに、紛れもなく私のDNAに刻まれていました。
これも、私の原風景のひとつです。
母の後ろ姿が教えてくれたこともあります。終戦直後、家を焼かれ、私たち一家は食糧難に見舞われました。母は8人家族を食べさせるため、自分の着物や父のカメラを持ち出して、米や野菜を買い
出しに行っていました。あるとき家の外で待っていると、母が山のように食糧を積んで帰ってきまし
た。ところが「ちょっと待っててね」とそのまま通り過ぎ持っていたお餅が半分になっていました。餓鬼と化した私は母を責めました。後年わかったことですが、母は町内の、夫が戦地から戻らない、または戦死した、幼い子のいる家庭を回って、お餅や豆を分けていたのです。そんな母に動物的に反抗していた私ですが、その母のDNAをしっかり受け継いでしまっていることに、今は苦笑する思いです。
両親、伯父、そして生まれ育った環境が、ひとつひとつ小さなスイツチを入れてくれたからこそ、私が私として存在しています。そして、これらの経験はすべて私だけのもので、誰ひとり共有してはいません。
同じ場所にいても、同じような風景を見ていても、同じような体験をしても、それぞれの受け止め方も違います。そのときの感じ方も違えば、その後の選択のすべてが、誰もが違う……だからこそ人それぞれの人生に意味があるのだと思います。
あなたは、自分自身のルーツ、原風景や原体験を覚えていますか?慌ただしい日常の中で、いつの間にか消えてしまっていた記憶を一度たどってみると、今の自分が見えてくるのではないでしょうか。
20代はカッコ悪く生きてみる

偶然は何ひとつないということ
これまで何と多くの岐路に立たされ、それらを意識的に、あるいは無意識の
うちに右、左、止まれ、進め― と選んできたのでしょうか。何万、何百万という人生の交差点。その都度、迷いながら悩みながら選んできた道ですが、あのときもし右でなく左を選んでいたら、どうなったのでしょう。でも、もしかしたら、どの道を選んでいたとしても今の仕事をしている私が
ここにいるのではないか、ということを考えます。
どのように選択しても行き着くところは同じ―‐そう思わせる経験がこれまでいくつもありました。偶然なのか、運命なのか、交錯する瞬間。とんでもないシンクロニシティ(synchronicity=共時性)を感じる出来事によく遭過してきました。
私の場合、すべての選択は、9歳のときに体験した戦争の恐怖と生還の記憶から始まります。戦火の中、生かされた大切な命。世界の平和のために自分の人生を捧げようと誓ったのです。
そして、7歳のとき。ニューヨークの世界博覧会のコンパニオンに選ばれたことも偶然か、運命のいたずらか、シンクロニシティな出来事のひとつです。
その頃の私は大学を卒業してからどこにも就職できずに今でいうフリーターのような状況でしたが、さまざまな仕事を経験し、たくさんの人に出会いました。だからこそ、その流れの中で世界博覧会のコンパニオンに応募することもできたのです。
おかげで、それまで私の目標だったアメリカに行くという夢もここで叶えることができました。
そして、ニューヨークで「TAS」(テレフオン・アンサリング・サービス)というニュービジネスとそれを創った女性起業家に出会ったおかげで、私は氷河期の日本で氷を割って起業する勇気をもらったのです。素晴らしい人やチャンスとの出会いも、シンクロニシティも、何もしなければ訪れません。自分自身が望み、選択して行動することによって運命が開ける、私はそう思っています。
一生懸命生きていたら、カッコいいわけがない。今の若い人たちがよく「カッコいい」と口にしていますが、その「カッコよさ」がどのようなものなのかと心配になることがあります。もし仮に「カッコよさ」は見た目のことを指すならば3代4代と大事な年齢になったときに、空疎に思えてしまう時が来るのではないか、と。青春とは、真剣に過ごせば過ごすほど、うまくいかないことや壁にぶつかったり、親がうるさいと感じたりするもので、決して「カッコいい」ばかりではなく、むしろ「カッコ悪い」時期なのではないかと思うのです。
必死に生きる、がむしやらに生きるって、現実社会の中ではカッコいわけがありません。

私は就職試験で企業から門戸を閉ざされ大学を卒業後3歳で起業するまではずっと、当時はそんな言葉すらなかった「フリーター」でした。就職できない、誰も雇ってくれないなら自分で会社を興そうと決めてはいましたが、「10年後に会社を作る!」という決意だけは固くても「どんな会社を作るのか」
1といったことは何ひとつ決まっていません。
どんな仕事をするかも何も決まっていないのに……無謀だ、めちゃくちゃだ、と言われればそうかもしれません。しかし会社を作るという大目標があるからこそ、資金も経験も積みたいと必死でした。掛け持ちしたアルバイトも1つ、2つではありません。3つ、4つ掛け持ちをして、寝る間も惜しんでひたすら
働いていましたとにかくがむしやらに働いて日述筆記やテレビのレポーターなど、いろいろなことにチャレンジして、いろいろな人に会って、人の4倍働きました。
そのために過労がたたり、銭湯で倒れ、身元不明の行き倒れとして交番のお世話になったこともありました。会社を興すため、銀行日座を開設しにいったときも、銀行員に足蹴にされ、それでも通い詰めていた時代。どう?・カッコいいですか?
それでも、不器用に必死に生きていると、不思議と周囲に手を差し伸べてくれる人が現れるものです。私は多くの恩師に恵まれました。仕事を紹介してくれた方や励ましの言葉をくださった方、厳しいながらも思いやりを持って指導してくださった方、そし、飯食ったか?」と聞いてくださった方。人から、「飯食っ

て私に会うと必ず「たか?」と聞かれるなんて、カッコいいことでは決してありません。けれども、毎回会う度に必ず聞いてくださった。当時は、いつもお腹を空かしていましたから、「いえ、まだ食べていません」とひとこと言えばよいものを、そんなときほど強がり、やせがまんをしてみせる可愛気のない私でした。今では安心して誰にでもご馳走になりますが。
20代カッコ悪く生きられるとき、そして思いっきリカッコ悪く生きているほうが様になるときでもあると思うのです。それに、これから先の長い人生を自力で生きる力とその中で本物を見つけられる目を身につけるためには、カッコ悪い時代をぜひ通過してほしいと思います。
自分で稼いでもいないのにブランドで身を固めることをカッコいいとするのか、今、見た日にはカッコ悪くても後日、月日を経たときに、生き様において
カッコいい人間として子どもや友人から尊敬される人になろうとするのか。選択するのはあなたです。

働く女性の能力は、表情・声・言葉・態度の総合力
男性と仕事をしても、男装はしない
私がダイヤル・サービスという会社を立ち上げたのは、1969年。大阪万博の前の年です思い返せばアメリカの宇宙船アポロー号が人類初の月面着陸に成功し、その映像とアームストロング船長の「ひとりの人間の小さな1歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍の第1歩だ」の言葉が繰り返しテレビ画面から流れていました。
まさに、私にとってもみすぼらしくも大きな第1歩を踏み出した時でもありました。
今の人たちには、想像もできないと思いますが、当時の日本はまさに男性社会。女性の社会進出どころか、女が田舎から上京して、東京の四年制の大学に進学することすら珍しかった時代です。25歳定年説がまかり通っていた当時、女性の就職率は高卒という学歴が最も高く、しかも女性の仕事はお茶汲みと電話番というのが常でした。ですから、結婚してからも仕事を続けるというケースもごく稀なこと。そんな中で、女性が会社を作るのはとんでもなく大変なことでした。
しかし起業よりさらに大変だったのは、男性社会にどっぶり浸かって生きる男性たちに交ざって、紅一点で仕事をすることでした。
今では、「女は家に入って子どもの世話でもしてろ!」なんて、そんな発言をしたらたちまち訴えられかねませんが、当時、そんな言葉を何度聞いたことか。その時代は言葉に出さなくても、ほとんどの男性がそう思っていたのではないか、と思えるぐらい、あらゆるセクハラがまかり通っていました。
そして、それよりもっと驚いたのは、男性とともに働く女性たちが男装をしていたことです。
仕事のため某大手企業を訪れたときのこと。何度も門前払いにあいながらも、足繁く通い続けていたとき、そこに立ちはだかったのが、なんと男性ではなく、「男装をした女性」でした。彼女は身振り手振り、歩き方まで男性を真似て、まるで、宝塚の男役のようでした。そして、あからさまな意地悪をしかけてきたのです。
その意地悪もさることながら、女性が男性と仕事をするときには身なりまで男性のようにしなければいけないのかと、切なくなりました。
また、ある弁護士の方は黒っぼいパンツスーツに身を包み、ネクタイに男ものの靴、遠目に見たら男性そのもの。後で考えれば、新聞記者や弁護士という職業に就き、多くの男性たちと対等に渡り合うには、必要な防御服だったのかもしれません。でも、話してみるととても優しい女性、なぜこのような方が男装という選択をしなければならないかと、その背景に心が痛みました。
そこで思い出したのが、私がダイヤル・サービスを設立するきっかけとなったニューヨークの「TAS」(テレフオン・アンサリング・サービス)という会社とそこで働く女性たちのことでした。
1964年に世界博のコンパニオンとして訪れたニユーヨークで偶然見つけて訪れたのは、なんと女性社長のもとでたくさんの女性たちが働く電話応答サービスの会社でした。マンハッタンの一角にあるそのオフィスの扉を開けた瞬間、体の中を突風が吹き抜けたような気がしたのを今でもはっきり覚えてい
ます。ヘツドホンをつけた女性がずらりと並び、スイッチボードのコードをつなぎながら、そのボードに向かって一斉に話しかけている。しかもオフィスは、清潔で美しい。日の前に広がる風景は、何から何までそれまで目にしたことのないものでした。
に「いったい何のサービスをする会社なのかと」、電話で問い合わせた私に、興味があるなら、見に来れば」と言ってくれた女性がこの会社の社長だったことに一層驚きました。しかも見知らぬ外国人の訪問者に対して何という美しい笑顔と身振りで迎えてくれたことか。こんな女性が大勢の人を使い、新しいビジネスを展開しているということは、本当に驚きでした。はじめて会った彼女に、「自分の会社を作りたいが、日本ではまだ女性が働く環境がない」と話すと「アメリカでも、ついこの間まで日本と同じ状況だったのだからあなたの気持ちは痛いほどわかるアメリカでもグラス・シーリング(ガラスの天丼)と言われ、女性にとって見えない天丼があったけれど、私たちはその厚いガラスを取り外してきた。日本は今が氷河期だとしたら、その氷は誰かが割るしかない。それはあなたよ」と言ってくれました。幾度となく襲ってくる絶望と戦っていた頃の私に、どれだけ大きな勇気と希望を与えてくれたかは、言うまでもありません。当時の日本では、男性も、女性も、私に「がんばれ」などという言葉を誰もかけてくれませんでしたから。もうひとつ驚いたことは、彼女たちの女性らしい服装です。彼女たちはみなやわらかい服を着て、女性としてのきめ細やかな発想で、生き生きと働いていました。
男性と張り合うのではなく、「女性だからできる仕事」「女性にしかできない
発想の仕事」を創り出し、社会を豊かにすればいい、日の前に立ちはだかる男装の女性たちを見ながら、思いを新たにしたものです。
もし、私が男性と張り合うために男性のような服装を選んでいたら?・そんなことは考えたこともありませんが、多分、ダイヤル・サービスのような仕事を選んでいなかったように思います。
身だしなみは心の表現です。身なりまで男性のようになってしまうと、せっかくの「女性らしい発想」や「女性特有の感性」といったものは生まれにくいし、電話秘書サービスに続く「赤ちゃん110番」「子ども110番」というアイデアも生まれなかったのではないか……と。
女性は女性らしく、女性として働くこと。それこそが私たちの特権なのではないかと思っています。
あえて黒いストッキングをはくという選択
そんな、働く女性たちが「男装フアツション」で武装していた時代、なぜか女性のストッキングはベージュ……といった考え方が浸透していたようです。
あの頃の世間一般の常識でいえば、黒いストッキングをはくのは水商売の人 ……という概念があったようですが、私はおかまいなしで、黒いストッキングをはきました。なぜなら、自分が今日着ているこのグレイのスーツには、どう考えてもベージュのストッキングより、黒が似合うと思ったからです。
着ていく洋服の選択ひとつとってもそうですが、世間一般の固定観念にとらわれる必要はないと思うのです。自分を表現するのに何が似合うのか、その場面を想像し、選択できることが最も重要です。3000円のネツクレスのほうが、0万円のネツクレスよりも
1自分に似合っているならば迷わずそれを選びましょう。つけている本人が好きであれば、素材や価格に関係なく美しく輝いてくれます。自信を持ちましよう。
「リクルートスーツ」という言葉もあるように、何年か前から、就職活動の時期になると、町には紺やグレイ、黒のスーツを着た若者があふれかえります。今やお受験の世界でも、子どもたちの服装、そして引率する母親の服装も、「こうでなければいけない」といった概念や、もっとエスカレートしていくと、「これを着なければ受からない」といった情けない暉まで広がっているそうです。
服装は、もちろんTPOをわきまえなければいけませんが、他の人がこうだからといって自分自身も同じにすべきとは限りません。フアツションや身なりにおいても、固定観念や流行に惑わされず、まずは自分を知り、表現することです。

ケモノ道も軽やかに歩く
「髪を振り乱して働くなかれ」これは私の持論です
文字どおり、なりふり構わず働くのではなく、人の視線を意識して、TPOをわきまえ、節度ある服装で仕事をするということ。高価でフアツション性の高いものを着るという意味ではありません。自分らしく、どこに出ても恥ずかしくないスタイルを選ぶということです。もちろん、服装だけのことではありません。姿勢や言葉遣い、身のこなしも同様です。
忙しくてそんなことに構っていられない、という人も多いでしょう。「私がいいと思っているのだから放っておいて」と言いたい人もいるかもしれません。でも、それは、仕事人としてみたときにも、自分の魅力を半減させ、時として評価まで下げているということに気づいてほしいのです。
もっとも、私自身、偉そうなことを言えない時期がありました。服装やお化粧よりも仕事l 部屋着のまま飛び出しそうになるほど、なりふり構わず、髪を振り乱して飛び回っていました。それに気づかせてくれたのは、何を隠そうかつての夫。彼は結婚する前から私が仕事を続けることを了承し、また私の会社設立、運営のための資金繰りに強引に協力させられても文句も言わない、働く私にとってまさにク理想の夫″でした。仕事のことにはいっさい口出しせず、何も聞かない彼が、私に唯一言ったことがあります。「髪を振り乱して働くのはやめたほうがいいよ」と。ハッとしました。
以来、私はきちんと身だしなみや髪を整えてから、毎日会社に行くようにしました。そして、そんなことが、実は仕事に大きな影響を与えることを知りました。
何が変わるかというと仕事や人に対する姿勢つまりは自分の「心持ち」「心のたたずまい」が変わるのです。自分の心持ちが変わると、ビジネスの場における相手の「心持ち」も同時に変わるのです。私が会社を立ち上げた頃、アメリカである女性マーケッタ―が面白い実験をしたということを聞きました。そのレポートによると、同一人物が、服装やメイク、身なり、言葉遣いまですべて使い分けて、2人の人物になりすましました。1人は、背を丸め、わざとボサボサ髪にノーメイク、薄汚れたバッグをぶら下げ、ダミ声で汚いスラングを話しました。もう1人は、全身、清潔にして品の良さが漂う服装を身につけ、きちんと髪を束ね、微笑みながら、話す言葉は簡潔で、知性を感じさせるものでした。
同一人物の演じるこの2人は、まったく同じコースで街の中を歩きました。ホテル、レストラン、デパート、劇場、そして有名な大企業もいくつか訪間しました。その結果はご想像のとおり。1人目の女性は、ほとんどの場所で疎まれ、追い返されることもありました。2人目の女性は、同じホテルの執事やマネージャーたちが、うやうやしく迎え、丁重に案内してくれました。そして最もその落差が大きかったのが、大企業だったそうです。
実はその後、私自身まったく同じ実験をしてみました。機会があれば発表し、研修などにも生かしたいと思っていますが、日本では、その落差はもっと大きなものでした。
自分が変わると、周りがこんなにも変わるという現実です。私が起業したダイヤル・サービスは、それまでにないニュービジネスで女性がはじめて起業した会社です。私は女性起業家第1号でした。
「女が仕事?まさか。女に何ができる」
と何度言われたかわかりません。そんな男社会に対抗するには、日尻をつり上げ、ついつい髪を振り乱してしまいがち。でも、私が立ち上げた会社は、女性たちが女性たちのために働く、女性だけの職場。女性ならではの感性とアイデアが勝負ですから、髪を振り乱して戦うのではなく、女性の代表として、その後に続く女性の登用、女性活用時代に向けての試用実験中の「サンプル」として振る舞う必要があったのです。
女性は女性らしくその特性を生かし、言葉や身のこなしも美しく、人にどう見られているかを知ることでさらに魅力的になれるのです。

バカヤロー! と思ったら、心の辞書で「ありがとう」と変換を!
魔法の言葉「ありがとう」で人生を変えよう
ありがとう―。とてもいい言葉だと思いませんか。1日に何回口にしているか、と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょう。ある日、某大学名誉教授の勝俣先生という方から、「日本ありがとう協会」を作るから会長になってほしいと言われました。「えっ、どうして私が?」と驚くと、先生はこう言いました。
「いつか、自分は毎日20回ありがとうを言うと話したとき、今野さんは20回じゃ、朝のうちに使い切ってしまうとおっしゃった」確かにそんなことがありました。毎日数えているわけではありませんが、長い1日に「ありがとう」と言う回数は、少なくとも100回は超えているはずです。
でも正直に言うと昔からそうだったわけではありません。若い頃は、「ありがとう」という言葉を、1日に1度も言わない日があったかもしれません。当時の私は、自然に「ありがとう」と言えるような環境にも状況にもなかったからです。「こんなに一生懸命がんばっているのに、やることなすこと意に反することばかり。もうやってられない、限界 ―」「バカバカバカー」
言葉に出していたかどうかは覚えていませんが、それに近い気持ちを抱えた日々の連続でした。
そんな20代30代代でしたが、体力気力、負けん気力にまかせて突っ走ってきました。
ところが50歳を過ぎた頃、思いもよらないことが起きました。
ある朝、日覚めたら体中から力が抜け、歩くこともできません。鏡の中には、見たこともない老婆が、生気のない眼をショボつかせて私を見ていました。
その頃、私の身には次々と事件が起きていました。
父の死、離婚、愛猫ダイちゃんの死、仕事でも、長年支えていただいたクライアント様との相次ぐ契約終了、手塩にかけて育てた大切な社員たちの辞職。ニユーヨーク支社での裏切りと訴訟事件など、心を引き裂くような事件が続いたのです。心に何本ものナイフが刺さったままでした。しかしそれまでのように、何があっても受け入れて自分の中で処理するしかありません。私に限らず、経営者には、相談する人も安心して泣き顔を見せられる人もいないものです。そういうことが起きたとき、あらためて孤独な世界を生きているという実感に立ちすくみます。自分にも限界があるということを知りました。
小さな生命に感謝する。無残で無念の日々が続きました。人生を辞めるか、復活するのかという選択と決断を、自分自身で追い詰めて迫っているようでした。
そんなある日、北海道伊達市に暮らす友人から電話がありました。「マラソンゴルフをやりましょう」マラソンゴルフとは、1日に徒歩で何ラウンドできるかというゴルフ競技でした。歩けなくなってしまっていた私にとって、何ラウンドも歩くなどということは最悪のお誘いでした。しかし、さまざまな決断を迫られながらも抜け出せずにいた私は、藁をもつかみたい気持ちでしたから、すぐさま北海道へ飛び立ちました。
前の晩は、若い仲間たちとの激励会があり、遅くまで談笑し、2時間足らずの仮眠で千歳市内にある「ザ・ノースカントリークラブ」へ行き、そのマラソンゴルフが始まったのです。他の人からみれば、単なる「マラソンゴルフ」だったのかもしれませんが、
私にとっては人生の進退をかけた大きな賭けでもありました。
前夜眠りにつく前、人知れず長い祈りを捧げていました。
「これまで、人一倍がんばってきました。もう十分やったと思われるならばそうお知らせください。もしまだ私の役割があるのなら、そのように答えをください!」
もっとがんばるべきか、退くべきか……。私が、その答えをかけて、マラソンゴルフに参加していたとは誰も知りません。そしてその答えは、信じられない感動に満ちたものとして返していただきました。
夜明け前の北の大地は、生命の気が脹みなぎっていて、吸う息も吐く息もどこか遥かなところにつながって、誰かが私を見守ってくれていると感じました。
ボールを追いかけ草むらに入ったとき、ふと、小さな美しい世界に迷い込みました。ほんの一瞬の出来事ですが、目を凝らすと、何千何百もの極小のクモの子たちが、それぞれに巣を作り、そこについ先刻通り過ぎた朝霧が目に見えないほどのダイヤの粒をつけていったのです。そしてそこに絶妙なタイミングで、地平線から顔を出した大きな太陽の光が差し込み、そのダイヤモンドが一斉にキラキラと輝き始めたのです。
あたり一面から生命讃歌のシンフオニーがわき上がっていました。
荘厳な光と命のシンフオニー。たったひとりの観客。感動のあまり、ボールを打つことも忘れ、泣き出してしまいました。
いろいろなことがあっても、いつも助けられ、守られてここにいる。
健康な身体で、人間という恵まれた存在であるということも気づかずに、毎日、「辛い」「苦しい」「悲しい」と嘆いたり怒ったりして暮らしている自分。このクモの子たちは、誰からもその存在すら気づかれず、ほめられもせず。
評価もされず 一夏の短い命のために精一杯生きている
身体は健康なのに、心が健康でない自分を心から恥じました。
このときを契機にどんなときでも「今は理由があってこの試練があるのだ」と受け入れられるようになり、何が起きても自然に「ありがとうございます」と言えるようになりました。そう考えてみると、あの地獄の試練にも大きな意味があったのだと思いました。あれだけの経験なしには、とても立ち止まって、生命のこと、人生の大切なことについて考え直すことなどなかったでしょう。気のせいなのか、あれ以来、私は病気で倒れることもなくなりました。恐らく、まだまだ未熟とはいえ、毎日の感謝の気持ちを込めた「ありがとう」という心のビタミン剤のおかげではないかと思っています。

「ありがとう」が自分自身と相手の気持ちを変える
日常的に、うまくいかないことや、何でこうなるのだろう、そんなバカな、と思うようなことが起きています。しかしそんなとき、「ありがとう」と心の中で感謝の気持ちに置き換えてみてください。私自身の体験から、「ありがとう」という言葉が、日常的に魔法の力を発揮することはわかったのですが、まったく想定外のことでも活躍することもあるからです。
たとえば、夫婦喧嘩でもいい、取引先とのやり取りでもいいでしょう、何かトラブルが起きてしまった相手と厄介な話をしなくてはならないときがあります。相手は緊張でこわばっています。どちらから口火を切ったとしても、いきなり攻撃的な言葉で会話が始まってしまったら、収拾がつかなくなるような状況です。相手にも、自分にも言いたいことは山ほどあるかもしれません。しか
しそんなとき、顔を合わせた瞬間に、「今日はご苦労様です。ありがとうございます。よろしくお願いします」という言葉で先手を打つという選択肢もあります。
たとえその場では、相手に無視をされても、返事がなかったとしても、気にする必要はありません。「ありがとう」という言葉の持つ魔法の力はその瞬間に確実に効果を発揮していますから。
職場で、家族と、友人と、恋人と、誰とでも、どんなときにも、機会を見つけては「ありがとう」と声に出して言ってみてください。最初は慣れなくても、意識して努力して身につけていくうちに、自然と言葉に表情に態度にその感謝の気持ちは表れるようになるでしょう。
そうなればしめたもの、あなたの人生はきっと大きく開花していくことで
しょう。

ありがとう。そして、GOODLUCK!

2章群れずに「ひとり」という人生の戦法を選ぶ
楽な道と険しい道、2つの道があったら険しい道を選んでみる
誰もやらないことをやるという選択
私は、日本ではじめての電話サービス事業を立ち上げ、女性起業家として会社を設立しました。そして、情報料の代理徴収や二重課金制度を提言して天下の電電公社(現NTT)を相手に闘いました。身の程知らずとはいえ、なんとやりがいのあることでしょうか。
今でこそそんなふうに思えるようになりましたが、かつて誰もやらなかった
ことをやるという選択には、数々の苦難が押し寄せてきたものです。
「女が会社を作るなんて」
「女性だけで会社はできない」
今まで誰もやらなかったことを始めたとき、そのことを面白く思わない人が必ずいました。それどころかあからさまに敵対する人たちもたくさん現れました。しかし、「逆境こそ勝ちにいくのだ」という強い気持ちで挑み、真剣に生きていると、はじめは敵対する存在として現れた人や出来事が、いつの間にか味方に変わっている……。そんなことも数多くありました。
はじめは敵対する立場でも、お互い少しは共感できる部分はあるものです。すると、いつの間にかその関係が変化し、誰よりも信頼できる味方になっている……。こうした体験から言えることは、人生に行き止まりはないということです。苦労はした、試練も多かった、何も実らなかった、でも、そこで終わるのでなく、それらはめぐりめぐって、思わぬところで実を結ぶということを知りました。

驚きと発見を得られるケモノ道
困難に立ち向かったとき、よく人は、「2つの道で迷ったら厳しい道を選ぶ」と言いますが、私の場合は自分らしさで選んだら、結果として険しい道を選んできたというだけです。はじめから、あえて厳しい道を選ぼうなどと思っていたわけではありません。
いろいろなケースがありますが、直感的に選ぶこともあるし、これはこっちを選ぶべきだな、と自分に言い聞かせて選ぶこともあります。険しい道と楽な道についていえることは、人の歩いたことのない手つかずの道である「ケモノ道」には、みんなが通った踏み固められた楽な道にはない、
新たな発見や出会いの喜びや驚きがあり、間違いなく刺激的だということ。でもその分、道に迷ったり滑ったり転んだりのリスクもあります。
何事もやってみなければわからないし、経験してみなければわからないもの。ケモノ道は、手あかがついていない道だからこそ、知り尽くされた道よりも、リスクの分だけ収穫も多く、そうした経験の積み重ねの中で直感力と決断力、人間力が試され、磨かれていきます。
選択の正誤をどんなスバンで考えるのか
私は、滅多に後悔はしません。もちろん、いくつかの大きな過ちを犯したこともありますが、選択の正誤というのは短いスパンでジャッジするのと、長いスパンで判断するのとでは評価が違うように思っています。
これまで何人もの素晴らしい師にお会いしてきましたが、そのおひとりは元経済企画庁で、その後も国土庁事務次官などを務めて戦後の日本を創ってこられた下河辺淳さんです。0代の後半に下河辺さんに厳しく育てられ、多くのことを教わりました。たったひとつをあげるなら、
「自分の仕事に目先の評価を求めるな―」
「100年後の人に評価されるような仕事をせよ」と言われたことです。
すぐに目先の評価を欲しがる、ほめてもらいたがる、代価を求める、あさましいやつだ、と言われたこともあります。
その頃の私は、会社を立ち上げて十数年、まだ軌道に乗るところまでいかず、社員のお給料をはじめ、いつも運転資金が気になっていました。「世のため人のため」という企業理念を掲げてはいても、零細企業の社長の責任は、日々お金をどこかから集めてくることです。
経営者としての日々の役割と、ダイヤル・サービスや生活科学研究所の掲げる高い理念の板挟みになって、お金に換算すると、私ほど、がんばった努力とその成果のバランスの悪い経営者はいないのではないでしようか。
どんなときでも、「貧すれば鈍す」にならずにがんばれたのは、人を幸せにするという理念が企業活動の大前提にあったからだと思います。利他ではなく利己に基準を置きすぎると、どうしてもどこかにほころびやしわ寄せが出てしまうものです。
ダイヤル・サービスや生活科学研究所がこの世知辛い時代を40年余りも生き延びられたのは、社員のひとりひとりがこの理念に共鳴してくれたからだと思います。まさに「社員力」のおかげでした。

打たれても出る杭になりましょう!
打たれ上手になる
はじめにも、私自身の「三つ子の魂」の体験を少しだけお話ししましたが、子どもの頃から「変わっている」と言われ、大人になってからもそれは変わりませんでした。人から何を言われようが、「変人」「奇人」で居続けることも大切だと思っています。

なぜかというと 出る杭は打たれて当たり前恐れていては何もできないと思っているからです。
人とは違う選択をすると、女性からも、男性からも打たれることがあります。面白いことに、女性と男性では打ってくる場面も違えば、打ち方も違います。
私が起業した当時は、女性経営者という存在が、周りにほとんどいませんでしたから、いい意味でも悪い意味でも、とにかく目立つ存在でした。このときほど、女性にも男性にもいっぱい打たれたことはありません。
その時代をたとえるなら、モグラたたきゲームといったところでしようか。しかも、モグラたたきのモグラが数匹しかいないせいで、そのうちの1匹である私は、穴から出る回数も多い分、打たれる回数も多いモグラだった、ということです。
でも、私は天性の「打たれ上手」だったと思うのです。
打たれ上手というのは、たとえば、打ってくる対戦相手が男性であれば、その人が自分のサポーターになるまでは、戦略的に相手の男性を打ち負かさないということです。本気で挑めば勝てると思っていても、
男性を相手に打ち負かしてしまってはいけないのです。もっと陰湿な手を使わせない戦略として、です。とにかく打たれ続けること。そしてその間もずっと出る杭で居続けること。出る杭は気になるものですが、勝負をつけて一生の敵にしてしまうよりも、勝負を続ける中で「なかなかやるな」と認めあい、よい関係に変換させてしまうのです。
女性の意地悪は男性の意地悪とはまたひと味違います。自分より若い、日立つ……。古今東西、永遠のテーマです。そんなときでも逃げないで、相手の視野の中に居続けることです。むしろその女性に向かって、心の中で「ようこそ、ようこそ、打ってくださってありがとう」ぐらいの気持ちで迎えます。そして、決してその女性と同じ土俵には上らないことです。女性の場合は特に、打たれても響かず、笑顔で「ようこそ、ようこそ」「ありがとう、ご苦労さまです」と言われ続けると、「もういい、わかった」という気持ちになります。同じ土俵に上がり、日くじらを立ててしまっては彼女たちの思うつぼです。
徒党を組んで襲われるような事態を作らないことが大事です。

不思議な話ですが、この方法をとってみると、いつの間にか男性にも女性にも打たれなくなってくるものです。
女性起業家という目立つ存在のせいで、特に同じ世界の女性の妬みや意地悪は半端ではなかったように思います。でも妬みや怒りからは何も生まれてはきません。
そんなことにエネルギーを使うのはもっとも損な選択です。
私は絶対に人の悪口を言いません。陰回はもつと言いません。言いたいことがあれば、本人の前でしっかりと伝えます。マイナスのエネルギーは時間の無駄、自分に何の得もありません。何事も、ハッピーエナジーに変えていくことが一番です。おかげで今は財産とも言うべき、たくさんの仲間や友人に恵まれ、最高にハツピーです。

用意周到もいいけど、当たって砕けてみるのもいい
突然のハプニングも受け入れてみる
何かを決断するとき、なかなか決められないというのは迷っている証拠。すぐにできるときには、パパッと物事は進んでいくものです。私の場合、これまでにいくつもそういう場面がありました。養子縁組をして現在一緒に暮らす息子、譲司との出会いも、突然に私のもとに降ってわいた異質な出来事でした。

「お母さんになってください」と目の前に現れ「あそうなの。じゃあいいわよ」と3秒で返事をしたものの、それまでの私は、6人姉妹の次女に生まれ、女ばかりの人生でしたから、男の子と暮らしたことなどありません。それでも、ごく自然に受け入れたことで、彼との暮らしは私に日々驚きと成長を与えてくれています。
大事な対談や講演といった場面でもそうですが、台本を作り入念に準備して
行ったとしても役に立たないことがあります。台本をもたずにそのときの流れに従い、臨機応変に話をしたほうが、私の場合、うまくいくことが多いような気がします。用意周到に準備したことよりも、突然のハプニングを受け入れてみる。進みながら学ぶことは多く、また何かさらなるハプニングが起きたなら、舵取りを変更すればいいのではないでしょうか。

押してもダメなら、勢いをつけて押してみる
今しかできないことは今やる。でも今がタイミングでないことだってあります。それならロングスパンで考えて、いつかはできると諦めないことです。「押してもダメなら引いてみな」そんな言葉もありますが、その前に押してもダメな時に、もっと本気で気合いを入れて押してみたのでしょうか。本当に開けたいのなら開くまで押しましょう。これが成功の秘訣です。やりたいことがあったら諦めてはダメです。
何でもそうですが、すぐに結果が出ないことや嫌なことを簡単に諦めてしまってはいませんか?。たとえば、人づきあいにおいても、嫌いな人や苦手な
人を避けて近寄らないという人は多いと思います。でもそれは損な選択です。私の経験では、今の大切な友人の中には、はじめの頃お互いに「わあ、苦手」と思っていた人がたくさんいるからです。こういう人は、自分の考えや譲れない主張があって、お互いにぶつかることが多いのです。それが苦手意識につながるのでしょう。何でも気前よく同調してくれる人も大切ですが、それだけで選択していると、自分を見誤ることもあります。
苦手、嫌い― と思っても、さっさとリストから外さずに自然のなりゆきに任せてみることです。すぐに好きになれなくても、ちょっとしたタイミングで相手も同じ気持ちで機会をうかがっていることがわかったりします。意外とそういう人とのほうが長く、深い友人関係を築くことができるものです。

群れずに「ひとり」という人生の戦法を選ぶ
群れると集うは違います
ダイヤル・サービスに寄せられる相談の中に、子どものいじめに関する相談が数多くあります。そしてその大半が、いじめられている側からの相談よりも、いじめている側からの相談だということに、はじめは驚きました。
よく考えてみると、いじめは、群れから外れるときに、または外れている子どもが標的になっています。つまり、いじめられている子どもは群れに属さず
独立した子どもで、いじめている子どもたちは群れていないといられない子というわけです。いじめにしても、万引きにしてもみんな、悪いことだとわかっていても、群れから外れる恐怖、群れから外されたとき、自分がやられるという恐怖から仲間のようにふるまってしまうのです。
これは子どもの例ですが、大人の場合でも同じです。ある群れに属さないと。ひとりになる 一緒にいるのは嫌だけどひとりも嫌だからといって自分の意思に反して、群れに属することを選ぶのか、それとも群れずにひとりでいるのか……。
社宅の奥様たちの集い、PTAの集まり、学校の女子グループ……。たまたま、自分が今いる集まりに、人の悪口やいじめなどがあるような場合、いつまでもそこにいる必要はないのではないでしょうか。
私は子どものときから、群れから外れた存在でした。学生時代も、社会に出てからも、どこかの大きな組織に属することもなく、たったひとりで戦ってきました。群れなかったというより、群れている暇のない青春だったと言うほうが当たっているかもしれません。20代前半はアルバイトに明け暮れ、後半は世界を放浪しながら起業の準備をしていました。
人それぞれ、選択した道によって、「群れ」自分」の関係もまたそれぞれです。群れていない者同士で、今の私の友人関係は作られています。

勝ち抜く意志とやりぬく覚悟
やり続けることで歴史が刻まれます
自分が真剣に目指す道に進んでいるときに限って、「なんで?」と思うほど、さまざまな邪魔が入ります。これまた不思議なもので、いい加減なことをしているときは、決して邪魔など入りません。
私はこう思います。大切なこと、本気でやるべきことだからこそ、自分の意志が試されているのだ、と。
ですから、本気で始めたことなら、どんな邪魔が入ったとしても、決して諦めずに、やりぬくことです。
そのとき、これは真剣勝負なのだということをしっかりとアピールするべきです。やりぬく意志とがんばっている姿を見せて、理解者を増やしていけば、少しずつ外からも評価されるようになり、それがまた自分自身の自信につながっていくからです。
また、新しいことに挑戦する、というのは、そのインパクトの大きさはどうであれ、新たな歴史を創っていくことにもなります。私が電電公社(現NTT)に電話サービスの課金制度の導入をお願いしに
行ってから実現するまでにはなんと20年の歳月がかかりました世の中のニーズに応える制度とはいえ、法規制を変えるには、時間がかかります。しかし、すぐに実を結ばなくても、継続してやり続けていると、それが何かを変えていき、そのすべてが歴史として刻まれていきます。
この間、自分がやりぬく覚悟を外に発信していると、それをどこかで見てくれている人が必ずいます。私自身もそうでした。20年もの孤独な闘いでしたが、その方は新制度がスタートするとき、「発案者である今野さんにきちんと挨拶したのか?」と真っ先に言ってくださったそうです。ああ、20年もの間、忘れずに見ていてくれた人がおられたんだな、と感激しました。

私が41年間会社を続けてきたことで電話相談を通じて、あらゆる世代の日本人の本音、時代のキーワードが積み上げられてきました。やり続けることで、
必ず何かが残されるのです。

女性の武器は賢く正当に使い分ける
泣く、笑う、怒る
女の武器があるとしたら、それは働く女性としての自覚と品格です。日々の仕事の場面で、経験を通じて、その自覚と品格を成長させることができます。
泣く、笑う、怒る、女の武器三点セットは、時と場所さえ間違えなければ武器にもなり、また逆に自殺行為にもなる危険な道具です。使うならここ一番の空気を読んで使いましょう。それは、同情を引こうとして計算するということ
でも、媚びるということでもありません。
私の仕事の原点は女性の視点、発想です。ですから、「女で勝負している」と陰口をたたかれても、気にしません。だって女なのですから。誰しも、人からよい関心を持たれたい、嫌われるよりは好かれたいものです。けれども、「女の勲章だ」と思えるケースであれば、陰口をたたかれるのもよし。
みんなからまったく無視されるような存在だと、仕事になりません。後ろめたいところがなければ、何を言われてもいいじゃない、気にすることはありません。最後は仕事で勝負してみせるだけです。女で勝負しようが、何を武器にしようが、自分に恥じない自覚と品格を忘れさえしなければいいのです。でも、最後は仕事で勝負、それができなければ、問題外ということです。

鏡を見ながら仕事をしましよう
会社を設立したての頃、社員ひとりひとりの机に電話以外に置くものをひとつだけ選択しましたそれは「鏡」自分の顔をその都度チェックしてもらうためです。
ダイヤル・サービスで最初に始めたのは、「電話による秘書サービス」です。つまり声がすべての仕事。表情は必ず声に現れ、笑顔で話していると不思議と声も笑顔になるし、眉間にシワを寄せて話していると不機嫌そうな声になっています。声だけで仕事をする、その難しさを克服するための秘密兵器が鏡だったのです。
今と違い、「情報って何?なぜそんなものが必要なの? 目に見えないものにお金は払えない」というのが当たり前の時代でした。そんな時代に形のないサービスに実際にお金を払ってくれる人がいて、そのサービスを支えていたのが、表情豊かな「声」だったのです。とにかく私は6人のク秘書たちとともに、徹底的にトレーニングをしました。
まず、日の前に会員さんがいることを想定して笑顔で話をするようにします。挨拶をするときは机の上におでこがつくほどお辞儀をする。形を軽視してはいけません。形には意外な効果があるのです。たとえば、女性は好きな洋服を着て、化粧の仕上げに口紅をスッと引いて、「形を整える」と気持ちもシャンと切り替わとります。形を整えることで、心のあり方や、表情を整えられるのです。
そのために選んだ机の上の「鏡」は、日々私たちに秘書のあり方を示してくれました。ちょっと気が緩んだときは、鏡をのぞく。そして、にこやかに微笑んでみます。たとえ無理にであっても、微笑むという行為をすると、不思議なことに気持ちも晴れやかになり、声も弾んできます。
最近、働く女性たちを眺めていると、疲れている人が多いように思われます。
疲れた顔は、その人の魅力を半減させます。そんな時こそ、鏡の中の自分と話すことをおすすめします。

3章愛も家族も野心も捨てないという選択
結婚の意味、離婚の意味
いい妻になれないなら悪妻でいる
結婚をして、妻も、母も、仕事も……なんてがんばっている女性たちがたくさんいます。でも、無理をしていませんか?そんなに多くのことを完璧にはこなせないものですよね。
私もかつては結婚をしていました。結婚をしようと決めた後、私はドイツに旅立ちましたから、世間一般でいう婚約期間から新婚時代に、単身海外暮らしをするという選択をして、いきなり別居婚です。
結婚はしていたけれど、当然ながらいい妻ではまったくなく、むしろ悪妻。夫の会社の中では、「三大悪妻」と評されていたようです。いい妻にはならなかった……。とはいえ、私だってはじめか悪妻になろう」と決めて結婚したわけではありません。たまたまいい妻にはなれない自分を受け入れてくれる夫がいたということです。
そのときの私は誰が見ても、世間一般にいう「いい妻」からはほど遠いものでした。必死だったとはいえ、会社の経営のために、夫の収入も使い込んでしまうような妻でした。そんな悪妻でも、なんとか結婚が成り立っていたのは理解ある夫のおかげでした。
我慢をしたり、自分を押し殺してしまうと、何かが起きたときには、どうしても恨みが残るもの。さやかでも、お互いの才能や目的を尊重、尊敬できれば、たとえ離婚をしても、「二度と顔も見たくない」などという別れ方にはならないはずです

結婚にはこだわらない
ひとりの男性にこだわらない、という選択も、今の時代において決して珍しいことではありません。昔は結婚年数といえば、20歳から50歳の30年間だったかもしれませんでも今はまだその後80歳まで30
年間もおまけがつき、「一生」が「二生」になっているわけです。平均寿命などを考えてみると
「この人と結婚して一生添い遂げます」と誓ったものの、日々我慢の連続でストレスを膨らませていませんか?毎晩喧嘩ばかりして、子どもたちが怯えてしまうような環境を作ってはいませんか? そんな状態で、家族が暮らしていたらどうでしょう?
そんなとき、もしかしたら最善の道が離婚という選択なのかもしれません。結婚というひとつの形から解き放たれ、夫婦ではない別の関係に変化したとき、その人との関係が以前よりよいものに修復されるのなら、それはそれで賢い選択なのではないでしょうか。
ある夫婦の話を聞きました。結婚4年目にご主人が単身赴任となり、別居生活が始まったそうです。その間、彼女は別の男性と恋に落ち、夫と離婚しようと心に決め、恋人との再婚に向けた話し合いまで始めていました。
ところが運命とは不思議なもので、離婚をするための夫婦の話し合いをしたことがきっかけで、2人は、それまで一度も腹を割って話をしたことや、お互いと向き合ったことがなかったということに気づかされ、結局、やり直すことになったのです。
他に好きな人ができた……というその出来事だけみれば、浮気をした妻がものすごく悪いことをしたかのように思う人がいるかもしれません。でも、その出来事がきっかけで、それまでよりも夫婦がもっと深い絆で結ばれ、よりよい人間関係が築けるのならば、もう一度やり直すという選択は、よい決断だったと言えます。

いいときも悪いときも共に生きられますか?
人生という壮大な時間を共有する人
今まさに恋に落ちて、舞い上がっている恋人同士の2人に、いきなり、「結婚して、お互いの介護ができますか?」などという質問をしてしまったら、結婚に、夢も希望もなくなってしまうのかもしれません。
しかし結婚式でも、神に誓う場面があるように、「いつまでも、病めるときもこの人を愛せますか?」ということを考えてみてください。若く美しい季節は、そう長くは続きません。好きだ、素敵だという感情を超え、結婚したその後も、ずっと一緒に暮らしていけますか。
結婚はゴールではなく、そこからスタートする2人の人生、生活の始まりなのです。
キャッチ&リリース、しがみつかない生き方
人生の価値を共有できるかどうか。2人の知恵を合わせ、その後の人生が楽しくなるのかどうか。小さなトゲが刺さっていたりするのはダメですね。離婚を決断している夫婦の多くは、生き方において何か決定的な考え方の違いがあったり、どうしても許せないボタンの掛け違いがあったときに、別れを決断しているケースが多いように思われます。

結婚は、いつまでも相手といい関係を保てるかどうかです。
一度釣り上げたからといって 一生自分のものだなんていうことはありえません。自分自身も、相手も、姿形だけではなく、気持ちも変化していくもので
す。「私が釣ったのだから、私の魚よ!」と言うのではなく、相手に敬意を持てるかどうか、関係を成長させていけるかどうか、です。
フライフィッシング(渓流釣り)で、きれいな魚を釣り上げたうれしさは格別ですが、その魚をリリースする気持ちは複雑です。一瞬、ためらいと戸惑いを見せた後、スイッと消えていく魚のなんと美しいこと―結婚にも、そういう思いやりと思いきりが必要なのかもしれません。

誰かの幸せを願い「離婚」するという選択
才能という分身にも敬意を持てるパートナーとの出会い
私の元夫は、当時テレビ界の花形、スターデイレクターでした。私も一時期TBSのレポーターをしていたこともあり、共通の友人を通して出会いました。まったく世界は違うのに、彼と話すすべての話が何の抵抗もなく染み入ってくるような存在でした。まったく同宮澤賢治全集』を持っていたり、誰も知らないような歌を同じように好きだったり、という共通点もありました。
彼自身も素敵な人でしたが、彼の仕事に対する姿勢、そして彼の手から生み出される作品の熱烈なフアンでもありました。
夫婦は対等とはいえ2代半ばですでに才能を認められていた夫とははじめから勝負にならず、おかげで私はあまり競うこともせず気楽なテイクオフができたと思います。

夫にふられるという選択
月日は流れ……。
ある日、その夫は三行くだり半を残して出て行きました。つまり、ふられてしまいました。確かに私は悪い妻だったし、彼はいい夫だった。ふってくれたのは、彼の優しさだと思っています。
なぜなら、間違いなく私の心の重荷がある意味で軽くなったのですから……。
自分から別れを言い出す勇気はありませんでした。だから夫が決断してくれたのです。
誰かの幸せを願い、離婚という選択をする……。結婚しているとき、このままいくと相手を不幸にしてしまうという恐れをずっと抱いていました。
だから、いつか相手が離婚を切り出したときには、「なぜ」とか「ひどい」などとは一切言わず、「はい」と「ありがとう」の二言だけ言おうとずっと心に決めていました。
離婚する前のことですが、ある晩、夫の留守に夫の級友と名乗る人から電話がかかってきたことがあります。「あなたのような人と結婚しなければ、彼はもっと素晴らしい仕事ができる。
あなたがもっと彼のために生きるような女性であればよかったのに……彼がかわいそうだ=」そんなひどいことを言われなくても、怒鳴られなくても、そんなことはこの私が一番知っているのに=¨ と怒鳴り返したかったけれど、それ以上に、彼にはこれほどまでに真剣に思ってくれる友がいるのだということに、感動もしていました。
数年後、この元夫の級友とは、ある会合で再会しました。相手の方から名乗ってきました。
「ああ、あのとき私のことを害獣呼ばわりした人ね」2人とも思わず大声で笑ってしまいました。今では、元夫の級友という関係を超え、私にとってもよき友となっています。
このように、大切なものをみんな失くして損をしたと思っていても、後から考えてみると得をしたことのほうが多いような気がします。人生の中で、せっかく出会った人を、自分のせいで不幸にはしたくはない。誰かの幸せを願っての「離婚」という選択もあると思っています。
男のプライドを無意味に傷つけてはいけません。
価値観を共有し未来像が描けますか?
私の体験ではありませんが、こんな話があります。ベンチャー企業に新卒で入り、営業職として仕事に打ち込んできた女性がいます。
仕事も会社も好きでずっとここで働き続けたいと思っていたのですが27歳のとき学生時代からの恋人と結婚しました仕事は順調で3歳のときにマネージャーに昇格。
彼は1日も早く子どもが欲しいと常に言っていたようですが、彼女自身はあまり子どもが好きではなく、まだまだ仕事に打ち込みたいと思っていたそうです。
結局、2人の描く将来像にすれ違いが起こります。
子どもの話題になるのを避けるようになり、ぎくしゃくした関係が1年ほど続き、そして離婚という決断をしたそうです。
結婚前に、人生設計などをもっと話し合えばよかったのでしょうね。平行線をたどったま本心を偽りごまかしながら関係を続けていくより別々の道を歩むことで、それぞれの未来を明るくすることもあると思うのです。

夫に「がんばれ」と言わせる女になる
働いている女性なら、夫からの「よくやったな」という一言が、何よりの励みとなり、ものすごく嬉しいものではないでしようか。お花も、ご馳走もいらない、だから「よくやったな」「がんばってね」と言ってほしいものです。
世間一般でいう「いい妻」の定義がどのようなものなのか定かではありませんが、仕事を持ち、妻でいて、夫が「がんばれ」と言ってくれる関係ほど素敵なものはありません。夫がサポーターになってくれる女になりたいものです。私も、かつて結婚生活をしていた頃、言葉で「がんばれ」と言われたことはなくても、見て見ぬふりをしながらも、いつも彼は見守っていてくれていまし
た。言葉ではなくとも、普段の態度が発信しているものを自分の受信器で受け
止めて感謝していました。
では、反対に、夫に「がんばれ」と言わせないものは何なのでしょうか?
たとえば、働く女性を妻に持つ夫婦の場合、妻のお給料が上がったとき、家庭のパワーバランスが崩壊してしまうと感じる人がいるようです。また昇進して妻が夫の肩書きより上になってしまったとき、夫婦関係のバランスに微妙な影を落とすことを恐れる人もいます。
昇進を手にして戸惑う女性たち。そんな妻に「おめでとう」「よかったね」と素直に言える男たちがどんどん出てくれることを願っています。
しかし一昔前に比べると、最近は、男性の育児参加も活発化しているようです。結婚や出産を理由に仕事を辞めたくない、辞めない女性が増えているように、家事や育児を進んで引き受ける夫も増え始めています。
「君が会社を辞めたくないのなら、僕が辞めて面倒をみるよ」と、専業主夫になる男性もいるようです。これもまた、ひとつの選択です。夫の選択、夫婦の選択です。
かつて男性社会の中で生きることは、女性たちにとって隔たりが多いものでした。しかし、もしかしたら、今の時代、男性の中にも社会の中で生きることの厳しさや難しさを感じて違和感を抱き、悩んでいる人が少なくないのかもしれません。
「男性は一家を養って当たり前、男は外で働くもの、なんで昼間からお父さんが子どもの手を引いているのかしら?」そんな固定概念は、当事者である本人たちだけではなく、周囲も取り払ってしまわなくてはいけません。

20世紀の日本が作り上げた男と女の夫と妻の固定的役割分担意識の呪からもうそろそろ解放されてみませんか。自分に、そして自分たち夫婦にとっての「我が家のルール」を創ればいいのです。そうしたチヤレンジをする人たちを、家族や地域も温かい眼で見守り、陰のサポーターになれたら素敵ですね。

女の幸せは、周囲の男性の幸せなくしては成り立ちません
男女の距離感と時間間隔
表現は悪いかもしれませんが、自分が幸せになるためには、周りにいる人々はみんな大切な環境条件です。ネガティブな環境の中にいては、なかなか自分だけポジティブにはなれません。あるいはポジティブでいるために通常より多くのエネルギーが必要になってきます。家庭の中でも、もし夫婦である男と女が戦っていて、お互いをたたき落とそうとしている……その構図の中ではたとえ自分が勝ったとしても幸せになれるはずがなく、周りにいる人々も誰ひとりとして幸せになれません。創るべき
は、対立ではなくて共生なのです。これは、会社の中でも、どこでも同じことが言えると思うのです。つまり、女性の幸せは、周囲の男性も幸せでなくては、成り立たないのです。

家族や夫婦においても親子関係でも大事な人との距離感はとても大切です「毎日顔を合わせているとついつい小言ばかり出てしまうけど、出張で何日か家をあけてみると、家族の温かみが身に染みて、ありがたいなって思いました」。
そんな話をよく聞きます 一室の空間の中の個体数によってストレスノイローゼ、争いなどが変化することは、さまざまな動物実験で確かめられていることです。家族や夫婦とはいえ 一緒に暮らしていても常に距離感時間間隔を考え、バランスよく維持していくのが円満の秘訣です。
自分の人生の選択は人に託さない反省はしても、後悔はしないために
誰もが人生において間違いを犯すことがあります。過ちは反省すれば次に生かすことができます。一生つきまとう深い後悔にならないよう、早くいい形で決着をつけましよう。
自分の人生において、選択を迫られる場面は幾度となく登場してきます。進学、就職、結婚……。そのどれについても同じことがいえますが、その大切な決断を人に託してはいけません。親に言われたとおりに進学して、勉強についていけなくなってしまったら?それがきっかけで、思うようなところに就職ができなくなってしまったら?
「私の人生、どうしてくれるの?」と、決断を人に託せば、不幸の原因もつい人のせいにしたくなるものです。結婚もそうですね。結婚相手の夫に人生を委ねていると、こんな時代ですから万が一夫の会社に何か起きたときはどうするのでしょう?
「私の人生めちゃくちゃにして」なんてその出来事を受け入れられなくなってしまうのではないでしょうか。
ダイヤル・サービスでは「熟年10番」という電話サービスをしていたことがあります。毎日さまざまな相談がありました。
たとえば、毎日顔を突き合わせれば火の粉を散らすほど悪化した夫婦関係で
も、離婚できないという女性がいました。修復の可能性があるのなら見直してほしい、でも一番よくないのは、地獄の状態のまま別れられずにいることです。
なぜ、離婚しないのかと尋ねてみると、それは女性が仕事を持たず、別れたら自立できないという、経済的な理由だったりするからです……。
自分の人生は人に託してはいけない。自分で選べば、失敗してもその過ちは経験になり、修復可能です
最近、東大大学院卒の女子学生たちが、将来の夢を聞かれて、「専業主婦」と答えているという話を聞きました。不況下の就職難だから、単に社会風刺として言っているのか、本心からそう思っているのかは定かではありません。しかし「そこまでがんばってきたのにどうして……」と残念に思う気持ちもあり
ます。それでも、もし仮にその人が信念を持って「専業主婦」を選ぶのであれば、それはそれで悪いことではないと思うのです。
他の人にはわからない理由だとしても、自分自身の考えがあって、信念を貫きその道をいくのであれば、です。ただ単に時の景気動向に流されて、いい就職先がないから、いっそいい人をつかまえて安泰に暮らそうなどと自分の幸せを人に委ねているのならそれは読みが甘いと思います。つかまえられる男性も同じ状況下にいるからです。
人生の選択で、2度3度、いえ、それ以上に失敗することはあるものです。そのとき、私はついてない、私はダメ人間、などと開き直ってしまったり、がんばってもダメだ、と思ってしまうと後の人生は諦めになってしまいます。
何度か選択に失敗したその後が、実は大事な時なのです。失敗の原因を自分で分析してみましょう。必ず自分自身にも反省できることが見つかるはず。それが見つかれば、あなたはすでに次のリターン・マッチヘの出場権を手にしたようなものです。
何もチャレンジしないで無傷の人生を目指すのか、多少の傷は負っても、自分らしく生きることにチャレンジするのか。あなたはどちらを選択しますか。

4章親のこと、子のことを考える選択
仕事をとるか、家族をとるか、それとも両立できますか?
仕事と家庭(恋愛)の両立、どう考えますか?
働く女性にとっての支援システムやサービスがまったくといっていいほどなかった時代ということもあって、長い間私は、仕事と家庭は両立するのが難しい、と思ってきました。
私にとって、会社は子ども、娘のようなものですから、これも大事な子育てです。この娘は、ケガもすれば、病気もします。それでも何としても娘を守ら
ないといけません。ですから、私自身は常に仕事を優先させてきたように思います。
しかし、今の仕事を後継者に渡すことができれば、また違った考えを持つでしょう。
ある人は、腸を引きちぎられるような思いをしても、仕事のために家庭や恋愛を断念するかもしれません。またある人は、仕事と家庭のバランスをとって、両立させるかもしれません。
「仕事と家庭」という働く女性の永遠のテーマも、
1.時代背景
2.どのような仕事をするか
3.どう働くか
4.それぞれのワークライフバランス
5.夫や家族との関係などによって変わっていきます。
女性だけが迫られる選択
男性が、「結婚をしたから会社を辞めます」などという話は滅多に聞いたことがありません。男性は、結婚をしても、子どもが産まれても、自分自身の体に変化が起きるわけでもなく、何ら変わらずに、仕事を続けようと思えば続けられる環境にあります。
しかし女性たちは、どうでしょう?結婚、さらに出産をしたときには、必ず一度は仕事を続けるかどうか、いえ、仕事をこのまま続けられるかどうかということで悩んでいます。
今の時代社会制度も整備され女性が家庭と仕事を両立しやすい環境になってきていると思います。私の周りにいる女性経営者には、もちろん独身でバリバリと働いている人もいますが、素敵なご主人と、子どもと一緒に暮らしている人もたくさんいます。
今は女性たちが学歴も社会的地位を得ることも可能になってきて、男性とのハンデがなくなってきました。それと同時に、これまで女性の幸せとされてきた、結婚や出産をしないことをコンプレツクスに思うような風潮も感じられます。結婚しなくちゃいけない、子どもを産まなくちゃいけないと、逆に学歴や社会的地位以外のものに対する焦りを感じているのです。私には、血縁関係のない同居中の「息子」がいます。その息子以外にも、籍は入っていない、たくさんの「息子たち」「娘たち」がいます。たいていは、
私の周りに集まっているベンチャーの人たちです。わがままで身勝手で、その都度怒ったり、笑ったり。いつの間にか実の親子以上の絆が生まれています。家族というものを、血のつながりだけにこだわって考えることはないのではないか、と思います。

働くお母さんたちヘ
子どもを育てながら働いているお母さんたちがたくさんいると思います。私の会社にも創業以来たくさんいます。何年か前、会社に朝から晩まで休日返上で熱心に働いてくれるスタッフがいました。会社にとっては大変ありがたいことでしたが、彼女の夫や子どもたち
はどうしているのかしら,・どう思っているのだろう?・大丈夫なのかしら?と、心配に思い、彼女が帰宅するときについて行き、様子を見てきたことがあります。そうしたら、駅に着いた途端に、お母さんの姿を遠くの方から見つけた旦那さんと子どもたちが、嬉しそうに歓声をあげて駆け寄ってくるのです。その姿を見たときには、「大丈夫だ」と、とても安心しました。「時間の長さではなく、質と密度です」と彼女が話した言葉は今でも新鮮です。
また別のスタッフの話ですが、彼女と夫は共働きで、2人とも仕事で忙しくしていました。そのためなのか、娘のひとりが10代でグレてしまったのです。
当事者である両親はもちろん心配していましたが、同僚である私たちも心を痛め、みんなで見守っていました。
最近、成長したそのお嬢さんに偶然出会いました。お嬢さんのほうから、私に声をかけてくれました。「反抗はしましたが、ずっと母の後ろ姿を見、気がついたら私も同じように働いています。そして今、あらためて母を尊敬し、誇りに思っています」と。
働きながら子育てをしていても、忙しいお母さんをきちんと娘たちは見ているものなのですそのときすぐに伝わらなかったとしてもきちんと愛情を持って接していれば 一緒にいる時間の長さには関係なくその思いは伝わっているものです。

血のつながりなんかにこだわらないという選択
血族にこだわらない家族の形
何年か前にインドネシア沖地震が発生しました。多くの人々が津波の被害にあい一瞬にしてたくさんの子どもたちが親を亡くしてしまいましたまた、戦争で親と生き別れになったストリートチルドレンやマンホールチルドレンと呼ばれる子どもたちも世界中あちこちにいます。彼らは本当にきれいな目をした、子どもながらに、自分より幼い子らを思いやる心を持った素晴らしい子どもたちです。いつか私がお金持ちになったら、彼らもみんな、私の子どもにしたいとかなり本気で思っています。
どこの国の子であろうと、肌の色や日の色がどうであろうと、私にとってはさほど重要なことではありません。国籍や血のつながりといったことにはまったくこだわりを持たずに生きてきました。
それは今に始まったことではなく、ダイヤル・サービスの創業の基本理念にも、「同族意識を解き放つグローバル時代の生き方・考え方」を掲げています。
この本の中でも何度か触れていますが、私の原体験である、9歳のときの戦災。あのとき、神様に、いえ自分自身に強く誓った、「三つ子の魂」のせいではないかと思っています。
ただ家族を幸せにする、というスタンスではなく、世界の子どもたちを幸せにしたい……ということを。
十数年前にネパールを旅したときにガイドをしてくれた青年、クリシュナと出会いました。そのクリシュナが、「日本に行き、勉強したい」と言ったときも、身元引受人として名乗りを上げ 一緒に暮らすという選択をしました当時は、外国人と暮らすのは大変だと反対する人もいましたが、クリシュナは私の気持ちに応えようと一生懸命日本で学びました。今では、ネパールに戻り、ネパール一の人物になって子どもたちを教育しています。
クリシュナも私の息子のひとりですが、私は今、養子縁組をした譲司という息子と一緒に暮らしています。譲司と私は、1997年3月、東京。六本木のベルフアーレで開かれていた、
ニュービジネス協議会の大会の会場で出会いました。
すごく大きな体をした男の子が日の前に現れ、自分の名刺を差し出し、「お母さんになってください」
と言いました。
はじめは、何を言っているのかよくわからなかったのでのすが、気がついたら瞬時に、「いいわよ」と答えていました。そして譲司と、親子としての同居生活が始まりました。
突然現れた0代の子を息子として迎えるなんて何という無謀― 周囲の人は驚き、あきれたようです。
人々はさまざまなことを言いました。私を心配してくれていたからこその忠告なのでしょうが、「血のつながりもないのに……」「あんなに大きな体の子と、喧嘩でもしたら危険だ」「よく知らない子なのに、怖くないの?」と。
「年下の男を家に入れて……」と、あからさまに色眼鏡で見る人までいて、これには、弁解する気にもなれません。言うとすれば「私を女性として見てくれてありがとう」です。
何を言われようと私は笑って吹きとばしてきましたが、恐らく、言われる息子はいつも大人たちの品のないからかいに傷ついていたのではないかと思います。

自分の考えがぶれなければ、周囲を変えられる
あれから13年が経過しています譲司との親子2人暮らしは続いています。
自分が13年間ずっとあのときの決意と何ら自分の考え方にぶれがないからこそ、とやかく言っていた周りのほうがどんどん変わっていったのです。今では、色眼鏡で見る人もいなくなり、周囲は何も言いません。すっかり普通の親子になってしまいました。自分の考え方にぶれがなければ、周囲を変えていくことができるのだと身をもって体験しました。
譲司は、私の人生に、起きるとは思ってもいなかったことをいっぱい持ち込んでくれました。

実際に息子と生活をしてみると、男の子というのは、想像もつかない、驚くようなことばかりしてくれます。外からいろいろな人や仕事や事件を次々に持ち込んでくるのです。もちろん、いいことばかりではありません。でも何かあるたびに、「これは、私を成長させてくれるための試練なのだろう」と受け止めています。
息子と暮らすことで、新たな人生を知るきっかけになりましたし、人を許す

という気持ちも今までよりもっと大きくなりました。今まで以上のキャパシティが広がってきたように思います。
こんなふうに、自分で子どもを産まなくても、誰かの母親になるという選択もあるのです。
それに、お腹を痛めたかどうかということは関係なく、思いどおりにいかない子どもを育てるということや、子どもが予想外のことをしでかすことがあるという点は、「子育て」という意味では何ら変わりありません。
、、
もし私が離婚をせずに夫との結婚生活が続いていたら,と考えたときそれでも今、譲司と親子でいるということは、変わらない姿であるような気がしています。恐らく、夫もこうした流れを自然に受け入れてくれる人でしたから、離婚をしてもしていなかったとしても、息子の譲司とは今、親子だったように思います。今でも年に2.3回、親子(?)3人で食事をしていますから

「産む」「産まない」だけではない、新しい家族の形
産む、産まないだけではない選択
先日、昭和女子大学学長の坂東員理子さんとお話をしていたら、最近は、子どもが欲しいけれど、できないからといって、不妊治療に通う女性が増えていると聞きました。一方で、児童福祉施設には、事情があって親と暮らせない子どもたちや、親と死別した子どもたちがたくさんいます。もちろん施設には専門家がいて一生懸命その子どもたちを育てています。ただ、そうした子どもたちを個別に、ひとりひとり大切に育てくれるような里親がいればなおよい、ということで里親を募集しても、その申し出はまったくと言っていいほどにないそうです。
子どもが欲しいと思っている人たちはたくさんいて、親を必要としている子どもたちもたくさんいるという現実……。
よく、「産む?」「産まない?」といった具合に、まるで子どもを持つという
ことには、その二者択一しか選択肢がないかのように話をしています。私自身、そのどちらでもない形で、息子と出会い、親子として暮らしてきましたが、はじめから、「絶対に子どもを産まない」と強く頑に思っていたわけではありま
せん。結果的に自分の血を分けた子は授からなかった、ということになります。
それについては、後悔も反省もしていません。もちろん、その「産む」「産まない」以外の第3の選択をしたことも。
この「産む」「産まない」について 一昔前は女性は家庭第一という考え方の中で、子どもを産むことが女性の生き方のプログラムに当然のように入っていました。しかし近年、それだけではない女性の生き方が広がっています。女性たちは、結婚をした途端に、周りか子どもは?」とか「そろそろ?」
ら「と聞かれますが、実はこれは、女性にとってはものすごく煩わしく、重荷で、傷つく言葉なのです。「経済的に厳しくなるし、体の線も崩れるし、おしゃれもできないし、自由も
なくなる。だから子どもは要らない」と自分の意思で、子どもをもたない選択をしている人もいれば、欲しくても体や心のバランスが原因で産めない人もいます。
なぜ、子どもを産みたいのか?
ダイヤル・サービスの電話相談に、不妊治療の末、念願叶って産まれてきたはずの子どもなのに、自分の子を愛せない……といって育児ノイローゼになってしまう母親の、悲痛な叫びが寄せられることがあります。そんなお母さんたちを救いたいという一念で、これまでも社会の病理と向き合ってきました。
なぜ、女性たちは子どもが欲しいと思うのか?
「女として産まれたからには一度は出産という体験をしてみたいから」「周囲が出産ラッシュで、子育てをしている友人たちの姿を見て、私だけが子どもが
いないと焦りを感じている」
そんなふうに言う女性もいます。子どもを産むという決断を、自分自身の強い意思で望んだことではなく、周囲の環境や固定概念に押し流され、選択してしまっていたとしたらどうでしょヽつ?
当然女性には、出産をするための身体の機能としての限界があります。しかし自分が子どもを受け入れられると自然に思えるようなときが育児適齢期と考え、血族にばかりにこだわらず、家族を作ればいいのだ、と考えてみるのもひとつの選択ではないかと思うのです。
「夫の家族」を超えた、人と人のつながり
「嫁姑」という言葉の重み
血のつながりがない「家族」といえば、結婚をした相手である夫をはじめ、その家族がまさにそのひとつに当たるのではないでしょうか。どうも、多くの女性たちが、「夫の家族」というだけで煙たい存在として、苦手意識を抱いてしまっているように思いますが、いかがでしようか?事実、結婚をしたくない、しない理由に、夫の両親をはじめ、親戚づきあい
が面倒くさいし、煩わしいからという人もいるようです。
確かに、「夫の家族」「嫁姑」などという言葉を聞くだけでも、どこか重たく
感じてしまう何かがあるのかもしれません。
電話相談でも、嫁姑の人間関係についての悩みは少なくありません。たとえば、出産を機に仕事を辞めて家庭に入ったある20代の女性は、義父の死をきっかけに、義母と同居することになりました。結婚当初から義母とはそりが合わず、何度も歩み寄ろうとしたそうですが、毎日顔を合わせるようになるとそれまで以上に衝突が増えました 一日中家にいる状態では余計に関係は悪化し、ひどいときには子どもにあたってしまうようになった、というのです。
その女性は、そんな自分を責め、あらためようということで、義母と顔を合わせる時間を減らせばいいのではないかと考えパートに出ることにしました。それが大正解。この離れている時間のおかげで互いにほどよい距離を保つことができ、歩み寄れるようになったと言います。
3章でも書いたことですが、家族や親子関係において、親しいながらも、つかず離れず、ほどよい距離感、時間間隔を維持することが、とても大切なのです。

いつまでも「個」としてのつながりを
私にもかつて「姑」という存在がいました。離婚してしばらくしてから、たまたまあるシンポジウムに招かれて元夫の実家のある町に出かけて行きました。すると、会場の最前列に親族の方が座っていました。その後も、夫の家族や親戚が何人も集まってきて、もてなしてくれたり、ドライブに連れて行ってくださったりしました。離婚して、もはや何の関係もないのに、以前と何ひとつ変わらず、家族として迎えてくれたことにあらためて感激しました。
時が経っても、個としてのつながりがきちんと育まれていたことは最高に嬉しいことでした。
元家族が離合集散を繰り返した後、また新しい家族の形を創り出したり、見知らぬ者同士が、新しい親子の絆を生み出したりできたら、みんなもっと自由になれると思います。
宿命としての家族、選択的で創造的な家族。こんな時代なのですから、いろいろな家族の形に、挑戦してみてもよいのではないでしようか。

5章後悔しない生き方の選択
40代で大いに迷うという選択

30代で冒険してもいいじゃない

私は今でいう「アラサー」世代32歳のときに起業しました、
今考えると22歳のとき就職試験での挫折があったからこそ会社を作るという道を選ばせてもらえたのではないかと思っています。
就職活動に見切りをつけた私は、「今から10年後の5月1日に起業する」と、
1強く心に決めました。ですから、何があろうと、あとはそれに向かって進むだけでした。それまではまったく自分の会社を作るなんて一度も考えたこともありませんせんでしたが「日本の企業がこんなにも私を必要としないのであれば、自分の活躍する場は自分で作るしかない」、そう思ったのです。
その頃はまだ「起業家」などという言葉もありませんでした。そういう時代に、私は企業社会から見捨てられましたが、また、その事実が私の背中を押してくれたとも言えます。ですから、自ら選択したというよりは、選択させていただいた、という感じなのです。

目標実現に向け、期日を決める
20代はカッコ悪く生きようという話をしましたが、私だってはじめから、「カッコ悪く生きよう」と志願していたわけではありません。ただ一生懸命生きてはみたものの、結果は貧しく、どう見ても「カッコいい」ものではありませんでした。
早朝、午前、午後、深夜の四部制で、仕事を掛け持ちしていました。これも、すべて「Ю年後に会社設立」という目標に向けて必死だったからです。
どんなことをしていたかというと、早朝の仕事は、学生時代の新聞部での経験を生かし、近所の商店のチラシ書きやもの書きのまねごとのようなことをしていました。現代風に、カッコ良くいえば「コピーライター」のようなことになるのかもしれません。
そして午前の仕事は、三浦朱門さんや曽野綾子さんといった作家さんたちのところで口述筆記をしていました。
3つ目の午後の仕事は、新聞社での原稿書きの仕事です。月に1回映画評を書かせていただいていました。映画評などというものをそれまでまったく書いたことがなかったので、きっとおかしな文章だったのだと思います。逆にそれが人の目を引いたのか、「この原稿を書いているのは誰だ?」と呼ばれ、その後TBSの『まちのうたごえ』のレポーターに抜擢されたのです。
とにかく1年後に会社を興すまではどんなことにでもチャレンジしてみようと思っていましたので、生放送のレポーターという未知の世界へも迷わず飛び込んで行きました。ちなみに、4つ目の深夜の部は、新宿のうたごえ喫茶「ともしび」です。そこで、企画や演出のようなこともやらせていただきました。どれも今になってみれば、どんなにお金を積んでも買えないほどのいい経験だったと思っています。
目標を実現させるためには、実行の日と完成の日を決め、「いつまでにやる」という期限や締切を決めると達成できる、と言われています。日付を決めることで潜在意識が働き、知らずにカウントダウンを始めるのでしょうか。私は無意識のうちに、まさにそれを実践してきたわけです。

ワーキングウーマンは、タイムプア⁉
そうして目標に掲げたとおり、「10年後」である1969年5月1日に会社を設立。現在に至るまでこの会社は41年、続いています。このご時世で続けていられるということは、我ながら大したものだ、と思っています。しかし個人として、ワーキングウーマンとしての自分はどうなのかということを、ふと考えます。
まずは、私はとにかく「タイムプア」です。あまりほめられることではありません。「1日はなぜ24時間しかないのだろう」と、働き詰めの20代の頃から今も変わらず思っています。
自分が選択したことですから誰にも文句は言えませんが我ながらパフォーマンスが悪いと思うことがあります。たとえば、自分で選んだ「ベンチャーの母」という選択。普通なら、1人か2人の息子や娘だけを、責任をもって育てればよいところを、私には、社会的DNAを継承するベンチャーの息子や娘たちがたくさんいますから、育児時間も養育費もいくらあっても足りません。
子どもたちがみんな、「お母さんが生きている間になんとかしなければ」と思ってがんばってくれているので、その姿を見ているだけでも幸せなのかもしれません。
編集能力は年齢とともに進化する人の能力は年齢とともに変化します。記憶力が弱ることで、能力が衰えるとばかり考えられがちですが、実は変化しているのです。年齢とともに増すのが、編集能力と総合力です。0代の頃は、編集能力などほとんどなかったように思います。
2いろいろなところで出会った人や、その人たちがもたらした情報、異なる経験、それを集め、入れ替えたり、組み直したりしながら、まったく違うものやアイデアを創り出していく……。
これは、人生の編集能力だと思います。
いつか違う人たちに、別のテーマで取材していたデータが、時を隔てて別の素材として編集され、別の価値を生むこともあります。AとBの技術を組み合わせる、誰と誰と会わせる、それらの化学反応が見える……これは、20代30代にはあまりできなかったことです。年齢を重ねていくごとにどんどん進化していくように思います。
年齢ごとにものさしは違う
近頃はTVドラマの影響なのか「アラフォー」(40歳前後)という言葉がしきりに取りざたされ、流行しているようですが、アラ還(60歳の還暦前後)でもいいじゃない、アラセブ(70歳前後)アラハ100歳=ハンドレッ卜前後)だっていいじゃない、と思うのです。
それぞれの年齢ごとに、体も心も変化すれば、物事に対する考え方も違ってくるものです。
たとえば40代50代になって20代30代の同じ価値のものさしで自分をはかろうとすると、「あら、前にはもっとできたはず」「こんなこともできなくなったみたい!」「どうしよう」となるわけです。これは、年齢に応じた新しいものさしを発見できないでいるからなのでしょう。
つまり、年齢とともにモノの価値をはかるものさしを持ち替えればよいということです。
そうだいたい1年単位ぐらいで新しいものさしを見つけていくようにするとよいのかもしれません。

アラフォーを謳歌するために、もがき苦しむ20代
人生をさまざまなものにたとえることがありますが、私は、山登りに似ているのかなと思うのです。あそこがピークだと思って登っていたら、次にもっとすごいピークが見えて、やっとそのピークにたどり着いたと思ったら、次は下り坂……、険しい崖っぷちや谷越えを経験して、また次のアプローチにかかる ……、といった具合に。
「フオーエバー21」という言葉に代表されるように、0歳前後の頃が、人生で一番楽しくて輝き光に満ちた歳だと思われているようです私自身は20代は、あがき、もがき、苦しみ、絶叫してきたように思います。しかし一方で、それだからこそ輝いていたようにも思います。
逆にいえば2代であがきもがいていないとその後の人生のエネルギーが充電されていかないのかもしれません。
「アラフォー」が話題になっていますが、確かに自分自身を振り返ってみても、
40代がひとつの節目だったのかもしれません。
「40にして迷わず」とは昔の人が言ったこと。今の0代には貪欲に悩み、大いに迷ってほしいのです。40歳はちょうど折り返し地点迷わないはずはありません0代はいろいろな可能性を秘めているとき。このときをどう過ごすかが、豊かなアラセブ、アラハンに突き進むための大きな勝負かもしれませんから。

絶体絶命を生き抜く方法
経験が直感力を磨く
何かを選択、決断しなくてはならないとき、あなたは決断が早いほうですか?私は、昔から決断にはあまり迷わず、慎重に検討するというより、どちらかと言えば直感的にひらめきで選択するタイプです。振り返ってみると、若い頃の選択というのは、年齢を重ねた後の選択と比べると、取り返しがつくということと、重大さもさほどではないこともあって、多くの場合は直感的に出した「選択の答え」に自己責任を負えばすんできました。
しかし、ある程度歳を重ねていくと、今度は自分だけではなく、会社や社員たち、社会での責任を負うようになってきます。その頃には、それまでに積み重ねた数えきれない決断と選択の経験が、データとなり脳に蓄積されていて、経験を積んだ老練な脳が、その多くのデータベースを直感的に分析し、ク決断″とク選択クをするようになっていきます。ですから、多くの決断、選択を経験してきていればいるほど、直感力が増し、素早く選択できるようになるのだと思います。
チャンスは地獄の顔をしてやってくる
何かうまくいかなかったときにこそ、その人の器の大きさ、力量が見えてき
ます。誰でも逆境には弱いものです。でも、成功しようと思うならば、逆境に立たされたときにこそ、他人に見られている自分を意識して行動しましよう。以前、逆境に立たされていた女性に「チャンスは地獄の顔をしてやって来るのよ」と言ったことがあります。素晴らしいチャンスはニコニコ笑いながら簡単になど、やって来ないものです。
実際に日常のビジネスシーンにおいても、願っていた方向とまったく逆の展開になっていくことがよくあります。
「これはなんだろう」と戸惑います。でも、そこでギブアップしたり、争ってしまったり、短絡的に考えるなんて損なことです。「さあ、何度でもいらっしゃい」と思える胆力があると、物事の展開は変わっ
てきます。
失敗には、素晴らしいヒントがたくさん秘められているのですから、逆上したり、悲嘆にくれる時間は早々に切り上げて、次のステップを考えることです。思いっきリギア・チエンジー・ずるずるとあとを引かず、切り替える力で脱皮しましよう。
絶体絶命を乗り越えたときあなたはそれまで知らなかったすばらしい「自分」と出会えるのです。

自分を偽らずに信念を貫きましょう
同じことを言い続ける、諦めないで言い続ける
「信念を持ちましょう」などと言われても、そんなに簡単に信念なんて言えるものではありませんよね。でも、自分が諦めたくないことを諦めずに、その思いを言葉にして言い続けていると、不思議なことにもう、それが信念になっていくものなのです。
他人からみれば「どうして?」と思うことでも、もしそれがその人の強い望みなら誰に何と言われようが、それを言い続け、思い続けることです。言い続けることで自然に周囲にもその生き方、考え方が伝わり、周囲に理解や共感が広がり、浸透していくものです。
そこまでできない、迷いがあるということは、周囲の目を気にしたりして、自分自身との調和がとれていないからだと思います。
私は、あまり人の目を気にしません。世間の日はあくまでも人ごととしての日であり、まったく責任のないものです。人それぞれ見方もバラバラ、不正確な情報によるものです。

個を楽しみながら生きる
人につられて、徒党を組んで生きるということが、私は得意ではなかったように思います。徒党を組まず、個で生きている時間の豊饒さを知っていますから。何でも話せる友を持つことは最高の幸せです。でも一番大切なことは自分と話すことですむしろ子ども時代にしっかりと自分との対話をすることによっ、て、自分の世界を築き上げることができるのではないか、と思うのです。
群れないでひとりでいるというのは、悲しいものでも淋しいものでもなく、人が成長していくためにはものすごく貴重な時間だと思うのです。
私は、自分の子どもを産み育てた経験はありません。少しの間は結婚をしていましたが、すぐに別れましたから、ひとりがふつうの人生です。そのせいもあって、ひとりを孤独と感じることが少ないのかもしれません。
仲の良かった夫婦が、どちらかひとりが亡くなってしまうと、遺されたほうが生きる気力をなくしてしまう……。喪失の悲しみから、立ち直れないでいる人も多いと聞きます。
これから、今まで以上にきっと女性は長生きをするでしょう。女性に限らず、男女ともに人生そのものが延びています。ですから、今、夫や子どもたちなど、誰かと一緒にいるとしたら、今のうちからひとりで生きる生き方の柱はきちんと持っていたほうがよいと思います。
むしろ今、たまたま夫や子ども、誰かと一緒にいられるとしたら、その時間がスペシャルなことで、本来、ひとりが当たり前。誰かといられる幸せに感謝をしながらも、ひとりを受け入れて、楽しむ方法を見つけられるとよいのでしょう。

情報に頼り過ぎず、自分の感性を信じて
アンテナを張り、電波をキャッチする
もしかしたら、現代人たちは情報をキャッチし過ぎなのかもしれません。
情報化、スピード化、効率化、自分が必要としていなくても、街を歩けば、テレビをつければ、パソコン、携帯電話から……情報は氾濫しています。いろいろなことをあまりにも早く知り過ぎてしまうから、他者からの情報による先入観ができてしまい、自分の日で真実を見て考える機会がない、というところ
があるのかもしれません。
いわゆる「私は子どもの頃から勉強はしないタイプ」。教室で先生の言うことはよく聞きましたが、家に帰ってまで勉強はしない。だから、宿題もせず、宿題忘れで廊下に立たされることもしばしばありました。「予習復習」より現場一点集中主義なのです。
今でもそうです。何かの委員会や審議会などに出席するときにも、あまり事前に資料を読みません。先入観を持たずに、その場の話の流れに身を置いてみて、自分のアンテナに感応するものを大切に考えます。
今、ここで、私は何をすべきか。話の流れの中から、自分の役割など、いろいろなことが見えてくるものです。
下準備をすることも決して悪いことではありませんし、もちろん私も「勉強をしない」というのはもののたとえで、本当にまったく何もしないというわけではありません。しかしあまりにも万全に準備し過ぎてしまうと、解説付きでものをみてしまい、現実を自分の目で、感覚でみることができなくなってしまうということです。
誰かが準備した情報だけを頼りにせず、自分の直感や感性をできるだけ生かすことを心がけています。
自分自身のアンテナを張っていなければ、自分に必要な電波をキャッチすることができません。特に、女性たちは、女性特有の感性を生かし、大切にすることは、仕事をしていくうえで重要で、大いに役立ちます。

情報があふれ、恵まれ過ぎた時代の若者たちヘ
今の時代、ライフスタイルも多様化し、若い人たちには選択肢があり過ぎるのでしょう。だからこそ何をしていいかわからなくなってしまい、迷っているなんていうことをよく聞きます。
ある意味ではうらやましくもあり、別の意味では少し気の毒にも思います。
私たちの時代は、職業について考えてみても、女性には選択肢がほとんどありませんでした。それでも、その選択肢が少ないなりに、自分の役割は何かと、真剣に生き方や仕事のことを考えてきました。その思いが伝わって、どこからか与えられるもの、少しずつ開けてくるもの、見えてくるものだという感覚を実感できました。それが自分の将来、つまり今の仕事につながってきたのです。そういう意味では、現代の若者たちは、多様な選択肢の海におぼれてしまっているようにも思います。情報を先に取ってしまうのではなく自分に適したこと、やりたいことに合う情報を、自分の意志で見つけるようにしたいものです。
若者に限らず、大人たちにも同じようなことがあります。私は講演先に来るいろいろな人から、「私は何をしたらよいのでしょう?」とよく聞かれます。そんなふうに悩んでいる人たちを見ると、逆に、恵まれすぎた時代の中で迷子になってしまっている大変さを感じます。
そういう人たちに、何か小さなヒントをたくさん見つけてもらいたいと思い、今、私は、「本を書く」という選択をしました。
先日、そんなさ迷える若者たちのことを坂東員理子さんとお話ししていました。坂東さんは、
「選択肢があり過ぎる若い人たちは、自分に向いているものが何かってことを探す前に、まず、自分がやらなければならないことをすればいい。そうしているうちに、自分がやれること、自分に向いていることがわかってくるんじゃないかと思うのです。自分のできることは何だろう、やりたいことは何だろう、自分に向いていることは何だろう……と探している暇があるのなら、今やらなければならないことを 一生懸命しなさいと言うだけです。自分探しというのは、一番非生産的だと思います」と、おっしゃっていました。私も同感です。今、自分の足元、日の前のなすべきことに熱中してやり遂げれば、そこに探しているものが見つかるということです。今の仕事をやり遂げないで、他の何かを探してもムダなのです。
「これから何をしたらよいでしょうか」と言う前に、今目の前にある、どんな小さなことでもまずは真剣に没頭し、やり遂げてください。周りの人に、「よくやったね」と、認めてもらえるように、どんな小さなことでも、自分にしかできない特別なやり方で一生懸命にやることです。今に集中して、他の誰でもなく、「自分ならでは」という仕事をやることが、将来につながっていくのです。
ないものを探すのではなく、今やっていることの延長なのです。今やっていることが、自分自身への未来へとつながっていくものなのです。氾濫する情報に翻弄されている場合ではありません。

毎日笑顔で、鏡に向かってから仕事場へ
鏡に向かうのは、自分と対話する貴重なひととき
私は、1日に何人もの人と会います。翌日のスケジュールを確認しながら、着ていく洋服は前日の夜に決めます。着ていく服を、夜寝る前に出しておくと、出かけるときに慌てなくてすむし、翌日のスケジュールを頭に描けるからです。
前日に翌日の服を準備するということには、意味があります。
複数の会合があれば、会う人も、場所も違う。スケジュールを頭で巡らせ、その人や場所、目的に合わせて、服装もメイキャップも変えていきます。場合によっては、車の中に着替えを持ち歩き、会う人や出かける場所によって服装もメイクも1日の中で2.3度変える日もあります。
毎朝、お化粧をするために、鏡に向かっています。けれども、これはいわゆる「化粧」を施すということではなく、私にとっては一種の儀式みたいなものなのです。こんなに深く自分と対話する時間は1日の中で、この、朝の鏡に向かうひとときしかありません。
考えてみてください。仕事をしていて、他に鏡を見る機会といったって、化粧室でチラリと見る程度です。ですから、しつかりと朝、自分と向き合う時間が重要なのです。ときには、自分自身を慰める、がんばろうねと励ます、ちょっと無理し過ぎじゃない、とたしなめる。
「どうしたの?そのクマ?」って、ちょっと肌をいたわり、コンシーラーを塗る。
世にいう化粧ではないのです。フアンデーションの選び方とか口紅の色とか、もちろんそういうこともありますが、私のいう化粧は、そういう自分と向き合う時間なのです。自分の中から、さまざまなことを呼び覚ましていくひとつの儀式なのです。
私は時々湯川れい子さんと旅行に行きます。2人とも朝、鏡に向かってしっかりと時間をとり、メイクをしています。れい子さんにもご自身のおしゃれについて聞いてみました。
「毎朝、鏡に向かうと、その日の自分と向き合うことができる。自分は元気か元気じゃないか、喜んでいるか、悩みを持っているか、その原因は何か、どうしたら元気に美しくなれるのか。自分と向き合うその30、40分の時間、多分1日の中でその時間だけがゆっくりと自分自身と向き合うことができるような気がする」まるで私の考えることと同じでした。
私もれい子さんも、およそブランド志向がないという点でも共通しています。彼女がブランドにこだわらない理由は、「値札をぶら下げているようなものだから」であり、また「人に自分を値踏みされる理不尽な方法」だと思っているからです。「それぞれの経済の中で、自分が楽しく、人も楽しくなるように装うのがおしゃれだと思う」とも話してくれました。
私は、それも含めてあまりこだわりがありません。バッグやアクセサリーを選ぶとき、単に値段が高いから、ブランドが有名だから選ぶのではなく、機能が優れているかどうか、値段も含めて自分にふさわしいかどうかが最も重要だからです。
たとえば3000円のネツクレスだって1万円のネツクレスよりも自分には似合う、素敵に見えるということがよくあります。こっちのほうが自分に似合うと思えるのなら、それでいいと思います。
ついでに余計な一言。メイクを落とすと、れい子さんと私はとても似ているのに、メイクした2人はしっかり別人です。それは2人は別々の世界でそれぞれの役割を持ちそれに適した自分を創るメイクを意識しているからだと思います。

私は27歳でアメリカに行きその後ヨーロッパに3年ほど暮らしていました
ヨーロッパでは、祖母から母へと代々受け継いだセーターを、その孫が大切に着ていたりします。また、スカーフのコーディネートで1枚の服に鮮やかな変化をつけてみたりと、お金をかけるよりも、工夫をすることでおしゃれを楽しんでいます。私も20代の頃から、なけなしの知恵で、貧しいなりに自分で身につけたおしゃれを実践してきました。
本当のおしゃれは、自分の生き方が生み出した創意工夫の産物だと思います。身の程をわきまえない、高級ブランドのオンパレードの若い女性を見ると心が痛みます。
相手を思えばこそ、おしゃれになる
アメリカでは、「エグゼクティブウーマンは黒のパンツスーツ」が定番と決まっているようですが、私も何パターンかの黒のパンツスーツを持っています。それはそれでコンフオタブルで、そういうパンツスーツを着たときの働きやすさもよくわかっています。ただ、そのパンツスーツを自分が着る理由は、「エグゼクティブウーマンであることを証明するため」ではありません。「エグゼクテイブエグゼクティブウーマンというふうに、個性をパターンの中に閉じ込めてしまうのは、とても貧しいことだと思ってしまいます。
私はワンパターンな着こなしは絶対にしないようにしています。相手によって違う自分で応対したい場面があります。だからこそ、服装やメイクを変え、自分を表現しているのです。自分を表現する手段としての服装やメイクを、ぜひ大切にしてほしいと思います。
1日の始まりのウォーミングアツプ
外出先で、うつかり化粧ポーチを忘れたことに気づいたときや、今日着ている洋服がこの場面にはミスマッチだったと感じたとき、どうしても気が乗ってこないということはありませんか。そんなことで気持ちが減入ってしまったり、発言によどみがあったり、迫力に欠けるといったことは、絶対に避けたいものです。
発する言葉や立ち居振る舞い、表情などはみな、その場だけで作れるものではなく、その場に至るまでの間に少しウォーミングアツプが必要なのです。
1日の始まりに鏡に向かい、今日の服装やメイクをチェックしましよう。
我が家には玄関に等身大の鏡があります。「いざ=出陣」というときに息子が現れ、「何、その服?」と言われることがあります。そんなときは、面倒くさいなと思いつつ、もう一度見直して「たしかに」と思えば、時間が許す限り変える努力をしてみます。
たかが服装されど服装今日1日気やオーラが出るようにそのための大切な小道具なのです。

6章女の履歴書
届かなかったラブレター
女性たちの履歴書
私ほどたくさんの女性たちの履歴書を見てきた人間はあまりいないと思います。それと、私ほど履歴書を書かなかった人間もいないのかもしれません。今からおよそ半世紀前、大学を出て就職をしようとしたときに何枚か履歴書というものを書くには書きましたが、あの頃の企業の採用基準はみんな「男子。
のみ」今なられっきとした「法律違反」を当たり前のようにやっていました。
ですから、私が書いた履歴書は、宛名のない履歴書、届かなかったラブレターでした。青春のほろ苦い思い出のひとつです。
毎日たくさん送られてくる履歴書を見ていると、ひとつの傾向が見えてきます。女の履歴書は、年とともに転職とともに右肩下がりになってゆくということです。はじめのうちは、「大学生に人気の入社したい企業ランキング」の上位に入ってくるような企業に入社をしていながら、なぜか数年で辞め、その後は次々と名もない企業へ、しかも転職サイクルもどんどん短くなっているというパターンが目立ちます。当然のことですが、それに合わせて、待遇もポジションも下がっています。
そういう損な選択を女性たちがするのはいったいなぜなのでしょうか?
後に書きますが、ひとつには従来の日本の税制や雇用環境にもその原因があるように思えます。

転落の履歴と完成した経歴
日米女性の履歴書の違い
ある人と、そんな「女性の履歴書」の話をしていました。「女性の履歴書を見ていると、みな右肩下がり、大学を卒業、就職までは一緒なのに、その後の転職の度にキャリアがしぼんでゆくのです」すると、彼女はアメリカではまったく逆だというのです。
アメリカではキャリア志向の女性たちは3歳までに少なくとも3回は転職をして経験技術知識人脈を身につけ昇りのエスカレーターに乗り、キャリアアップに備えるのだそうです。むしろ、最初の場所にべったり居座っていてはキャリア志向を評価されないというのです。
なるほど、それなら話は別です。右肩を上げるための転職ですからはじめから男女の区別なく、プロの世界でチヤレンジする女性たち。日米を比較すると、やはりまだ落差があるようです。
アメリカのスーパーエグゼクティブウーマン
私の友人のロウナ・ベンダーはサンフランシスコ在住のトップエグゼクテイブウーマンの一人です。ヘッドハンテイングを受けて、日本にも名の知れている有名なベンチャー企業の立ち上げに次々と参加し、今は夫と2人でゴールデンゲートを見渡せるミリオネアの町で悠々自適に暮らしています。絵に描いたようなハッピーリタイヤメントの人生です。ご主人のラリーは、優しくて明るくて気配りのできる、夫として最高のタイプです。2人は、妻が働き、夫が家庭を支えるという結婚生活を選択しました。
何度か彼女の家に遊びに行きましたが、畑仕事でラリーが作った野菜や果物、花でもてなしてくれました。ロウナが仕事をしている間、街や友人宅へと私を案内してくれるのもみんな夫、ラリーの役日でした。
このように、夫婦それぞれの役割を無理矢理固定観念で縛ることなく、自分らしさを発揮する選択をすれば、彼女のような幸せな家庭を築き、活力ある社会を作ることができるのではないかと思うのです。

38匹目のカエル
そのお2人から、こんな楽しい話を聞きました。2人は、飛行機の中で知り合いました。積極的にデートの約束を取り付けたのはロウナのほうでした。彼女はドイツ系アメリカ人で 一見パワフルウーマンには見えない、可愛くて優しい女性なのに、仕事に追われて気がついたら結婚が後回しになっていました。そんなあるとき、友人たちの提案で、積極的にデートすることを決意し、誰かとデートをする度に、カエルのシールをノートに貼っていくことにしましたそして見事ラリーという38匹目の素敵なカエルをゲットすることに成功したのです。
話を日本に戻しましょう。有能な女性たちに不利な転職をさせているものとは何か、です。
結婚、出産、家事育児、夫の転勤、親の介護、派遣等の契約終了、最近では会社の倒産や人員削減での解雇、職場結婚、社内不倫と失恋、上司のセクハラ、パワハラ等々です。
ダイヤル・サービスの電話やネット相談の中にもそうした悩みがたくさん聞こえてきます。
それでも、日本でもロウナとラリーのようなケースは、出始めています。こうしたケースを育てるためには、まずはご本人たちの勇気ある選択が第一ですが周りの理解も必要です「あそこのご主人はどうなってるの?」といった心ない陰回は「言わない」「聞かない」「気にしない」の三原則を守りましよう。
あなたにとって103万円の壁とは何でしょうか?
みなさんは、「103万円の壁」をご存じですか?女性が給与所得103万円を超えて働くと、扶養家族控除が受けられなくなることを指しています。女性の深夜労働禁止にしても、この「103万円の壁」にしても、本当に女性自身のためになっているのでしょうか。人それぞれの考え方や事情が違うので一概には言えないことかもしれませんがこれが働く女性の意識や働き方や働く時間、プロモーションに大きく影響していることは事実としてあります。私が見てきたたくさんの女性たちの履歴書の中にも、「夫に言われているから103万円以内に抑えたい」と調整して、就労日数にこだわる女性が今でもいます。
これは、主婦と独身女性の間に不公平を生じさせ、男女格差ではなく、女女格差を生むことが一時期争点になりました。それよりも、優秀な女性たちがこの壁があるために、その前に立ち止まってしまうことが、女性の社会参加や能力開発を阻害しているように思います。103万円の壁を突破するとき、瞬間的には少し収入が下がるかもしれませんが、もっと大切なことを忘れないで、ご自分の生き方を選択してほしいのです。
政権が代わり、こうした税制の見直しも時間の問題なのかもしれません。むしろ今からそれを見据えて、この際、新しい自分と向き合い、生き方を考えてみませんか?
女性の場合は年齢を重ねるごとに、仕事をするうえでいろいろな制約がでて
きます。たとえば、若くして結婚して会社を辞めたとします。そして103万円の扶養控除枠に収まるように仕事をセーブすれば、パートやアルバイト以外の仕事を見つけるのは難しいでしょう。でもほんとうにそれがあなたの望むことですか?・もし違和感があるのなら、103万円の枠にこだわった選択でなく、自分がどうありたいか、で仕事を選択してほしいと思います。それぞれにいろいろな事情があるとは思いますが、あらためてしっかりと考えてみてはいかがでしょう。大学を卒業して就職、結婚したら、扶養控除を受けるために103万円の枠に収まる仕事を選ぶのですか?または、子どもが生まれたら仕事をセーブして103万円の枠に収まるようにしますか?
30代の後半になり、子どもが中学になったから、本格的に仕事に戻りたいと思うかもしれません。でも、現実はそう甘くはなく、なかなか就職できません。私はどんなことでも遅すぎることはない、と思っていますから、再スタートを切られることに大賛成です。ただ、103万円の枠にとらわれて過ごした時間が、あなたが提出される履歴書には残るということです。その壁で得したもの、失ったもの、その価値を質量両面で再確認してみることが大切です。
「300万円の壁」もある
もうひとつ、「300万円の壁」というものもあります。これは、正社員として働くときに遭遇する壁のことです。派遣社員でフルに働いたとしても、「時給1300円×8時間×20日×12か月=250万円」とすると、年収250万円が平均的な数字になります。キャリアアップなどして、派遣でさらに上の年収を目指しても、300万円くらいが限界です
これ以上の収入を得るためには、やはり正社員になるという選択肢を選ぶ必要があります。
世の中お金がすべてではありませんが幸せな人生を過ごすための手段として、何があっても大丈夫な個を確立するために、自分の収入を確保することや、働き方を考えることも重要です。

あなたは100mを走るのか、1600mリレーか、フルマラソンか?企業が欲しいのは、メダルをとれるリレー選手
好きな仕事をすることは簡単ではありません
男性よりも女性からよく、「好きなことを仕事にしていきたい」という話を聞くのですが、これはそれほど簡単ではありません。
男性は大学を卒業してから就職して、独身であればまだ転職も気軽にできるかもしれませんが、結婚して家族を持てば、好きだ嫌いだといった判断で仕事を辞めることは、そうそう簡単にはできません。
男性は、「好き嫌い」とは別に「家族を養う」という責任感のもとに、仕事を続けているわけです。
それでは、女性はというと、大学を卒業して就職までは同じですが、その後は素敵な人に出会って結婚退職、子どもを産んで幸せな家庭生活……、という人生を選ぶこともできます。もちろん、仕事を続けてキャリアウーマン街道をまっしぐら、という人生もあります。

この本のタイトルである『女の選択』私が起業した4年前に比べれば今はその選択肢がいくらでもあります。そして「好きなことを仕事にする」チャンスも、男性よりも女性のほうが多いのも確かです。

日本一困難なセールス
10年後の起業を決めた私が、アメリカに行き、ヨーロッパに渡り、その後31歳で日本に帰国。会社を設立する、と決めた期限まであと1年。さあ、これから会社を設立するためにどう過ごせばいいだろうか、と考えたときのことです。
ある大企業の経営者に、こう言われました。「社員はあなたに人生を賭けるのだ。人を使う、その自覚と覚悟があるのか。
起業するならば、もっとも厳しい営業を体験して、自分を確かめてからにしなさい」。
そして始めたのが当時一式36万円の百科事典のセールスでした「日本一困難なセールス」と聞き、3か月間、修行のつもりで挑戦したのです。およそ百科事典などとは結びつかないような農村地区が私の担当となり、毎日、1軒1軒しらみつぶしに見知らぬ家々を訪問しました。叱られ、追い返される日々の連続で、本当に辛かったです。ところが、ある日、それこそ百科事典とは縁のなさそうな老夫婦が熱心に私
の話を聞き「いい話をほんとうにありがとう」と言って買ってくださいましたそしていまだに「あのときはありがとう」と手紙をくださるのです。
車でも何でもトップセールスマンは「この人から買いたい」「この人から買ってよかった」と思わせる人だと言います。このときの「ありがとう」は、たくさんのことを私に気づかせてくれました。おかげで働くことの喜びと苦しさを知りました。今でも忘れられません。
走るスタイルは人それぞれ
私のように起業する人もいれば、企業に就職する人もいます。もちろん専業主婦を選ぶ人もいます。人生の中で、仕事をどのようなスパンで考えるかは、人によってそれぞれ違うはずです。
陸上にたとえるならば、全力で走り抜ける100m走なのか、チーム全員で力を合わせて走りきる1600mリレーなのか、それとも、持久力で勝負するフルマラソンか?ハーフマラソンなのか,出場する競技によって、走るスタイルも違えば、トレーニング法も変わってきます。まずは、自分自身がどの競技に適しているのかという適性を知ることです。そしてその競技に適した走法を身につけていけばよいのです。
ちなみに、数多くの履歴書を見てきて思うことは、この陸上選手にたとえたとき、企業が欲しいと思う人材は、花形スタープレイヤーの100m走選手ではなく、仲間と力を合わせ、個の力を最大限発揮してチームの勝利に貢献できる1600mリレー選手ではないかと思います。メダルをとれるほどのリレー選手であれば、なおよいのではないでしょうか。

人生はチャレンジ、チェンジ、チョイス
チャレンジし続ける選択
私は、苦しいときこそチャレンジしてみようと思い、実際にそのようにしてきました。マラソンゴルフもそのひとつ。登山もそう。自分の限界に挑戦してみて、やり遂げたときにこそ、何かが待っているものです。
私が会社を立ち上げたのは1969年のことでした。起業をしようと心に決め、10年間で貯めた7万円が資本金会社は当時の住まいである京工笹塚コーポラスという、文化人の集まるコーポラスの415号室を新しく借り、2台の黒電話からスタートしました。家具や必需品はどれもコーポの住人の協力や自宅のものを持ち出した急ごしらえでした。社員は私を入れて7名。同じコーポの住人だった「発見の会」という前衛劇団を主宰していた瓜生良介さんのつてで集まってくれた女性たちアングラ劇団の女優や歌手の卵で、若くて美人、しかも美声の持ち主ばかりで、「さあやるぞ!」と意気込んでいました。ところが、世間はそんなに甘くはない ……。会員がひとりも見つからないまま、あれよあれよという間に半年が過ぎてしまったのです。事業内容は、当時は珍しい4時間年中無体の電話秘書サービスで、月会費は
3000円。1969年当時の男性の初任給が3万円前後だったことを考えても、かなり割安なサービスだと思っていましたが、どこからも依頼はなく、収入源となる会員が見つかりませんでした。
そこで、社員の発案で炎天下の銀座に繰り出し、ビラ配りをすることにしました。社員は、女優や歌手の卵で、美人でしかも度胸もある! 飛び切りの笑顔と美声で人目を引きました。それが功を奏し、ついに会員1号が現れました。カメラマンの方でした。次にアニメーターの女性。「そんなに安く電話秘書サービスを利用できるなら」とフリーのアーティストが多く利用してくれたのです。そんな中で、女性が起業した新しいビジネスとして、マスコミに取り上げられるようになり、テレビ出演のオファーが舞い込みました。テレビの仕事の経験もあった私は、宣伝のために出演を快諾したのですが、当時人気だった深夜番組の『11PM』で、大橋巨泉さんにおもしろおかしく取り上げられました。
11PM出演後、深夜に帰宅すると、会社中の電話が鳴り響き、社員が総出で対応していましたが、そのほとんどが「ねえちゃん、いくつ?」というような、今で言うセクハラ電話それでも会社の名前を覚えてもらえるならありがたいと思ったものです。初年度の売り上げはわずか500万円でもちろん大赤字。10年間の蓄えも当然のように消えていってしまいました。社員にはきちんとお給料は遅れずに支払っていましたが、犠牲を強いていたのは確かでした。結局、私がお給料を受け取れるようになるまでに2.3年はかかりました。
そのうちに会員も徐々に増え、作家、評論家、経営者の方々の利用も増え、有名な俳優さん、タレントさんなどにも重宝してもらうようになっていきました。そこまで時間はかかりましたが、社員の力に支えられ、何度かの危機を乗り越えました。

新たなテクノロジーの登場に翻弄されないで
今では、そんな電話を使ったサービスで起業して41年。今ではさまざまなコミュニケーションツールがあります。
インターネットが登場し、手紙ではなく、電話でもなく、メールで大切なことを連絡することも多くなりました。情報の多様化、スピード化が進んだ今の時代では、場合によっては、140文字でつぶやくTwitterや、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)など、新しいツールの特性を生かしたコミュニケーションを取り入れることも必要です。
しかし、新しいものを取り入れる一方で、私たちの「文字」「言葉」の持つ素晴らしさや、その趣も忘れてはならないと感じています。そうした言葉を大切にしつつ、新しい日本の言語文化をつくっていくことが必要なのではないでしょうか。

時代とともに便利なコミュニケーションツールが登場してもダイヤル・サービスでは今も、電話相談を続けています。電話は相手が生身の人間であることを意識しながら相手とコミュニケーションをとるツールです相手の声のトーンや話し方などで、おおよその相手の気持ちを察することができるものです。笑顔で話しているときの声と、不機嫌なときの声は違います。しかし相手が笑顔で書いたメールなのか、不機嫌なときに書いたメールなのかということを、メールに書かれた文字から察するのは難しいものです。言葉と言葉、声と声、人と人を結ぶコミュニケーションをビジネスとしてきたからこそ、今、この時代にこそ、電話サービスは必要不可欠なコミュニケーションツールではないかと感じています。新しいテクノロジーも必要です。でも、それに翻弄されて、大切なものをなくさないように気をつけたいものです。

今、私自身も携帯やパソコンのメールを使っていますが、携帯メール、PC、メールそしてSNSなどのITツールの中では文字だけが自分を表現できる手段です。生身の人間にメッセージを送っている、ということを意識しないままに、身勝手に書き込まれてしまう文章が存在し、その結果として相手を傷つけたり、誤解されたり、ということがあるのは残念なことです。たとえば、少し前までは携帯電話もメールもありませんでしたから、当然、携帯のメールでいじめが起きるなどということはありませんでした。新たなテクノロジーで生活を豊かにするはずが、使い方を間違えてしまうと人を傷つけ、
苦しめる結果となってしまうのです。
携帯、PCというマシーンの向こうには、生身の人間がいます。ですから、あなたから届いた「メール=言葉」を読む人が必ずいると常に意識しながら、
会話や言葉を大切に発していくよう心がけてほしいと思います。

100歳現役!100歳が適齢期! という選択
これまでも、これからも現役。永遠に
歳を重ねるのは結構楽しいものです。今の私はアラセブ(70歳前後)ですが、
同世代の友人たちも、とっても充実したアラセブ生活をエンジョイしています。
「もう歳だから……」という40代や50代60代の女性がいらっしゃいますがそれを言ったらおしまいです。それを言った時点で、自分で現役からドロツプアウトしてしまうようなものです。
歳をとるほど、人生は楽しいもの。歳をとったからできるようになったこともたくさんあるはずです。
現役でいるかどうかは自分で決められること。人は年齢ごとに目盛りの違うものさしを持っているのです。20代は、とにかくがむしやらに、時間も目標も成果も細分化された不揃いで、小さな目盛りのものさしです30代になると、結婚や出産、転職など一歩一歩をじっくりと考えて選んでいく必要がありますから、とても正確で目盛りの幅も揃ったものさしです。そして40代ここからは個人個人違った幅の目盛りがあるものさし、となります。1年単位の時間軸を持つものさし、自分で掲げた目標達成までのステップが目盛りとなるものさし、肌のしわや体の線の変化、更年期障害など女性特有の年齢の目盛りをはかるものさし。その時々に応じて、自分らしく生きる指標を持てばよいのです。

私は女が働き続けるという道を選びました。生涯現役が夢ですが、一方で今の場所からは脱皮したいと思っています。イモ虫がサナギになり、蝶になるように、脱皮と変態を繰り返しながら、現役を続けていきたいのです。仕事の中身や目的は変化しますが、現役を降りるつもりはありません。
女性の起業家がもっと育ってきてほしいと思っていますし、女性にもっと活躍してほしい。そして何よりもっと幸せで元気になってほしいと思っています。自分が幸せになるために、仕事を続けて、働き続けてほしいのです。私は、こうして仕事を続けられて、本当に幸せです。そして健康でいられるのも仕事を続けているおかげだと信じて、感謝しています。100歳を超えたら、そろそろ楽しい余生を考えるかもしれません。それに、80歳を私の適齢期と決め「婚活」をするのも悪くないと思っています。だから、
「100歳現役80歳現役が適齢期」なのですそんなふうに前を向いて「さあ、これから―」といつも思っているせいか、「とてもそんな年齢には見えない」なんて嬉しい言葉をかけていただけるほど健康です。
私が手にしているものさしはとても長くて目盛りもぎっしり詰まった年齢制限なしの万能なものさしなのかもしれません。

マジョリティは現在の力、マイノリティは未来のカ
アメリカの女性起業家にみた未来のカ
私が27歳でチヤレンジしたニユーヨーク万国博覧会は1964年4月から
1965年10月の期間で開催されていました。3000人の応募者の中から選ばれたおよそ100人のコンパニオン。幸運にも、その中のひとりとして、生まれてはじめてアメリカの大地を踏みしめるチャンスをいただきました。
アメリカで、女性解放運動が本格的に始まったのは1970年代初頭とされていますが、解放運動の指導者として活躍されたベティoフリーダンという女性が、『新しい女性の創造』という女性問題を取り上げたベストセラー本を発行したのが1963年のこと。ですから、私がニューヨークを訪れた1964.6年というのはまさに女性の社会進出序章期と言えるのではないでしょうか。
その本の中には女性が人間として生活していくためには社会が変わらなくてはいけない。「ただの主婦」としてだけでは生きていけない。だが他にどんな生き方があるというのだろうかクといったことが書かれていました。
アメリカの女性たちがそんな悩みを抱えていたことなど知らなかった私にとっては、η歳ではじめて接したアメリカは、それこそ夢のような世界でした。
そびえたつ摩天楼大型車に大型冷蔵庫温水プール付きの家まであって人々には教養があり、誰もが優しく親切で、すべてが輝いて見えたのです。
そして、イエローページを何気なくめくって出会った「TAS」(テレホン・アンサリング・サービス)という会社と、そこの女性社長に衝撃を受けたのですが、こうして振り返ってみると、当時の彼女は、アメリカでもまだ社会的少数派「マイノリティ」のひとりであったはずです。
私はその彼女に、勇気と希望を与えてもらい、同時にマイノリティが持つク未来のカクを見せていただいた、と思っています。そして、やはりこの体験なくしては、今の私はありません。
マジョリティは現在のカ
2007年のデータですが、女性が事業主となっている米国企業の数は1220万社に達し、男性が所有する企業数を上回るそうです。また女性が管理する資産総額が4兆ドル(約1550兆円)に達していて、今後10年間でさらにほぼ倍に増える見通しとなっている、と聞きました。0年前にはマイノリティであった米国女性企業家ですが、現代のアメリカではその立場が逆転し、女性企業家がマジョリティとも言えるほどにその数を拡大させてきたわけです。
それでは、日本は、と言うと……、女性が事業主の会社は、現時点でおおよそ6万社ほど。少し古いデータになりますが、1999年の数字で調べると、全米の企業数に占める女性企業家の割合は40%、日本の場合はたったの5・5%です。この数字からもわかることですが、米国の女性企業家とは違って、日本の女
性企業家は現在もマイノリティです。つまり、日本の状況はいまだに、私が1969年に見たアメリカと同じ、序章期なのだとも言えます。
女性起業家を支援しましょうという動きは年々増え続けています私自身 「息子」である男性ベンチャークを数多く応援してきましたが、「娘」である女性ベンチャーもいっぱい応援してきましたし、これからも今まで以上に支援していきたい、と考えています。
日本の女性も、公私にわたるこうした支援を受けながら、ひとりひとりが自分の力を発揮し、チャレンジすることで、社会を変える力にすることができるのではないでしょうか。
ある調査では、女性の場合、起業しても大企業にならないことが多いとされ、
ていますそれは女性が企業規模にこだわるより好きな仕事を楽しんでやっているからという報告があります。また、組織形態においても女性起業家には、男性とは異なった特徴があり、ピラミッド型を多く採用する男性起業家に対し、女性起業家は、柔軟な組織形態を取る場合が多いそうです。これは、女性起業
家が多くの女性従業員を雇う傾向も影響しているかもしれません。
女性のリーダーは、プライドや勝敗への執着よりも、理念的な満足を得ることを好み、相手に対して母性的コミュニケーションで働きかける傾向が強いようです。
彼女たちは、女性としての経験から生まれたスキルや考え方を生かすことによって、このようなスタイルを身につけ、男性とは異なるアプローチで道を切り開いているのです。
女性は女性らしく、自らの感性と才能を生かして力を発揮すれば、それが結果につながっていきます。元来持ち合わせている力を発揮すれば、必ずや何らかの成果を手にすることができる、ということではないでしようか。
それが仕事の場であっても、社会の中であっても、家族や友人の中であっても、自分が信じた道を自分の意思で選択し、前を向いてその道を進めば、きっとあなたが望むものをつかむことができるはずです。
一兎と言わず、二兎も三兎も追いかけよう
私の青春時代はとにかく忙しく、まさに「貧乏暇なし」でした。これまでにお話ししてきましたが、たくさんのことをしていた理由は、22歳で起業を決意して以来、会社設立に向けてのお金を貯めなければならなかったこともありま
す。そしてもうひとつの理由は、起業する日は決めたものの、何をするのかが具体的に見えていなかったからです。当時の私には、自分に何が向いているの
か、何がやれるのか、何をしたいのか、才能はあるのかないのか、五里霧中の状態でした。ですから、わからないなら何でもやってみようと、ただひたすらに自分の目の前に現れたことにチヤレンジしていました。
つまり、「迷う暇すらもなかった」ということなのかもしれません。
第1章で自分に向いていないと思うことは、消去法で切り捨てましよう、ということを言いました。でも、その気になれば結構やれそうなことはあるものです。向いていないかも、と思いつつも選択に迷い、少しでも諦めきれない気持ちがあるとしたら、それは諦めずにいればよいのではないでしょうか。今す
ぐやれることを、1つ2つでも、また、どんな小さなことでも夢中で取り組んでいれば、いつか何かの形になります。
たくさんのことをしてきた私でも、すぐに成果に結びついたことばかりではありません。夢中で動いていく中で、いくつもの出会いやご縁、幸運が重なり、今に至っています。
そして今、どんなに回り道をしてみても、やっばりここに戻ってくるのだと思い知らされています。
あなたがもし何かに迷っているとしたら決断するまでの間は少しでも面白そうだと思うこと、やれることには何でもチャレンジしてみてはいかがでしょうか。人の心の中は他人には見えないもので、何の苦労もない楽な人生に見えても、それぞれ傷もあれば、失敗も経験しているものです。
自分には何もない、才能がない、夢もない、と絶望する暇があるならば、まずは自分と向き合い、日の前にあることに打ち込んでみればよいのではないでしょうか。
もちろん、失敗もすれば、損をすることもたくさんあると思います。しかし経験したことすべてが、自分自身の豊かさにつながるのだということを忘れないでほしいのです。
そして、大切なこと。日々、感謝の気持ちだけは忘れないでください。
Nothing is too late いつでも、今日が始まり!

強い信念を持ち、まっしぐらに目標に向かって歩いてきましたが、これまで選んだすべての決断が正解であったとは言えませんけれども失敗の選択だったからといって、前に進むのをやめたことは一度もありません。
ビジネスの場面で男性にお会いすると「70歳を超えているようには見
とても見えませんね」とか「そのお歳で現役とはすごいですね」と言われます。女性に会うと「きれいなお肌ですがエステは週何回くらい通われているのですか?」などと言われます。私は、今も昔も変わらず、毎日忙しく過ごしていますから、エステやジムに通ったこともありません。
ではどうして元気に毎日会社に通って過酷なスケジュールを今もこなしていけるのかというと、前項でも少し触れました私がこの世に生まれて、「果たさなければならないミッションはまだいっぱい残っている」と思っているからです。今、倒れるわけにはいかないし、倒れるはずがないと思っています。
最近の不況で、私が応援してきた数多くのベンチャー企業がバタバタと倒産しました。ベンチャーに夢をかけてがんばっていた知り合いの起業家が自ら命を絶ったという悲しい出来事もありました。ITバブルと言われた時期には、若い起業家がもてはやされ、ただカッコよさそうだから、というような安易な動機から会社を起こした人もいましたが、新しい事業に人生を賭け、信念をもってベンチャーに取り組んできた起業家たちにさえも、この不況は容赦なく襲いかかりました。
「いろいろと応援していただきましたが倒産することに……」と私のもとにやってくるベンチャーの息子や娘たちがたくさんいます。
でも、そんな彼ら、彼女らに私はいつもこう言っています。「これが終わりではなくて、これからが新しい始まりなのです。今の時代は確かにとても厳しいときかもしれませんが、私は今こそ、″100年に一度ある
かないか、のビッグチャンスがつかめるときクだと思っています。時代の流れの中で1つの役割が終わるのは当然。そこに未練や執着を持つのではなく、次なる自分の役割を早く見つけましよう」と。
1章にも書きました逆境のときこそ勝ちにいく」恵まれ過ぎた時代からは新しく斬新な事柄はなかなか始まりにくいのかもしれません。なぜなら人は恵まれているとその生活に満足してしまうからです。でもハングリーな時代の場合は違います。誰もが豊かになりたい、幸せになりたい、生き残りたい、と望み、そのためにはどうしたらよいのかを考えます。家庭生活においても、
会社経営においても、とりあえずマイナスをゼロにすることは必須事項です。
ゼロをプラスにするのはもちろん望むところですが、その前にゼロを維持することが先決です。そしてゼロが維持できるようになってはじめてゼロからプラスヘと進むわけです。だからこそ、経済不況、少子化、高齢化、学力の低下、地方の過疎化、環境問題といったさまざまな問題を抱えた逆境の時代、マイナス時代の「今」こそがチャンスのとき、新たな時代の始まりのときなのだと実感しています。時は止まることなく、前へと進んでいます。後戻りはしません。今日何かを選択すれば、今日からがスタート、時とともに前進します。明日何かを選択すれば、明日からがスタート、その時から前に進んでいきます。何かを選択して始めるのに遅すぎることなんてないのです。
ぜひ、今この瞬間、自分の心に聞いてみてください。「今日私は何を迷っているのか? 今日自分は何をしたいのか?」
そしてぜひ今日、どんな小さな事柄でもいい何かひとつ女の選択″私の選択″をしてみましよう。
Nothing is too late

エビローグ
この本を手にとっていただいて、ありがとうございます。それだけで何か素晴らしいご縁の始まりを感じます。
「始まり」とあえて言いたいのは、こういう理由です。この本はもともといくつもの「縁」から始まりました。この夏、突然降ってわいたようなお話で、NHKが『たったひとりの反乱』
という新シリーズの一環として、私の創業前後をドラマにして放送してくださいました。それを知って出版界の大物K氏が、「せっかくだから、本を出しましよう」と熱心に勧めてくださり、時間がない、とひるむ私に、出版社の紹介まであれこれお世話してくださることになりました。そのやりとりの中で、「でも、せつかくNHKで放送していただくのだから、NHK出版がいいかもね。そういえば社長さんは遠藤周作の甥に当たる人……云々」と。最後まで聞かず、私は驚きとショックで大声をあげました。だって、そのドラマは、他ならぬ遠藤周作氏の実兄正介氏(電電公現NTTの当時の営業局長)との戦い
を中心に展開されているのですから。周作氏の「甥」はこの世の中にたったひとりしか存在しない、私の反乱の相手のご長男ということになります。結果として、そのご縁でNHK出版から本を出すことになりました。「賢兄愚弟」と周作さん自らおつしゃっていたそのご兄弟は、天国で、この不思議な「縁」をどう見ておられるのでしょうか。もしかしたらイタズラやジョークも大好きだったお2人が、共謀されたのかもしれません。
私の会社は40年赤ちゃん110番」「子ども110番」「熟年110番」、後半からは食や健康、近大は「企業倫理」や「セクハラ」「いじめ」そして現代、大問題である「うつ」「メンタルヘルス」へとテーマを広げてきました。これまで、ダイヤル・サービスに全国からたくさんアクセスしてくれたのは、
主に知恵と情報を持った多くの女性たちでした。私たちのサービスは、一方通行のマスメディア時代に、双方向メディアとして風穴を開けましたが、今また人々のデマンドは、新しい交流の場を求めているように感じます。
40年前は電話が「ニューメディア」でしたが今では当然ネツトやプログモバイルと使える手段も広がっています。それでも何かが違う。もっとダイナミックに、もっと自由に、みなの意見が行き交う、斬新で参加者にとって有意義なコミュニケーションの場を作れないものかと、ここ数年、モヤモヤを抱えていました。
この本を出すにあたっても、私の経験を語ることが、悩める女性たちの役に立つのでは、と思う一方で、「それだけでは足りない、読者のみなさんの経験や悩みを受け止め、共有できる場が必要なのでは」と感じていました。

そんなとき、ニューョーク時代の友人Eさんが、今アメリカで話題になっている多彩なコミュニケーションサービスの情報を提供してくれました。本の出版にウェブサイト、Twitterなんかも絡めてゆけば、きっと求めていたコミュニケーションの場ができる、と。
この本が出る頃には、「女の選択」というウェブサイトが動き始めているはずです。いつものように、新しい場を提供するのは私の役割です。白いキャンバスや絵の具は用意します。そしてそこに絵を描いていくのはあなたです。
結果として「現在(いま)、日本の私たちは……」という絵が、国内そしてグローバルの波に乗って世界へと発信されていくことになるのではないでしょうか。参加するすべての人が互いに元気をもらえるような、自由で、有意義な私たちの広場をつくっていきましょう。
そうやって走り始めたものの、この本は、実は一度頓挫しかけました。その絶望的な状況の中、放り出されたバトンを拾って、黙ってゴールを目指して走ってくれた人がいます。その田畑則子さんとの出会いは5年前でした。伊豆にあるゴルフ場に、取材のためにやって来たのです。その日は雨台風。豪雨の中で
プレイする私を、彼女も全身ずぶ濡れになりながら取材を続け、素敵な本が出来ました。プレイ後、「実は今7か月日です」と言われ、私の方が流産しそうなほどのショックを受けました。働く女性としてのその根性と、何があってもやり抜く責任感に打たれました。今回も、他の誰かが落としていったバトンを、空気を読んで拾ってくれました。この本が完成できたのはあなたのおかげです。ありがとう。
そして、すべてを受けとめ、信じて応援してくださったNHK出版の河野編集長、中野さん、ウェブサイトのプロデューサー橋爪栄子さん、たくさんの資料を提供してくれたダイヤル・サービス、その他、この本の出版にあたってお世話になった多くの方々に心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございました。
そして今、この夢いっぱいのバトンを、この本を読んでくださったあなたにつなぎたいと思います。
ダイヤル・サービス株式会社代表取締役 今野 由梨
装丁三村淳十三村漢編集協力橋爪栄子(有限会社サードリーム)
田畑則子(株式会社>0く8ごお〕>”>Z)本文DTPNOAH校正山内寛子
今野由梨(こんの・ゆり)
ダイヤル・サービス株式会社代表取締役社長。株式会社生活科学研究所代表取締役所長。
三重県生まれ。津田塾大学英文学科卒業。1969年にダイヤル・サービス株式会社設立。日本初の電話相談「赤ちゃん110番」を開設。1979年女性だけのシンクタンク(株)生活科学研究所を設立。1993年(財)2∞1年日本委員会理事長就任。その他に、(社)日本ニュービジネス協議会連合会副会長。女性のオビニオンリーダーの会「ウィメン・リーダーズ・フオーラム・ジャパン(WLF)」主宰。1985年情報化月間「郵政大臣賞」受賞。1998年「世界優秀女性起業家賞」 “The Leading Women Entrepreneurs of The World”受賞、2(X)7年「旭日中綬章」受章。著書に『ベンチャーに生きる一私のチャレンジ半生記』がある。
●ダイヤル・サービス株式会社http:〃wwwdsn.cojp

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