AI学習 今野2

 

日本経済新聞出版社

私のチャレンジ半世紀

今野由梨

 

――私たちのサービスを共につくってくださった

数千万人の利用者

数千人のスタッフ

そして

数百社のクライアント

に、この本を捧げます。

心からの感謝を込めて今野由梨

 

 

プローグ

一九四五年七月十七日終戦の一ヵ月前の午前一時半から夜明けにかけて、B29爆撃機が焼夷弾十数万発を三重県の桑名市内に投下。町は一瞬にして火の海と化した。未明の急襲に

人々は阿鼻叫喚で逃げ惑う。その中を九歳の少女がたった一人で町の中心部へ向かって走っ

ていた。続けざまの直撃のたびに、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々の波に揉まれるうちに、家族とはぐれてしまったのだ。母にはしがみついていたかった。だが、赤ん坊を背負う母の手には祖母がつかまり、もう一方の手は妹たちを乗せた乳母車を押している。少女のつかまっていられる手は空いていなかった。六人姉妹の次女だった少女は、業火の中を自分の足で逃げ延びなければならなかっ

た。母の背中だけを息絶え絶えに追う小さな九歳の子の視界を、だが右へ左へ逃げ惑う大人たちの群れが遮り、そのたびに見失いそうになる。どれくらい走ったのか、頭上に降り注ぐ火の玉が地上に達するときに放つ鋭い金属音に、人の波が大きく乱れ、気がついたら母たちはもうどこにもいなかった。

一お母さん、お母さん」声を限りに叫んでみても、周りの怒号や悲鳴にかき消されるばかり。

どうしよう、どうしたらいいの、私はどこへ行けばいいの。少女の足は逃げてきたばかりの町の方へ向かった。炎の荒れ狂う危険な町に、なぜ戻ったのか。そのとき、少女の頭の中に浮かんだのは父親の姿だった。町へ戻ろう。家に戻ろう。そこにはお父さんがいる。近所のおじさんたちもいる。

父親たちは最後まで残って町を守ろうとしていた。地獄の中に一人残された少女には、その父親だけが頼りだった。

燃え盛る火はますます激しくなり、空は塞がれ、町中が火の旋風。それはまさしく地獄の業火だった。人々が半狂乱で走りながら、「そっちじやない、早く町から逃げるんだ!」と

叫んでいた。

ああ、もう助かりそうもないと思ったとき、少女はへたへたと地面にくずおれ、神様に話しかけた。「神様、私はここで死ぬのですか。なぜですか。死ぬなんて絶対いやです、私を生かしてください。もし、この夜を生き延びることができたら、大人になって、アメリカに行って、今日のこの体験をみんなに話して、三度と子供たちが戦争で命を落とすことのないように、私は頑張りますから。神様、お願い……!」

市の八割を一夜にして灰にした桑名の空襲で、犠牲となった人たちは六百五十七人。そんな悲惨な状況の中を、九歳の少女がたった一人で逃げ走り、生への綱をつかみ取ったことは奇跡に近い。人々に押されるようにして町から出た少女は、田舎道を山の方へ向かってひた走った。そしてたどり着いた丘の上には、一本の大きな桜の木があった。そのよじれ曲がった幹を登り、古木にしがみついて、少女は眼下の火の海をただ一人、呆然と見ていた。逃げながら目にした恐ろしい光景を思い出しながら。

夕焼け空が黒くなるほどのたくさんのコウモリたちがすむ、あの大いちょうの木も燃えていた。鳥たちはどうなったんだろう。鐘突き堂の下の鳩の卵は、蓮池の亀の子たちは、みんなみんな、いったいどうなったんだろう……。

大好きな人形たちを置き去りにしたことを思い出し、少女は激しく動揺した。

空を染めていた火の手が少しずつ夜明けの光に入れ代わる頃、顔見知りの人に出会った。「みんなが探してたよ。そのままそこにいなさい。今、お父さんとお母さんを探しに行ってあげるから」                                     一そして父親、しばらくしてから母親が取り乱して桜の木の下に駆けつけた。傷だらけ泥だらけの両親の姿は、娘を捜して駆け回った苦闘の後を物語っていた。それなのに、火の中を一人で逃げ惑っていたはずの少女は、けが一つ擦り傷一つなく、髪の毛一本も焼けず、衣服もきれいなまま立っていた。実に不思議な、日を疑うような光景だった。この子は本当に、あの火の海の中を一人で逃げ回っていたのだろうか。神隠しにでも遭ったのではなかろうか。、

両親は無事だった娘を思いっきり抱き締め、喜びと安堵の涙を流した後 一夜にして不思議な力を宿したようなわが子をしばし呆然と眺めていた。

 

 

第一章

その日、新しく借りたコーポラス四百十五号室の六畳一間の畳の上に、二台の黒電話がごろんごろんとやって来た。私には生命あるもののように見えた。「こんにちは、よろしくね」。私はそのいとおしい黒い塊をそっとなでた。それは三十五年たった今も、私の机の上にある。

一九六九年五月、三十二歳で私はついに念願の会社を設立した。場所は東京の京王線笹塚駅前。払込資本金七十五万円、私が十年の思いをかけて実現させたダイヤル・サービス株式会社だ。

「女が大学なんて」と言われた時代に、故郷・桑名で周りの大人たちの反対を押し切って東京の四年制女子大に進んだ。四年後、胸躍らせて臨んだ就職では玉砕。社会は、企業は、四大卒の私を求めていないことを悟った。二十二歳の厳しすぎる現実だった。「それならば自分で会社を起こそう」と決意した。設立までの猶予十年と自分に義務付けた。女の定年二十三歳というのが暗黙の了解になっているような時代だった。

そして十年、生きるために遮二無二働き、夢を叶えるために様々な世界に飛び込んで体験を積んだ。その十年の格闘が今、ちっぽけだけど夢をたつぷり内包した「会社」という形になって、ここにある。私は紛れもなく経営者としての道を、そのときから歩き始めた。

 

1 創業夜明け前

米国の女性経営者との出会い

「十年後に起業する」と決心した私だったが、実際にダイヤル・サービスという会社を起こ

す具体的な引き金になったのは、一九六四年にニューヨークで開かれた世界博覧会にコンパニオンとして参加したことだ。ちょうど三浦朱門さんと曾野綾子さん夫妻のところで、日述筆記のアルバイトをさせてもらっていたときに、ニューョーク世界博で日本館コンパニオン募集という話があることを夫妻から聞いた。九歳のとき、「将来、アメリカに行って、戦争をやめるよう話します」と神に誓って以来、米国は雲をつかむような漠とした目標だった。それが突然、現実になるかもしれない。気がついたら応募していた。

そして、三千人の応募者の中からなんとか選ばれた。

二十七歳で初めて接した米国は、それこそ夢のような世界だった。そびえ立つ摩天楼。家々には何台もの大型車、大型冷蔵庫、三種も五種もの神器があり、温水プール付きの家も珍しくなかった。何でもあるし、すべてが輝いて見えた。人々には教養があり、誰もが優しく親切だった。

日本はこの国と戦争をしたのだ。私の頭上に爆弾の雨を降らせたのは、本当にこの国の人たちなのだろうか。九歳のままの自分が時々顔をのぞかせ、私は混乱した。

ある日、仕事が休みのときに何気なくイエローページをめくっていたら、「TAS」という文字が目に飛び込んできた。何だろうと思ってよく見ると、テレホン・アンサリング・サービスとある。何をサービスするのだろう。取りあえず電話をかけてみた。受話器の向こうでは女の人が親切に説明してくれた。言葉の意味はわかっても、具体的なイメージが全く浮かんでこない。受話器を手に頭を悩ませていると、「本当にそんなに興味があるなら、いらっしゃいよ。見に来れば」と言ってくれた。

自分の会社をつくることは決めていたが、いったい何をしたらいいのか、私にはまだ見えていなかった。次の休日、早速、期待に胸を膨らませて出かけていった。マンハったンにあるオフィスのドアを開けたとき、「バーン!」という爆発音を耳にした気がする。爆風さえ感じた。

本当にそんな感じだった。見たこともない風景が目の前にあり、アメリカの匂いがした。電話のスイッチボードというものを初めて目にした。ヘッドホンを着けた多くの女性たちが、

スイッチボードのコードをつなぎながら、そのボードに向かって一斉に話しかけている。百人くらいいただろうか。もう騒音に近いくらいの声が鳴り響く仕事場だった。

電話で辛抱強く私に説明してくれた女性は、優しそうな美人だった。その人が社長だと知り、私は目が飛び出るほど驚いた。こんな美人が、こんなに大勢の人を使って、見たことのないような新しいビジネスを展開している。日本の片隅でいろんなアルバイトをしながら、毎日必死で食い扶持を稼いでいた私には、驚くなと言っても無理な話だった。

「こんな世界があるんだ」視野が一変した。「実は私も自分の会社をつくりたいと思っている。けれども、日本ではまだ女が働く環境がない」と、大学進学のときの反対に始まり、就職の道が閉ざされて、アルバイトで生計を立てる今に至るまでを、切々と訴えた。それをじっくり聞いてくれた女社長が言ってくれた言葉。「アメリカでも、ついこの間まで日本と全く同じ状況だった。だから、あなたが置かれてい

る状況は昨日までの私。あなたの気持ちは痛いほどわかる。だけど、信じて頑張れば、私に今のこの日があるように、あなたにも必ずその日が来るから」

 

涙がこぼれそうになった。これまでにかけてもらったことのない励ましの言葉。日本では頑張れなどと一度だって言われたことがなかったから、それは夢のような経験だった。「私たちも同じだった。でも嘆いていても何も始まらない。その厚い氷を誰かが割らなければ永遠に芽は出ない。由梨、あなたがアイスブレーカーになるのよ。日本に帰っても、しばらくはまだそういう時代が続くでしょう。だけど、もうあなたは独りじゃない。つらくなったら、太平洋のこちら側に私たちがいて心からエールを送っている、応援していることを忘れないで」その言葉は私に勇気と希望を与えてくれた。ニューヨークに来てよかった 心底からそう思った。

そして、電話というツールを使ったビジネスの可能性を知ったことも、人生の大きな転機になった。

 

電話ビジネスのヒントを得る

当時の日本はまだ、どの家にも電話があるというわけではなかった。私の場合、大学の四年間、下宿させてもらった東京の伯父の家に電話はあったが、家族や友達にかけるということはほとんどなかった。それくらい電話は、誰もが気楽に使うというものではなく、もっと特別なもの。ましてや当時は電話料金の遠近格差が甚だしかったから、故郷の桑名にかけることなど下宿の身ではできなかった。だが、毎朝ダイニングルームに下りると、そこにある電話に手を置いて、おはようと胸の内で話しかける。この先には桑名の実家があって家族がいて、つながっているんだと感じる一瞬。

電話には、誰もがおもちゃ同然に通信機器を使える現代では味わえない、つながったときの感動があったし、たとえつながらなくても電話回線の遥か向こうをイメージして心を満たせるだけの力があった。

そういう存在だった電話を使ってビジネスをするという発想は当時の日本にはまだなかったが、自分の中ではむしろとても自然で何の抵抗もなく受け入れられた。「なるほど、こういうビジネスがあるんだ」

電話というツールがいけると直感した背景には、当時の日本の情報の流れ方に対する不満もあった。テレビにしろラジオにしろ新聞にしろ、世の中の情報ツールはマスコミ一辺倒で、川上から川下に流されるだけだった時代。その流れは男社会がつくり上げたものだ。一方、進学や就職で疎外された女性たちは、結果的に男たちとは違う世界を獲得していた。子供の教育のこと、お年寄りのこと、地域社会のこと、健康のこと、食のこと……。生活や文化というジャンルでは男より圧倒的に経験豊富で知恵もある。しかし、その女性たちの声を発信する場がなかった。

例えば、デパートやスーパーに行っても、なんと知恵も心もない商品ばかりが並んでいるのだろうと思うことがよくあった。もっとここを工夫すれば、配慮があれば、ずっと使い勝手が良くなるのにと思うのだが、そうした生活用品を作っている人たちが生活のことを知ら

ない、使い手側の立場になったことがないのだから、それも当然のことだった。新聞・雑誌を見てもそうだ。立派なことは書いてあるが、共感や実感には程遠く、「本当に生活者の気持ちがわかっているのだろうか」と違和感を深めることが多かった。

だから私は、女性たちの情報や知恵を発信するメディアが欲しいと、かねてから思っていたのだ。ニューヨークで電話がツールになっているのを目にしたとき、引っかかっていた思いがいっぺんにほどけていくような不思議な感覚を味わった。いつでも誰でもどこからでも発信できる電話は、もしかしたら川上から川下に流れるだけの情報を、生活者発で逆流させることができる「メディア」になるのではないか。漠然とだが、そんな直感に思わず身が震えた。

もちろん、具体的にどういうビジネスが考えられるのか、そんなことはさっぱりわからなかったが、それ以来、私の胸の中では電話ビジネスヘの意欲の火の粉が、ぱらばらと舞い始めたのだった。

世界博が終わり、いよいよニューヨークをたつというその前日、私はエンパイア・ステートビルの屋上に上り、風に吹かれながら、明るい光が降り注ぐ摩天楼を見渡し、叫んだ。「I shall return!」

必ず戻ってくる。こんなに迷っていた私に、知恵と勇気を与えてくれたアメリカから、恩をもらいっばなしで終わらせることはしない。いつか必ず仕事を通して役立つ人になって、私はニューヨークヘ戻ってくる。摩天楼にそう誓った。

 

欧州の電話ビジネスの実態を学ぶ

帰国してすぐ、心の中でむくむくと頭をもたげたのは、次は欧州での電話サービスの実態を見てみたいという思いだった。

米国では、その時代の科学技術の粋を集めた世界博を見尽くした。世界各国の人たちとも出会った。電話を使った情報サービス、ニュービジネス、これもオフタイムのときに精いっぱい見て回った。あとはヨーロッパでどうなっているか、起業までの残り時間に、それをどうしてもこの日で見ておきたいという強い気持ちだった。

とはいえ当時はまだ、二十代の女性がのこのこと一人で、これといった用もないのに海外旅行をするような時代では全くなかった。だいたいほかの国へ行くには、現地の誰かがスポンサーになって迎え入れてくれないと認められない。どうやったら行けるのか、当ては全くなかった。

そこで、世界博で知り合った人たちに片っ端から声をかけ、ヨーロッパに誰か知り合いがいたら紹介してほしいと頼み込んでいったところ、西ベルリンでよければレストラン経営者を紹介できるという話をもらった。まだドイツが東西に分裂していて、その当時の西ベルリンはまさしく陸の孤島。どこへ行くにも、チェックポイント・チャーリーで拳銃を突き付けられながら取り調べを受けないと出られない。ヨーロッパを見て回るには最悪と言っていい場所だったが、ほかに選択肢はない。スポンサーになってくれるならマフィアだって構わないというほど思い詰めた私は、西ベルリンでレストランを営む人の厚意にありがたく従うことにした。

最初の三ヵ月は、レストランでアルバイトをさせてもらいながら、貯金をつぎ込んでドイツ語の学校ゲーテ・インステイチュートに通った。それこそA、B、Cから勉強しなくてはならなかったのだが、わずか三カ月後には、ドイツ語通訳のアルバイトを始めた。考えてみれば大胆不敵な話だ。

初めてのお客様は日本から来た医師のグループだった。彼らは当然ドイツ語の読み書きはできるし、専門用語も知っている。ところが、街に出るとそれが全く通用せず、レストランでの食事や買い物にも不自由するありさまだった。そういった人たちのガイド役は、実にいい仕事になった。ハノーバーや各地で開かれるメッセでは、現地の日本企業のブースでアルバイトをすることができたおかげで、日本から来る視察団なども紹介してもらえて、通訳・ガイドの仕事を探すのに苦労はなかった。今思えば間違いだらけの、その乱暴な通訳に驚いた人も少なくなかったのではないかと思うのだが、二十代の私が一人ベルリンにいる訳を知って、エールを送ってくれた。そうやって生計を立てる傍ら、ドイツやフランスの、電話を使った様々な情報サービスの会員となり、そのサービスを体験してみた。米国で見た秘書サービスもあったが、モーニングコール専門のサービスや鍵のトラブルにすぐ駆けつけてくれるSOSサービスなど、当時としては面白いサービスがいろいろとあった。

中でも一番印象深かったのが、フランスのシル・ヴ・プレという会社の会員制情報サービスだった。経済・産業・土木。技術。商品・マーケテイングなど、あらゆるジャンルの情報を必要なときに電話一本で提供する一種のコンシェルジェサービスで、今や世界四十力国に情報ネットワークを広げる一大情報コンサルティングフアームに成長しているが、当時はこぢんまりした平屋建てのオフィスで、ここを見学させてもらった初の日本人が私だった。

アルバイト企業先の様々なつてをたどってシル・ヴ・プレに紹介してもらったが、当初は「日本人の見学は一切お断り」とことごとく断られた。日本人に見せたら、すぐまねされるからというのが理由で、当時は訪ねようとする各国の企業でこう言われたものだ。

ここで諦めたら、私はいったい何のためにヨーロツパに来たのか。そうだ、アポイントなど取るから、しかも日本の大企業の口利きなんかもらうから警戒されるのだ。翌日、私は何のアポもなく、シル・ヴ・プレ本社に押しかけた。パリに着いて電話をかけると、先方は驚いて「断ったはず。いったいどういう人が見学したがっているのか」と聞く。どうやら私のことを秘書だと思ったようだ。

「私です」

その時代、日本といえば「富士山、芸者」。世界博で各国コンパニオンが五番街をパレードしたときも、日本人への歓声がひときわ高かったのだが、それがみんな「芸者!芸者!」と悪意のない大歓声だった。どこへ行っても、日本女性は三つ指ついて夫の帰りを待っているものと思われていた時代だから、その日本から、しかも二十代の女性が自分のビジネスのためにやって来るなど、彼らには想像もつかなかったのだ。

訪れた私を見て、その気迫に驚いたのか、社長自ら手のひらを返したように、「どうぞどうぞ、何が見たい?何が知りたい?何か欲しい資料はあるか」といった具合で、すべての部署を案内してくれ、写真撮影もすべてOK。「日本に帰った後も知りたいことがあったら、いつでも手紙をくれ、電話をしろ」とまで言ってくれた。私は大胆にも、いつの日にかこの会社と提携したいと本気で思った。

その後、SVPは日本経済新聞社と提携し、残念ながらその夢は叶わなかったけれど、断られても諦めずに食いついていったことで、大事なビジネスのヒントをいっぱいもらうことができた。

やっぱり諦めてはいけない。諦める暇があったら、その前に挑戦することだ。扉を叩こう、開くまで。

 

トラブルに巻き込まれて

ドイツには行らたり来たりして、二十八歳の頃から足掛け三年くらい住んでいた。この間、日本とドイツの間の貿易のサポートのようなことも経験した。実はこれが私のドイツでの心の傷となって後々残ることになる。

西ベルリンのクルフルステンダムという目抜き通りに、「ジャパン・ディスカウント」という人気店があった。そこに並ぶのは日本製のトランジスタラジオやヵメラで、典型的な安かろう悪かろうという商品ばかりだった。自分の愛する祖国の名の下にディスカウントなどと付けられ、商品が安売りされているのを見て、悔しく思わないはずがない。だが、店の社長と話すうちに、それが世界の中の日本の現実なのだと、嫌でも思い知らされた。

 

でも、日本には素晴らしいものもたくさんある。そういう日本を紹介し、日本とドイツの架け橋になるような仕事をして、「ジャパン・ディスカウント」という店名をなんとか変えさせることができないか……。

そんな思いから、現地で知り合った韓国人とドイツ人が始めた、日本商品をドイツに紹介する仕事に協力することになった。ところが見事に失敗。責任を取れなくなった韓国人社長をはじめ仲間だと思っていたパートナーたちが、みんな一斉に逃げてしまった。しかも、日本企業が意気に感じて出してくれたラジオやカメラ、そして真珠などサンプル品まで一つ残らず持ち逃げして。私の役割は日本サイドの情報をつなぐ手伝い役だった。出資をしているわけでもないし、役員に名を連ねているわけでもない。だが、日本の会社を紹介し、つないだのは私だ。日本の企業に責任を持たなければならないのは私ということになる。しかも、この仕事のことでは日本のマスコミからいくつか取材も受け、女性週刊誌などに派手に紹介されたりしていた。これから自分の会社をつくろうとしている矢先に、こんなことで日本の企業や人々の信頼を失うことになっては断じてならない。若くて生一本だった私にとっては、とてつもない重責となった。ともかく責任を取らなく

ては。覚悟を決めて、損害を与えたいくつかの日本企業の社長の元へ謝罪に行こう。思いはそこに至り、社長を一人一人訪ねることにした。

「私には今、お返しできるお金はありません。でも、これから日本で会社を起こします。何年かかるかわかりませんが、必ずこの責任は取り、ご迷惑をかけたお金はお返しします」

そう言って頭を下げると、いずれも「何のことか」と目を自黒。結局、「当社にとって大した問題ではないし、まして見も知らないあなたから返済してもらおうなどとは全く考えていない」ということで、あっけなく片付けられてしまった。

「それにしても、誰に頼まれたわけでもないのに、わざわざ訪ねてくるとは、あなたも変わった人ですねえ」そう言って笑われた後は、どういう会社をつくるのかなどいろいろ聞かれ、それが縁となり、帰国後会社をつくるまでに、社長たちからは叱咤激励や経営者としての心得、助言など、親身なアドバイスを頂戴することになる。すべてを投げ出す気で飛び込んでいったはずが、逆に大きな力をもらうことになった。何事にも、自分の内なる声のままに真摯に当たれば、思わぬ運命の扉が開くことになる。それを学べた貴重な体験だった。

それにしても、この一件は長年、自分の中に封印しておきたいほどの深い傷として残った。私が信頼して全面的に協力した韓国人Lは慶応出のなかなかの人物だった。自分たちの仕事を日独の架け橋にしようという彼の夢に協力したのだ。そのLが事もあろうに、あちこちに迷惑をかけたまま責任を取ろうともせずに米国へ逃げてしまった。しかもその尻ぬぐいのすべてを私に押しつけて。経営者として人間としてあるまじき行為。絶対に許せない。若い私の心の中で不穏に上がる青い炎は、いつまでも収まることがなかった。

 

汗と涙のセールスマン体験

三十一歳になろうというときに、日本へ戻った。大学卒業時に「会社をつくるぞ」と決意した三十二歳までに、あと一年。その一年は会社を立ち上げるための準備で必死だった。そもそも会社はどうやってつくればいいのかから始まり、人事、経理、営業など実務的な知識はゼロだった。

この時期に三カ月のセールスマン体験もしている。当時三十六万円もした英語版エンサイクロペディア一式を田合で売るという、完全歩合制の仕事だ。この仕事は、ドイツでの一件で縁のできた社長たちから教えられて始めた。「経験のないあなたに人を使うことができるのか。お金を儲けるということ、その実感をつかめ。仕事の中でも一番難しい商品の営業をやってみて、ともかく仕事をすることの厳しさ、苦しさを身をもって体験しなさい。人の上に立つのはそれからだ」

新聞でかき集められたセールスマンがマイクロバスに押し込まれ、名前も知らない田舎の村に連れていかれる。五万分の一の詳細地図を持たされ、田んぼの中に農家が点在するような所で、「夜中の十一時までに戻るように」と女性マネジャーに言われ、ぽんとバスを追い出される。吼える大に追いかけられたり、田んぼの中に落っこちたり、変な人につけ回されたり、「こんな時間に何考えてんだっ」「三十六万?寝ぼけんな」「そんな大荷物、この家のどこに置けるんだ」「売るもの、違うんじゃないか」と罵声を浴び、鼻先でピシャーンと戸を閉められ……。そうやって毎日毎日違う所へ連れていかれては、嫌というほど屈辱的な目に遭ったけれど、泣いている暇などなかった。決められた時間内に、渡された地図上にある家はしらみ潰しに訪ねなくてはならない。走りながら涙を拭き拭き、次々と家の戸を叩いていった。バスに同乗するセールスマンたちの大半が男性で、そのほとんどが毎週入れ替わるほどのきつい仕事だった。それでも私は毎週最低三セットを売り、最初からトツプセールスを記録し続けた。

そんな驚異的なことができたのも、私には会社をつくると決めた日が日前に迫っていたからだ。もともとこのようなセールス体験の予定など入っていない、ただでさえ厳しいスケジュールから捻出した三カ月。この期間に、考えられる最も売りにくいモノを売るということ、

人に使われるということの意味を肌身に擦り込んでいくことが、恩人たちから命じられた日的だ。自分に課した修業の時間だったから、ほかの人とは真剣度が違っていた。

 

一方、女性マネジャーに思い知らされたのが、人に使われるということだ。一日中走り回ってバスに戻ってきても、ねぎらいの一言さえない。契約が取れなかった日はとりわけ意地悪だった。自分はこの人にとって、三十六万円の契約書をくわえてくる、ただの犬にすぎないのか。この思いはひどく私のプライドを傷つけた。私の好成績で、彼女のマネジャーとしての評価も上がったはずなのに、三ヵ月後に予定通

り辞表を出すと、成績優秀者に贈られるダイヤモンドのビンを、「辞める人にはあげられない」と取り上げて、自分のものにしてしまうような人だった。

この苦い思いは、三十五年以上たった今もずっと心に深く残っていて、時々、秘書の人たちにつらく当たってしまうことがあると、自分を告発する声が心の中でこだまする。「人を使うには、使われる立場の人たちとは違う徳というものがなければ駄目だ」

過酷なセールスの日々の中にも感動はあった。ある農家の老夫婦が、本人たちはABCも読めないのに、「孫が大きくなったらお祝いにあげたい」と言って購入してくれたのだ。私としては非常にありがたかった半面、老夫婦には決して役に立たないはずの、そんな高額なものを売りつけてしまったという内心性促たるものがあって、手を合わせたい気持ちだった。

その後お二人からは何年もの間、感謝の言葉が書かれた年賀状をもらった。「いいものを薦めていただいた」「あなたのおかげで、ありがとう」

そんなうれしい言葉がいつも綴られていた。あのときの老夫婦が私から買ってくださったのは、モノ以外の何かだったのだろうか。お二人からは、その後どんな本にも書かれていない大切なことを教えていただいたような気がする。

仕事をすることで、商品そのものは直接役に立たなくても、購入してくれた人との間にこうして何かを残すことができる―。「仕事」というものの素晴らしい一面を発見した後は、なぜかつらさが消えていった。同じ商品でも喜ばれる売り方もできる。一人でも多くの人に喜ばれたとき、自分も成長できる。「会社を経営して利益を生み、それで社員の人たちに毎月きちんと給料を支払うということの難しさ。人に喜ばれる仕事をし、社員に責任を果たし、なおその会社を継続する責任」

私に日本一困難なセールス体験を勧めた厳しい社長たちは、これを教えたかったのだ。

 

2 日本初の電話情報サービス会社誕生

 

電話秘書サービスとしてスタート

十年越しの思いが実った新会社には、ヒューマンコミュニケーションを象徴する意味を込めて、「ダイヤル・サービス株式会社」と名付けた。創業の理念に「女性が発信するメディア」を掲げての起業だったが、まずは電話による秘書サービス業務でスタートした。取りあえず具体的なサービスイメージが見えていて世間にも理解されやすかったし、大きな資金を必要としない仕事だったからというのが正直なところだ。フランスのシル・ヴ・プレで見てきたようなリサーチ機能の一部も付け加え、トレーニングされた秘書たちがきめ細かくニーズに応えたおかげで、上坂冬子さんや下村満子さんをはじめ作家、評論家、経営者、それに吉永小百合さんはじめ有名な俳優、タレント、マネジャー、アーティストなどに重宝してもらった。時代の先端を行く方々だけに、一人ひとりの会員に満足してもらえるよう応えるのは並大抵ではなかったが、今も「ダイヤルさんのおかげ」とたくさんの方に喜んでいただいている。もちろん最初からそんな名の知れた人たちが会員になってくれたわけではない。とにかく会員第一号を獲得するまでが大変だった。

会員が一人も見つからないまま半年過ぎてしまったときには、さすがに青ざめた。社員の発案で、炎天下の銀座に麦わら帽子をかぶって繰り出し、ビラ配りをした。当時の社員はアングラ劇団の女優や歌手の卵だったから、若くて美人、それに飛びっ切りの笑顔と美声で人目を引いたものだ。

会員第一号はヵメラマン、それからアニメーターの女性。当時では珍しい年中無休二十四時間サービス、それで月会費三千円だったから、「そんなに安く秘書サービスを利用できるなら」と、最初の頃はフリーのアーティストが多かった。このニュービジネスはあちこちのメディアで取り上げられた。特にインパクトがあったのはテレビの深夜番組「11PM」だ。若い女性がニュービジネスで起業するという前例がなかったから、大橋巨泉さんに面白おかしく取り上げられて、出演した晩は会社が大変な騒ぎになった。会社中のすべての電話が鳴り響き、千手観音が総動員で受話器を取り上げているかのような光景だった。ところが、かかってきた電話のほとんどが、「ねえちゃん、若いね」とか「いくつ?旦那いるの?」とか、ほとんどが今で言うセクハラ電話。それでも会社の名前を覚えてもらえるのなら、ありがたかった。

そもそも、なんでアングラ劇団の女優が社員になったのかというと、「発見の会」という当時先鋭的な劇団を主宰していた瓜生良介さんの縁だ。瓜生さんとは、演出・脚本家で夫だった今野勉さんを通じた知り合いで、瓜生さんのほかにも放送作家の佐々木守さんをはじめ多くの文化人が、当時同じ京工笹塚コーポラスの住人だったから、私が会社をつくると聞いて、みんな全面的に協力してくれた。ダイヤル・サービスの資産第一号となった八人掛けの大テーブルも、劇団がステージで使っていた大道具だ。鉄パイプで八人分の椅子までビルトインされており、誰かが私たちの創業のためにあらかじめデザインしたとしか考えられないような″傑作″だった。

そのほかの家財道具やもろもろの必需品は、別フロアにある私の自宅から持ち出した。カメラもテープレコーダーも、目ぼしいものは何もかも夫の今野勉から失敬した。事務所が充実していく分、わが家が空っぽになっていく感じだったが、当時TBSの人気デイレクターだった今野勉は、細かいことにはあまり気を回す人ではなかったから、それをいいことに、社員たちと一緒に空き巣泥棒のように目ぼしいものを運び出した。

そんな貧乏所帯で始まった会社の初年度売り上げはわずか五百万円で、もちろん大赤字。

十年間の私の蓄えもあっという間に消えていった。二年目にやっと七十六万円の利益を出した。社員に給料の遅配をするようなことはなかったが、犠牲を強いていたのは確かだし、当時まだ私自身は一円の給料も受け取っていなかった。恐る恐る取り始めるようになったのは三、四年目から、なんとかまともに取れるようになったのが五年目ぐらいだ。だから、その間はずっと夫に食べさせてもらうような状態だった。

数字的には情けない立ち上がりだったが、私は失望しなかった。「情報って何?なんでそんなものが必要なの。形もないのに、なぜお金を払うの」という時代に、形のないサービスと情報に、何人かが月々三千円、総計五百万円を投じてくれたわけだから、希望はある。社員ともどもそのことに感動したのだった。

ある日、美しい女性が会社を訪ねてきた。盲目のマッサージ師であった。聞けば、いくつかのホテルと契約しているが、一仕事終えるたびにいったん帰宅して次の仕事の電話を待たなくてはならないという。携帯電話のない時代だ。このような境遇の人たちもサポートしてあげられるのだと、私たちは喜んで契約した。早速、彼女に当時サービスが始まったばかりのポケットベルを持ってもらい、仕事依頼は私たちが受け、予約表を作って埋めていく。翌月から彼女の仕事は倍々ゲームで増えていった。そのうち彼女は仲間を誘って会社をつくった。立派な起業家の誕生といえる。こうした人たちをいったいどれくらい世に送り出したことだろう。

 

秘書サービスのほかに、水産会社の御用聞きなどもやった。水産会社のお得意様名簿にある銀座界隈の飲食店に片っ端から電話して、その日欲しいものを全部聞き出し、水産会社に情報を送るといった一種のテレマーケティングだ。これはきめ細かく、しかも正確にその日の注文に応えてくれるということで、お客様の飲食店から喜ばれ、近くのお店まで紹介してくれるようになり、会員である水産会社の売り上げに多大な貢献をした。あるいは当時出始めたテレビショッピングのコールセンターを請け負うなど、徐々に手を広げることで、年々売り上げの数字は上がっていった。まずは最初の事業、日本初の電話秘書サービスでこうしてささやかな、しかし確かな土台をつくることができた。ここで培った信頼と実績があったからこそ、私は次のチャレンジに向かえたのだ。いつも思う、事業は駅伝のようだと。後にどんな優れたランナーがいようと、自分の前を走ってくれたランナーたちの一人でも倒れたり棄権したり反則を犯したりすれば、事業はそこで終わってしまうのだ。この日本初のサービスは、ダイヤル・サービスを第ニステージに向けて大きく飛躍させる原動力となった。

 

「赤ちゃん一一〇番」を立ち上げる

電話が生活者の情報を発信するメディアとなる日が来る。人々が双方向で対話しながら、新しい世の中をつくっていく、電話をそのためのメディアにする。そして、そのためのサービスを立ち上げる。これは長年の夢だったが、電話を利用して、誰のために、何を、どうサービスするのか、またそれが成り立つためのビジネスモデルはどのようなものか等々の具体的な検討は、会社設立二年目の一九七〇年から始めた。知り合いの優秀な女性たちにブレーンとなってもらって、連日、熱い議論を重ねていった。

折しも大阪では万国博覧会が大盛況で、「人類の進歩と調和」をテーマに明るい未来への賛歌が奏でられていたが、生活者のレベルでは、急激な核家族化の進行で相談する人もなく育児ノイローゼに陥った母親が、嬰児を殺して駅のコインロツカーに放置するという事件があちこちで起こっていた。日本は見た目には大きく「進歩」したかに見えたが、「調和」には程遠く、高度経済成長のゆがみが思わぬ形で噴出していた。この事件には同世代の女性として心を痛めていた矢先だった。「どうせ苦労するのなら、今、私たちを一番必要としている悩める母親たちの相談相手になろう」みんなの意見が一致した。電話による育児相談サービスだ。私たちはいろいろな報道を調べて、育児ノイローゼの原因は何なのかを徹底的に分析してみた。その結果、絶対この「お助けサービス」はいけると踏んだのだった。次に進めたのがネットワークづくりだ。生半可な育児相談ではノイローゼに陥る母親たちを救えない。それにふさわしい専門家を幅広いジャンルから組織化していく必要があった。ここで力を発揮してくれたのが九人のブレーン。彼女たちもそれぞれが専門の道にいたが、そこからさらに輪を広げ、内科、小児科、婦人科、精神科などの医師や大学の先生、その頃一番話題の専門家などを瞬く間に集めてくれた。この九人がそれまで各自の世界でつくり上げてきた人脈がものをいったのだ。九人とも専門性に加えて、熱い人間力の持ち主だった。

中でもキーパーソンだったのが、神馬由貴子さんと芹沢茂登子さんだ。神馬さんは、私たちが二十代の頃、友人の紹介で知り合った友人で、大手女性誌の編集者の道を進み、この「赤ちゃん一一〇番」のプロジェクトに馳せ参じてくれた。広範囲の情報ネツトワークを持っていて、的確に方針を出せる強い人だった。芹沢さんは、その神馬さんが引っ張ってきた。わが社のマリア様と呼ばれ、どんなときでも微笑んで皆を励まし、それでいて、いつも冷静に知恵を出してくれた。この二人がいなかったら、今のダイヤル・サービスはなかったかもしれない。

専門家を組織化した後は、その方たちを次々と講師に招き、九人のブレーンが一から勉強する時期に当てた。九人の女性たちはそれぞれ本職を辞めてもいいというほどの意気込みだった。講師の人たちも新しいサービスの趣旨に賛同してくださり、ほぼ無料奉仕で一年近くもの間、この勉強会に付き合ってくれた。そんな人々の気持ちに報いるためにも、私はダイヤル・サービスの営業・プロモーション活動にいそしんだ。

一九七一年九月一日、いまだスポンサーは現れないままに、日本初の電話による育児相談サービス「赤ちゃん一一〇番」がスタートした。

その朝の朝日新聞全国版にニュース記事として取り上げられたところ、全国から一斉にコールが殺到した。その勢いはすさまじく、代々木電話局の回線がパンク。電話局から始末書を取られる羽目になる。だが、私には鳴り響くその電話の音が、交響楽団の大きなシンバルのように聞こえた。

「やった.~」勝利の思いをかみ締め、勇気百倍。スタッフたちは押し寄せる電話の応対に追われ、言葉を交わす暇はないが、お互い目が合うと、おどけた顔で拳を突き上げ、「やったねえ」と言い合っているようだった。なんといっても、天下の日本電信電話公社(現NTT)の回線をバンクさせるほどの大反響を得たのだ。昨日まで、この日本列島のどこにも存在しなかった

サービスが、潜在的なニーズの鉱脈をがっちり掘り当てた。それはまるで、掘り当てた油田から原油が天高く噴き上がるかのような光景だった。

ビジネスとして成功する確信を得た私は、さっそく電電公社に掛け合うことにした。願うは情報料の代理徴収だ。つまり公社側で、このサービスを利用する人たちに通話料金と合わせて情報料を課金してもらい、情報料の分だけわれわれにペイバックしてほしい、というものだ。受益者負担のこの形が最も経済原則に合っているし、電電公社とも「ウイン・ウィンの関係」が明快でわかりやすい。意気揚々と電電公社に電話をかけたのだが、たらい回しにされるばかり。だが、私たちも悠長に構えてはいられなかった。かかってくる電話は増える一方。このままでは人も電話も増やさなければ対応できない。それには費用がかかる!スポンサーなしの見切り発車なのだ。

やっと応対してくれた担当者が案内した先が、営業局長だった故・遠藤正介氏だ。後で知ったが、作家の遠藤周作さんの実兄で、周作氏の著書にも登場することで知られていた。早速、会いに行くと、「おまえか、うちの大事な回線をパンクさせたやつは!」と、いきなり一喝。それでも怯まず、「これからは電電公社も通話料だけで成り立つ時代ではなくなります。情報を必要とする人たちが受益者負担で自由にサービスを享受できるように、通話料と情報料の二重課金制をつくってください。そうなれば私たちもいいサービスをいっぱいつくって、これまでになかったコールを生んで電電公社にも貢献します」と、必死に訴えた。実はこの二重課金制が、後に始まる「ダイヤルQ2」の基本原理だった。

 

″電電公社の鬼″との格闘

遠藤さんはいきなり大声で怒り出した。「どこの馬の骨ともわからん、そういういかがわしい女どもの会社の料金回収の代行を、恐れ多くも日本電信電話公社にやらせる気か!」こんな発言は今の時代なら大変だ。名誉毀損もセクハラもあったものではない。声に出したい悔しさをこらえて、鳴咽が交じりそうな声と闘いながら、私も負けずに続けた。当時、「ウイン・ウィンの関係」という言葉はなかったので、電電公社にも大いにメリットがある「いい話」であることを、一から丁寧に説明しなければならなかった。「日本にもこういった新たな情報サービスの会社が誕生したのですから、電電公社はそれを利用すればいいのです。情報料は代理徴収にすぎなくても、確実に通話量が増やせます。これまで最小限しか電話を利用しなかった人たちが、こういう必要なサービスをどんどん利用するようになれば、電電公社の懐に入る通話料も一気に増やせるんです。あなたたちが遊んでいようが何をしていようが、私たちは二十四時間態勢でサービスして、あなたたちに収入をもたらすのですから、それをシェアしようというだけの、ごく自然な話です」私はさらに続けた。

「二重課金制というのがどうしても無理だというなら、うちにかかってきた電話は少なくても、うちのサービスがあってこその電話なのですから、通話料を半分ペイバックしてください。ただ、こういったサービスを本格的に日本で育てるというビジョンを共有していただけるのなら、ぜひとも二重課金制を実現してください」

遠藤さんの口も悪かった。

「そんなことは、口ではいくらでも言えるが、それを実現するには、郵政省を納得させなければならない、法律を変えなければならない。おまえのために、おまえの金儲けのために日本の法律まで変えられるか。第一、おれはこの世の中で、女性経営者ほど嫌いなものはないんだ」

それでも私は負けなかった。その後、何度も押しかけては門前払いを食らい、それでも怯まず車寄せで待ち伏せをした。

「赤ちゃん一一〇番」へのコールは、マスコミの応援もあって日増しに増え、公社から一円のバックもないままコストだけが増えていった。ばかにできない通話料金を稼ぎ出しているのに、それを何もしていない電電公社が濡れ手に粟で収奪していく、これは許せなかった。ここで頑張らなければ、今後、日本でこういう情報サービスが育つはずがない。この人をうんと言わさなければ、その先へは進めない。

来る日も来る日も待ち伏せて訴え続けたが、そのたびに「返事は変わらん」の一言だけ。

「返事は変わらん」と言われ続けて何十回目のことだったか。ある日突然、部屋に通された。

「おまえ、本気か」

本気でなければ、ここまで罵倒されセクハラ発言の限りを尽くされ、なんで足を運んだり

するものか。不退転の決意をしっかり告げると、″電電公社の鬼″の口元が少しだけほころんだ。「よし、わかった。だが、おぬしの要望は国会マターだから、そう簡単にはいかない。おれがどんなに頑張っても二年はかかる。その二年間、このまま公社からは一銭たりともやらないが、それでもちゃんと生き残れるか」不退転の決意に揺らぎはなかった。

「生き延びてみせます」

それからの〃鬼″は、猛烈に応援してくれるようになった。電電公社の幹部会で講演する機会を設けてくれてからは、公社内での風向きも大きく変わった。何人もの幹部がダイヤル・サービスに見学に来たり、今後の事業計画についての検討会のようなものを開いてくれたりした。会社がしっかりと認知されたことは大きかった。公社の紹介であちこちの講演にも招かれたし、電電公社のお客様代表の会をはじめ様々な会に名を連ね、総裁をはじめ大幹部と直接、間近で話し合える場が与えられた。さらに電気通信審議会の委員にも任命された。

遠藤さんとの激しい合戦で、勝ち負けがついたのかどうかはわからない。だが、「よし、わかった」とあそこで言わせたところが、一つの転機だったと思う。そして、「女は家に帰って子供でも産んでろ」などと、まさしく鬼のように毒づいたこの人が、私にとって終生忘れられない大恩人の一人となったのである。

ちなみに、この二重課金制は、二年どころかなんと二十年もの年月がかかって、やっと法的に認められることになる。一九八八年のある日NTTの草加英資常務(当時)がダイヤル・サービスを訪ねてきた。

「来年から二重課金制度がスタートすることになり、発案者の今野さんに挨拶に参りました」

NTTには経営委員会というのがあって、そのメンバーだった電通元社長の故。田丸秀治さんや三井造船相談役の故・山下勇さんなどが、この制度の実現を長い問ずっと提案し続けてきた私に真っ先に報告に行くよう、強く働きかけてくれたのだった。

 

誓いの絵皿

遠藤正介さんからは、「赤ちゃん一一〇番」にスポンサーをつけるなりして、ビジネスとして成り立つように考えろと、口を酸っぱくして言われた。二重課金制が認められるまで、無為に待つなということだ。

私はスポンサー探しに躍起となり、特に若い主婦をターゲットにするような企業に猛然とアタックし始めた。

来る日も来る日もアポ取りの電話。会ってもいいと言われた会社には片っ端から足を運んだ。だが、宣伝広告といえばマスメディア一辺倒だった時代、電話相談サービスのスポンサーになるというアイデアは論外だったようだ。

「テレビの向こうにはものすごい数の視聴者がいる。それに対して電話は一対一でしかない。一日費やして相手にできる数は高が知れている。スポンサー料を受け手の頭数で割ったコスト・パー・ヘッドで考えれば、電話は非常に高くつく。在来メディアより安いというなら話は別だが、高くなるという話を聞くばかはいない」何十社回っても、反応はどこも同じだった。

「テレビでスポツトを流すのと一緒にしないでほしい」

私は必死に訴えた。テレビの向こうには確かに頭数はいる。だが、その人たちがどこまでCMを意識しているのか。電話相談なら、相手はその時間、真剣に電話と向き合ってくれる。電話とテレビでは、その先にいる人々とのつながりの質が違うし、深さの度合いが全く違うのだ。

私は、コスト・パー・ヘツドならぬ「コスト・パー・ハート」という考え方で対抗した。しかし、モノでもない情報サービスがビジネスになるという認識が世にまだなく、ましてや電話メディァという考え方も皆無だった時代だ。NOと言う企業の壁は恐ろしく厚かった。私にとっては登攀不可能なオーバーハングの崖をよじ登らなければならないようなもので、その先は全く見えなかった。収入のめどが皆目立たない一方で、「赤ちゃん一一〇番」への電話は鳴りやまなかった。日夜奮闘して電話相談に対応してくれる九人の優秀な女性たちに報いようにも、些細なお金さえ払えない。夫のお金に頼るのも、もう限度だ。頼りの綱は、秘書サービスやテレマーケテイング、コールセンターの収入だったが、増え続ける利用への対応には追いつかない。本当に力尽きたある日、私は彼女たちから呼び出しを受け、その場で伝えた。「できる限りの努力をしたけど、今日に至ってもまだ一銭の収入の道も開拓できていない。これ以上、みんなをこの泥沼に引き止めておくわけにはいかない。私は引き続きスポンサー探しを続けます。みんなは自宅待機なり本業の方で稼ぐなりして、私にめどがつくまで少し時間をもらいたい。この一年近く、 一流の講師陣に手弁当で協力してもらい、一生懸命に築いたノウハウは決して消えることはありません。それはみんなの財産として大事にしていってほしい」

彼女たちは、私がそう言い出す気配をいち早く察知していた。

「私たちの気持ちは既に固まっている。この苦労が実る日は必ず来ます。私たちもこの仕事の今日的な意義は実感しているし、大きなニーズがあることを確信している。だから、スポンサーが付くまでは私たちも手弁当でやります。自宅待機なんて言わずに、ぜひ続けさせてください。第一、これだけの大きなニーズにまた、ふたをするなんて、もう不可能です」そう言って彼女たちは、一枚の絵皿を取り出した。「これは私たち全員の誓いの絵皿。みんなで今野社長を励ますために買いました。挫けそうになったら、この絵皿を見て頑張ってください」その日から、誓いの絵皿は私の大事な宝物となった。そのときの九人はもういなくなったが、以来今まで、どんな試練のときにも、それを乗り越えるエネルギーを絵皿は私に与え続けてくれている。

 

ついにスポンサー獲得

相変わらず進展のないまま、スポンサー探しに奔走する日々。そんなとき、安田生命の牛井渕アイコさんに出会った。彼女は生保業界でその名を知らない人はいないほどのスーパーセールスレデイー。この出会いが、後に「赤ちゃん一一〇番」を成功に導く最初の一歩につながるのだ。

その当時、牛丼測さんも私もマスコミにはよく登場していた。両方を取材したことのあるダイヤモンド社の編集者が「二人はきっといい友達になる」と直感し、強引に間を取り持ったのが縁だ。彼女は高卒ながら経済や会計などを独学し、コンサルタントもできるくらいの力をつけた努力家で、その頭脳、人柄、そして圧倒的な情報力でもって、クライアント企業のトップに重宝され、セールスの実績を上げていた。その当時で年収五千万円の牛丼測さんと、年収ゼロで息絶え絶えの私。妙な組み合わせで、お互い「自分のビジネスに直結するわけじゃなし」と、ダイヤモンド社の編集者の顔を立てるだけの、あまり気の進まぬ出会いのはずだった。それが一瞬にして友達になった。一歳違いの二人には、話せば心に響き合うような子供の頃の共通の思い出があったのだ。それは宮沢賢治が取り持つ縁だった。

 

空襲で家も学校も焼かれ、私の周りから一瞬にして本という本が姿を消した。焼け跡に配られてきた新聞紙のような風変わりな教科書ぐらいしか読むものがなく、活字に飢えていた

私は、その教科書で見つけた宮沢賢治の『どんぐりと山猫』に心奪われ、繰り返し繰り返し読んでいるうちに、すっかり暗記してしまった。

そんな話をしたら突然、彼女がその冒頭を口にした。問答無用。二人はずっと『どんぐりと山猫』をそらんじたままに口にした。彼女も実に正確に覚えていた。その瞬間、二人の心は融け合った。その日を境に、牛丼測さんと私は頻繁に会うようになる。そんな中で、何気なく「赤ちゃん一一〇番」の営業の苦労話をすると、「それなら安田生命に話を持っていこう」と彼女が言った。早速二人で作戦を練り、安田生命にスポンサーになってもらうためのストーリーを作り上げる。それは、「赤ちゃん一一〇番」をセールスレデイーのための価値ある宣材にしようというものだった。保険勧誘の宣材といえばタオルや石鹸が相場だったが、それで釣られるほど消費者はもう甘くない。そこで、「今月の赤ちゃん一一〇セールスレディー情報のチラシを作ってセールスレディーに持たせそれをきつかけに訪問先のドアを開かせて話をするドアオープナーとして使おうというものだった。二人は安田生命の野田正道広報室長を呼び出して、「赤ちゃん一一〇番」がなぜ必要なのか、これを保険セールスにどう利用できるかといったことを、とうとうとまくし立てた。勢いに乗せられた広報室長は生保協会に話を持ち込み、非常に熱心に掛け合ってくれた。その情熱に、私たちも「もしかしたら、うまくいくかも」という希望を抱いたが、結局は駄目だ

った。

頑張ってくれた野田さんは、私の目の前で深々と頭を下げたきり、何も言えずに声を殺して涙を拭いた。その姿に私は感謝の気持ちで心が震えた。私たちのサービスは主婦には通じても、サラリーマンには届かないのかと半ば挫けそうになっていたから、大企業の広報室長という地位にある人がそこまでしてくれたのを見て、「諦めてはいけない。思いは男たちにもちゃんと届くのだ」と、勇気をもらったのだった。そして今度は、野田さんも交えた三人での作戦会議。かくなるうえは正面突破しかないと、

牛丼渕さんが社長に直接アイデアをぶつけることになった。なにせ牛丼渕さんは、日本はおろか世界のトツプセールスメンバーにも選ばれ、安田生命から牛丼渕さんを抜いたら屋台骨が揺らぐとまで言われた人だ。その牛丼渕さんに迫られたら社長も嫌だとは言えない。結局、「赤ちゃん一一〇番」の準備を始めて一年ニカ月後に、安田生命が初のスポンサーとなったこれが縁でその後私は安田生命の社員総代に、また一九九〇年から九五年まで同社の社外取締役に就任することになる。女性の社外取締役はそれまで例がなく、新聞などで大きく報じられた。本来ならば当然、牛丼測アイコさんがなるはずであったが、残念なことに病に倒れ、私は彼女のためにも就任の話を受けることにしたのであった。

 

ああ、前例

「最初のスポンサーを見つけられた」ということで一息はつけたものの、収入的にはとても回していけるレベルではない。なんとしても核となる強力なスポンサーを見つける必要があった。使えるコネにはすがりついてでも探しまくり、たどり着いたのが時の人、当時西武百貨店社長の堤清二さんだった。

このルートには幸運が働いた。ダイヤル・サービスのマリア様、芹沢茂登子さんの夫が、堤さんのいとこと大学時代の学友だったのだ。そこで彼女と二人でまずは、いとこのT氏から回説いた。新しいサービスに共感してくれた彼は、「わかりました。それでは一緒に堤清二を回説きましょう」と言ってくれたのだった。堤さんと初めて会ったのは、忘れもしない東京プリンスホテル地階のテイールーム。当時、堤さんは「モノ離れの時代」ということで様々なメディアに論文を寄せていた。「企業と消費者がモノだけで結ばれる時代は長くは続かない。消費者も新しい生き方、価値観を求めています。そういう人々に向けて新しい文化を提案する百貨店として、ぜひこの新しいサービスの意義を認めてスポンサーになってください」私が言うまでもなく、堤さん自身もモノに頼らない生活者との新しいパイプを模索していたときなので、この点で共感してもらえたのだと思う。

「では、試しに一年間、スポンサーになりましょう。で、その成果を見て、二年目の契約をすることにしましよう」私はもう一つ、お願いをした。「西武流通グループの堤さんが『赤ちゃん一一〇番』の意義に賛同してスポンサーになってくださったということを、他社との営業交渉のときに使わせていただけませんか」

それまで気の遠くなるほどの営業の失敗を重ねたが、最大の難関は「前例がない」ことだった。「日本で初めての仕事なのです。前例がないから、今、始めることに意味があるんです」

夢にまで見た「前例」になってほしいと懇願した。その依頼に、堤氏は快く応じてくれた。

一九七二年一月、西武百貨店は「赤ちゃん一一〇番」の二番目のスポンサーとなる。これが引き金となって、味の素や東芝商事など大手企業との間で、次々とスポンサー契約を結んでいくことができたのだった。

49

「赤ちゃん一一〇番」秘話

 

「赤ちゃん一一〇番」がスタートして二年ほどたった頃、カウンセラーたちから思いもかけない報告を受けた。全国の目の不自由なお母さんたちが、このサービスのヘビーユーザーになっているというのだ。

それまで全盲ゆえに出産を諦めていた女性たちが、「赤ちゃん一一〇番」を利用してマンツーマンの育児アドバイスを得られるのならと、出産に踏み切ったケースが急増した。そういうご両親たちがこのサービスのヘビーユーザーになっているというのであった。

この事実を知った私たちは特別サービスとして、その人たちの名簿を整理しネットワーク化することにした。サービス時間外でも育児相談ができるよう、非公開の専用電話を用意して、カウンセラーが待機した。もちろん、この分についてはスポンサーなしで、ダイヤル・サービスの完全な持ち出しだ。

ところが、私も後になって知ったのだが、カウンセラーたちはこれに輪をかけたサービスを、完全なボランティアとして行っていたのだ。自宅の電話番号を教えたり、自分の方から定期的に電話を入れたり、会社が休みの日には戸別に訪ねたりということまでしてサポートしていた。健常者の母親でさえ育児ノイローゼになるというのに、目が見えず手探りで育児をする母親たちの苦労はどれほどか、その思いが仕事を超えた次元でカウンセラーたちを動かしたのだと思う。本来ならば企業活動としては、社員が会社の商品を使ってそのような過剰な無料サービスを行うことは許されるべきではない。社員もそれを知っていた。私は迷った。でも、これがダイヤル・サービスなのだ。私たちからこれをなくしてしまったら、ダイヤル・サービスではなくなってしまう。私はただでさえ心細い予算をはたいて、会社としてサポートすることに決めた。カウンセラーたちが喜んでくれたことが何よりうれしかった。素晴らしいスタッフ。この一人ひとりが会社の、というより社会の財産なのだ。彼女らと共に働く誇りと喜びに、資金繰りの苦しささえ忘れられた。そして、これが先々の「ハンデイキャツプ一一〇番」の誕生へとつながっていくのである。

ちょうどこの時代は、『スポック博士の育児書』をはじめ科学的な裏付けを持った育児書やテレビの育児番組が次々と登場し始め、母親たちは育児情報の洪水の中にいた。だが、それは平均的な乳幼児の話で、必ずしもわが子に当てはまるわけではなく、逆にデータとのギャップに悩み、不安の連鎖で育児ノイローゼに追い込まれてしまう母親も少なくなかった。

一方、全盲の親たちはどうだったか。各家庭を訪問してみたカウンセラーたちは、その姿に感動した。

母親たちは、子供が泣けば思う存分抱き締めて、満足するまで母乳を飲ませる。ミルクを温めるときは、自分の指で温度を確かめる。彼女たちの中指は多くがやけど状態だった。便の色も見ることができないから、自分でにおいをかいで、手で触ってなめて、自分の中にデータベースを作りながら、わが子が正常かどうか確かめていた。スポック博士が何を書いてるのか、テレビでどんな情報が流れているのか、そんなものは見えないから、かえって一般の情報に振り回されずに、自分のかわいい太郎ちゃん、花子ちゃんに集中できた。子供の方もスキンシツプ百パーセントという状況に安心して満足し、すくすくと育っていたのだ。

日の不自由なお母さんと赤ちゃんには、私たち現代人が置き忘れてきた子育ての原点があった。そこに育児ノイローゼが入り込む隙はなかった。そういう子たちが二、三歳になると、言語能力、色彩能力、表現能力などに著しい発達が生じていた。なぜなら母親の代わりにいろんなものを見て、それを言葉で伝える必要があったからだ。「お母さん、信号が青になったよ」から始まって、買い物に行ったときも親から「黄色に熟したバナナを選びなさい」と言われれば、一生懸命になって黄色のバナナを探す。そうやって日々の暮らしの中から、自分の能力を自然と伸ばしていけたのだ。カウンセラーたちは、自分たちが二十四時間態勢でケアをしてきたことが報われたようで、心から満ち足りた。そして、全盲の親でも「赤ちゃん一一〇番」を利用すれば十分やっていけることがわかり、安心すると共に自分たちのサービスに自信を深めたのだった。

そんなことがあったから、一九七七年に電電公社からテレビ電話会議の実験を依頼されたときも即座に、日の見えない母親とその子供たちを招待して育児交流テレビ会議を開こうと思いついた。「初のテレビ電話会議室というものを東京と大阪の帝国ホテルに設けたが、どう利用したらいいのかアイデアが出てこない。ダイヤル・サービスでうまく使ってみてほしい」

それが電電公社からの依頼だった。目の見えない人になぜテレビ会議なんだと思う人もいるだろう。当然、電電公社側もそうで、当日は首をかしげながら幹部たちがぞろぞろと集まってきた。

東京側には、「赤ちゃん一一〇番」で相談に応じてくださっていた有名な小児科の巷野悟郎先生をはじめ何人かのカウンセラーに来てもらい、大阪側にいる母親たちと「お子さんの湿疹はどうなりました?」「あのときのやけどを見せてごらん」などとやり取りしながら、テレビ画面で症状をチェツクしたり、子供たちがその場で描いた絵を東京にいる絵の先生が、「上手に描けたね。なんでお空が黄色いの?」「ハハハ、先生を描いてくれたんだね。ハンサムだよ、ありがとう」と盛り上がって、テレビ電話会議の実験は進行した。

最初は疑心暗鬼だった電電公社側も、「自分たちの開発したものがこういう場面で利用されるとは想像もつかなかった」と、ユニークな実験チェック面。「赤ちゃん一一〇番」の六周年記念行事はこうして賑やかに終えることができたのだった。

私はこのとき、仕事とはこういうものだと教えられた気がする。何かを開発して世に送り出せば、それを利用する人たちの知恵や思い、願いが、開発した人の意図やイメージを邊かに超えるものに膨らませていく。そして、それがいつか、つくり出した個人や企業を超えて、社会の財になっていく。仕事をするということは、自分たちがつくったモノやサービスを社会の財に高めていく貴い作業なのだということを実感し、満足し、そして幸せだった。

 

景気の波に翻葬されて

オイルショックで大ビンチ

ビジネスは山あり谷ありだ。西武百貨店とは無事に二年目以降の契約も結び、順風満帆に進むかに見えたダイヤル・サービスの場合も、世間の企業と同様、一九七三―七四年の第一次オイルショックの余波をもろにかぶった。せつかく付いたスポンサーが一斉に離れていく。残ったのは西武百貨店と安田生命ぐらいで、このときは非常にピンチだった。

あるとき、どうしてもボーナスが払えないという段になって、伊豆にある別荘を叩き売らざるを得なくなった。私にとってはとても愛着のある別荘で、ダイヤル・サービスを巡るドラマを数多く生んだ所でもあり、それを人手に渡すのはつらかったが背に腹は代えられない。私がこれまでで一つ誇れるとすれば、どんなに苦労してでも給料やボーナスの遅配という事態は招かなかったということだ。いつも不思議と期日には間に合わせることができた。当たり前といえば当たり前のことだろうが、ベンチャーにとって口で言うほど簡単なことではない。このときは、月内に別荘を売って払込期日までにお金にしなければならないという状況だった。だが、不況のさなか、不動産が右から左へそんなに簡単に売れるわけがない。時はどんどん迫ってくる。頭を抱えているときに助けてくれたのが、やはり牛丼渕アイコさんだった。彼女が親しい経営者に声をかけて、奇特なその人が物件を見ることもなく、「まあ、しょうがない。じゃ、買うことにしよう」と言って、期日までにお金を払い込んでくれたのだ。土下座をしても感謝したいくらいだった。その代償に、思い出の詰まった別荘は失ったけれど……。

元夫の今野勉さんには悪いことをしたと思う。共有の別荘なのに、売るときには相談している暇もなく、勝手に売って、その代金を勝手に使ってしまった。TBSに勤めている間は、ずいぶん前借りもさせてしまった。彼は、入社五年目のまだ二十七歳のときに制作したドラマで、イタリア放送協会が主催する国際コンクール「イタリア賞」を受賞し、その後すぐに『七人の刑事』の演出に起用されるなど、TBSにとっても異彩を放つ人だったから、会社も目をつぶって前借りに応じてくれていたのかもしれない。

とにかく私が今野勉に犯した悪行の数々に対して、彼は本当に一言も何も言わずに納めてくれたのだった。

それにしてもベンチャーには助け合いが欠かせない。伊豆の別荘で救われた私が、その何年後かに今度は八ヶ岳の別荘で知人を助けることになろうとは、想像もしなかった。

友人が倒産しかけているという情報を聞いたちょうどそのとき偶然一枚の小切手が転がり込む。もういつのことだか忘れてしまったくらい音に、千葉の荒れた山の中のちっぽけな土地を友人に頼まれて買っておいた。それが周辺の宅地造成で、ある日突然、見知らぬ業者が訪ねてきて、「なんとかこれで売っていただきたい」と、小切手を置いていった。所有していることさえ忘れていたくらいだから、言い値でどうぞと、ふと小切手を見ると、間違いじゃないかと思うような、買ったときの値段とは一けた違う金額が書いてある。私はすぐに倒産間際の友人を呼び、「これ、あげる」。

日頃はあまり金銭的に余裕のないケチな私からそんな大金をポンと渡され、友人は何度も小切手をひっくり返して眺めていた。数日後、「税法上、ただでもらうわけにはいかないから、所有している八ヶ岳の別荘を買ってくれ」と言ってきた。その値段を聞いて、今度は私の方が驚いた。小切手に書かれた金額の二倍もする物件だ。「そんなお金、私が持っているわけないじゃないの」と言ったものの、もはや時間切れとかで、なんとか正面しお金を積み増して、その八ヶ岳の別荘を引き取った。その借金が今も私に残っている。私は若い頃から、いろいろな人に手相を見てもらうたびに、必ず言われることがある。「あなたは終生お金には不自由しない。欲しいだけ入ってくる。だけど、それは右から左ヘ通過するだけで、みんな人にあげてしまい、あなたの手元にとどまることはない」

 

「エンゼル一一〇番」で森永乳業の企業再生

オイルショックによる激震で、またまたスポンサー探しに追われる状況となったある日、電電公社の遠藤正介さんから、「今、頑張っている知恵者が一人いるから、紹介しよう」と言われたのが、当時厚生政務次官だった山口敏夫さんだ。

紹介状を手に政務次官室に訪ねていくと、日の前に変ないたずらっ子のような人が現れて、「あなたが今野さん?」と聞く。そのなれなれしさにムッときて、「あなたは?」と聞き返してしまった。名乗られるまで、まさかその人が山口敏夫ご本人だとは思わなかった。初対面からずっこけた出会いだったので、かえって話が弾んだ。そのときに聞いたのが、

「ぼくが今一番、頭を悩ませているのは、森永ヒ素ミルク事件(一九五五年に西日本一帯で起こった中毒事件で、乳児約百三十人が死亡。被害者は一万三千人を超えた)で社会的に大きな傷を負った森永乳業。今は謹慎に徹することで、被害者やその家族たちへの改悛の情を示しているから、あなたの仕事のスポンサーにはまずなれないと思うけれど、会ってみる?」という話だった。

訪ねてみると、大きな会議室のテーブルの上に男性が後ろ向きにどかっと座って、煙草を吹かしていた。紹介者も変だったが、こっちはまた極め付きの変だ。 一瞬、帰ろうかと思ったが、勇気を出して声をかけた。

「アノー、行けと言われたから来たのですけど……」

渉外担当の菊池孝生氏だった。

「うちは今、本当に困っています。あのような事件を起こしてしまったからこそ、世界中のどこの会社よりも真面目に製品開発に取り組んでいて、そういう優れた商品を届けるのが自分たちの使命だと思っていますが、その情報を伝えるメッセージを世に出すことができないのです」と、苦渋の胸中を聞かされた。

私の闘志は俄然、炎を上げ始めた。「だったら、そういうことも含め、赤ちゃんを育てている人たちの真剣な悩みや質問に答えて、森永乳業の誠意と決意のメッセージを伝えましょう」ミルクの直接の担当者だけでなく、製造部門、マーケテイング、その他いろいろなセクションの担当責任者も出てきて、何回も何回も話し合いを続けた。クライアントの企業とあそこまで真剣に話し合ったのは初めてのことだ。彼らが一番危惧したのは、一一〇番に押し寄せるのが被害者家族からの怒りの声だけだろうということ。その罵声にあなたたちは耐えられるのかと問われた。

「そうであれば、なおさらのこと。そういう消費者と企業とが健全な本当の信頼関係を築けるようにするのが、私たちの目的なのですから、初めは罵声ばかりだろうが何だろうが喜んでお受けします。森永乳業の皆さんが今、こんな気持ちで取り組んでいるということを、メッセージに込められる限り伝えて、もう一度、しっかりと本来の信頼関係を回復しましよう」

これには、実際に電話回で対応するカウンセラーたちが意気に燃えてくれた。森永の本社に大挙して出向き、ミルクに関する知識から企業姿勢まで、何ヵ月かにわたり綿密な研修を受けた。被害者からの怒りをどう受け止めるかということには、特に力を入れた。

一九七五年五月、森永乳業がスポンサーとなり、「エンゼル一一〇番」はスタートした。かかってきた電話に「はい、森永のエンゼル一一〇番です」とスポンサー名を付けて答えることはなかったが、それでもエンゼルとくれば提供森永という連想は容易だ。怒りの電話はいつ来るかと思いつつ、カウンセラーたちは森永乳業社員になり切って、森永の思いのすべてを受け継いで電話相談に対応していた。

一年半ほどたったある日、ついに、孫をヒ素ミルク事件で亡くしたという男性から電話がかかってきた。

「宣伝。広告を自粛しているはずの森永が晴れがましいことを始めたと聞いて、本当に腹が立ち、何回も知人たちに電話をかけさせてチェックしました。そうしたら、日本の赤ちゃんのために、育てている母親のために、思いを込めて真心込めて対応していることに感動したと、誰もが言ってきた。この一年半、何回チェックしてもそれが裏切られることはなかった。これで私も森永の姿勢がよくわかった。これからもずっと赤ちゃんたちのために頑張ってくださいよ。ありがとう、ありがとう」

それを聞いて、私たち一同がどんなにうれしかったことか。駆けつけた私たちと森永乳業側のスタッフは、無言のまま、いつまでも握り合った手を離そうとしなかった。

「エンゼル一一〇番」ではこんなドラマをいっぱい生んだのだが、実はこれこそがわが社の

ビジネスモデルと言っていい。ダイヤル・サービスの社員でありながら、クライアント企業に対するロイヤルティー、クライアントの商品に対する思い入れが実に強く、それには驚かされるばかりだ。下手をするとクライアントの社員より強いかもしれない。時々、冗談で「皆さん、お給料払っているのは私ですよ。皆さん、ダイヤル・サービスの社員よね」と念を押したくなるくらい、心はクライアント、そしてクライアントのカスタマーの人々に向いている。その企業の思いを電話というメディアで伝えよう、そしてカスタマーの心を企業につなごうと 一生懸命なのだ。不祥事を起こした企業でも、苦しみや痛みを全社員が味わい被害者と共有して、そこからもう一度、新しい企業風土をつくり出すことができたなら、こんなに強く確かなものはないと思う。それをサポートすることにわが社の存在意義がある。森永の場合も、世間へのお詫びの気持ちを世界一の製品づくりで返したいという真摯な姿勢がしっかり伝わったからこそ、そのサポート役を喜んで買って出たのだ。

その後、「エンゼル一一〇番」に寄せられたお母さんたちの声を生かして、森永乳業にはいくつものヒット商品が生まれた。このヒット商品は消費者と企業の共同作品であり、森永乳業の理念が形になったものといえる。

思えば私たちと森永の熱い絆も、″鬼″の遠藤正介さんが山口敏夫さんを紹介したのが、きっかけとなったのだった。

その後、″鬼〃は病に倒れてあっけなく逝った。ある日、周作氏が訪ねてきてくれ、お兄様の形見として、私が見慣れた眼鏡を下さった。あの〃鬼〃は、いろんな場面でこの眼鏡越しに私をにらみ、そして怒鳴ったのだ。周作さんと私は交互にその眼鏡をかけてみた。その晩、二人で正介氏の悪口を言い合い、泣き笑いで乾杯した。また、ご家族とは正介氏が亡くなられた後も、お嬢様の結婚式に招かれたりしてお付き合いが続いた。

 

「子ども一一〇番」で子供の心を育てる

一九七九年五月に、国際児童年を記念して開始した「子ども一一〇番」では、トヨタ自動車がスポンサーになってくれた。当時トヨタ自動車工業の若きリーダーであった豊田章一郎副社長に「応援しよう」と言っていただいたのは、名古屋から東京へ向かう新幹線の中であった。その日、トヨタの子会社での講演を終えた後、その社長に名古屋駅まで送ってもらい、用意された新幹線グリーン車の席に座ると、なんと、豊田章一郎副社長の隣であった。考えすぎかもしれないが、スポンサー探しに苦労しているのを知って、子会社の社長がこっそりセッティングしてくださったのかもしれない。東京までの二時間、仕事の話で豊田さんを独占できるという、このうえもない幸運に恵まれた私は、「子ども一一〇番」を応援していただきたいと、切々と訴えた。「トヨタのスポンサーメリットは?」「短期的には何もありません。スポンサーになったからといって、クルマが一台余計に売れるわけでもありません。ただ、トヨタの将来のカスタマーを健全に育てる意味は大きいと思います。今の子供たちが健やかに育てば、将来、御社の健やかなカスタマーになるでしょう」

千載一遇のこの機を逃すものかと、少しでもメリットがあるようにこじつけながら必死に説得する私に、豊田さんは少し苦笑して、こう言った。「カスタマーの話はどうでもいいです。子供たちが本当に電話で相談相手を求めているのなら、応援しましよう」自社メリットに固執することなく、将来を担う宝である子供たちを第一に考えようという姿勢に、改めてトヨタの器の大きさを感じた。これには、故・井深大ソニー名誉会長(当時)も喜んでくださった。井深さんは幼児の音楽教育について提案されており、「子ども一一〇番」にも関心を持ってくださっていたから、スポンサーが付いたご報告に行った。井深さんは工場から青い菜っ葉服のまま出てこられ、「そうか、それは良かった。さすが豊田章一郎さんだ。子供の心を育てる、これ以上大事な仕事はないのだから」とおつしゃったのだった。

当時、電話は大人が使用する「特別な領域のもの」であり、受話器を握ってプライベートな悩みを初めて相談する子供たちは、緊張でコチコチに固まっていたのを思い出す。サービスが始まって一カ月もすると子供たちの方も、小さな胸の内を明かしてもいい「子供のための秘密の電話」であることに気づき、身近であるはずの家族にも友達にも話せない悩みを打ち明け始めた。

温泉街の旅館に勤める母親たちは通常、夕方から翌朝まで自宅にいない。子供は母親が用

意した夕食を取り、母親が毎日書き残す置き手紙を繰り返し読む。

「たまった置き手紙を枕の下に入れて寝るんだよ」。たまには電話でその一枚を読んでくれることもある。カウンセラーたちは、そんな子供からのおしゃべりに涙をこらえながら、明るい声で話し相手になるのだ。

子供たちは、当時人気だったTBSラジオの「全国こども電話相談室」をまねて、ユニークな質問をしてくることも多かった。恐竜のウンコはどのくらい大きいのか、蛇はどこからが尻尾なのか、マッチ売りの少女はどこからマッチを仕入れたのか、フランスの猫と日本の猫では話が通じるのか、小鳥は鳥肌が立つのか、シマウマの肌も縞模様か……などなど。これらに対する回答のほか、いじめ、エイズ感染、環境汚染の問題を子供向けに編集し、小冊子「子どもパスポート」にして、スポンサーの援助を頂きながら、子供たちに配った。「いじめない、いじめられない子どもパスポート」を見た北海道の警察署から、署員配布用として数百部送付してほしいという依頼を受けて、慌てた思い出も懐かしい。

このサービスでネックになったのは、電話をかけるのが子供だということ。子供たちは親には聞かれたくない本音の話がしたいため、公衆電話に走り、なけなしのお小遣いを使って、当時私たちのオフイスがあった東京。原宿へかけてくる。その頃の電話料金の遠近格差は、二十三区内からなら十円で済む通話が、沖縄からだと七百二十円になってしまうという状況だった。遠方からの電話だと、子供がためらっているうちに「ああ、もうお金がない~」という叫びと共に切れてしまう。この悲鳴を聞くたびに、カウンセラーたちまで早口で叫び始める。

「また、いつでもかけてちょうだい。○○ちゃん、待ってるよ!」

なぜ、同じ日本でこんな不公平な目に子供たちが遭わなければならないのか。何とかならないものかという思いで、電電公社に掛け合った。それで導入が決まったのが「支店代行電話」だった。例えば、関西の子には大阪のある局番まで市内料金でかけてもらう。その局番とダイヤル・サービスとが本支店間の直通回線でつながるというサービスだ。私たちはその本支店間の通話部分の料金をトヨタに持ってもらった。もちろん、この支店代行電話サービスはわが社のためだけにつくられたわけではなく、その後、多くの大企業の本支店間通話で利用されることになった。

電話をかけてくる子供たちは全国各地に広がっていった。その頃、各県では、ダイヤル・サービスが苦労して開発した電話相談サービスを、「赤ちゃん一一〇番」「子ども一一〇番」というネーミングまでそっくりまねて、自前で提供し始めた。まだ官業のアウトソーシングという考え方がなかった時代だ。私は知事さんたちにお会いするたびにあなたの子供たちのために、うちとの直通電話を1本引いてください。

県が自前のサービスとして予算を組むのではなく、その十分の一のコストで私たちが心を込めて代行しますから、サービスを委託してくれませんか。全国知事会でまとめて委託してくだされば二十分の一

のコストでできるかもしれません」とお願いしたものだ。官は無駄な予算を使いながら、民業圧迫も知財侵害も平気でやってのけた。ベンチャー受難の時代だった。

 

キーマンが導いたスポンサー探し

一九八一年にスタートした「熟年110番」のときも、スポンサー側の決断は速かった。

きっかけをつくってくれたのは国際石油の三社長。日中経済貿易センターの名誉会長も務めていて、日中両国でそうそうたる人脈を持つ大物だが、八十代の今もエッチなジョークで周りを明るく元気にさせている。昨セクハラ問題も何のその良くも悪くも日本男児のエネルギーを感じさせる人だ。

その木村さんが、「熟年一一〇番」のアイデアを聞き、そういうサービスなら松下幸之助さんに聞いてもらうに限ると、気軽に言った。いったい、そんな神様にどうやったら会えるのか。「ならば、紹介してやろう」と、神様のところへ連れていってくれた。

「熟年一一〇番」の話に熱心に耳を傾けた松下幸之助さんは、松下電器産業のほかに、「そのスポンサーに最適な会社」として野村証券を紹介してくださった。野村証券に出向くと、担当責任者として紹介されたのが、当時常務になったばかりの田淵義久さんだ。一通り話を聞くと、「では検討しますから、明朝九時に来てください」。そう言われて、絶望した。どこへ行っても門前払いの連続だったが、明朝の即答ということは、つまり断るということに違いない。同じ断るにしても、せめて二、三週間は検討した振りをしてからにしてはしい、そんな思いだった。

翌朝、社員を一人連れ、どんよりした気分で赴いた。「タベ、担当者と資料を見て検討しました」

「‥‥」

「今日から始めましよう」

「え~⁉」

言葉が出なかった。呆然とする私たちに、「契約はすぐにでもいいですよ。準備にどれくらいかかりますか。具体的な打ち合わせは担当者同士でやりましょう」と、あれよあれよという間に話が進み、わずか二ヵ月ぐらいでサービスインに至った。まさにスイートスポットに当たった感覚。わかってもらえる人と出会えれば、話はこんなにスムーズに進むのだ。キーマンと出会うことの重要性を再認識した。もちろん、その話なら野村だと一発で見抜いてくださった松下幸之助氏の慧眼があってのこと。また、「赤ちゃん一一〇番」の成功という前例ができていたことも大きい。この前例がなかったら、言葉だけの説得ではなかなか理解してもらえなかっただろう。それにしても、である。私はこれまで田淵義久さんほど決断。実行の速かった人には出会ったことがない。この十年後の一九九一年に、野村証券の損失補てんなど一連の不祥事で社長の座を引責辞任され、表舞台から姿を消されたかに見えるが、私の中に今もって恩人の一人として鮮烈な印象を残している。

 

遅すぎた知財立国

「赤ちゃん一一〇番」「エンゼル一一〇番」の相談の中で、この時代を反映してか、際立っていたのが、「自分の子が食べない、飲まない」ことへの相談だった。ほんの一昔前の日本は、「食べたい、食べさせたい、食べられない」時代だったのが、いつの間にか経済大国の子育ては、食べたくないのに無理やり親に食べさせられる飽食の時代へと変化していた。

貧しさを分かち合う親子はしっかりとした絆で結ばれていたが、満腹のうえにもっともっとと押しつける親は、子供にはスプーンを持って追いかける鬼のように映ったのではないだろうか。食べない、飲まない、これでは一流校に入れないのではと、ノイローゼ気味になる親も増えた。親子関係の希薄化や断絶の遠因はここにあると指摘する学者も少なくない。そんな時代背景を受けて、「食べない子一一〇番」はスタートした。

たくさんの企業がこの一一〇番に注目した。東京ガスはここに集まる主婦の声を聞き、消費者ニーズを徹底分析して新しい商品開発に生かそうと意欲的に取り組んだ。それが、特定商品について即時に主婦の意見を聞く「一〇〇人に聞きました」アンケート。集計はあっという間で、それを聞き出すのが全員、家事。育児。医療の専門家ばかりというのも大きな魅力となり、このアンケートサービスはいくつもの企業から熱い関心を寄せられた。これが基で、その後、東京ガスがスポンサーとなり、「食の生活一一〇番」が始まった。広く食にまつわる相談を受け、食を通しての健康づくりを提唱している。

大勢の利用者の生の声から生まれたヒット商品も数多い。業務用のような火力の強いガス

器具を家庭にも、という主婦の願いから生まれた「チャオ・バーナー」や、ガス衣類乾燥機「乾太くん」、 一人暮らし用の少量ガス炊飯器などである。スポンサー、クライアントに対する毎月の報告会は、企業によっては社長をはじめ各部署の責任者が出席するほどの賑わいであった。

また、ダイヤル・サービス社内のスタッフ会議には、毎日入る彩しい生活者の生の声からヒントを得ようとする様々な企業の人たちが参加を希望された。そんな中から、その後の大ヒット商品が誕生したことはあまり知られていない。ある日のスタッフ会議でのこと。スタッフたちから、「医療に従事する方々は疲労困ぱいすると、人知れず人間の体液と同じような点滴液を飲んでいる」との報告があった。だから点滴用ではない「飲む点滴」を作ったらきっと売れるはずだと。その頃、熱心に参加されていた企業の中に大塚製薬があった。そして程なくその大塚製薬から、まさにこのニューコンセプトで作られた大ヒット商品「ポカリスエット」が誕生した。

喜ばれた担当者からは、毎年の盆暮れに大量の「ポカリスエット」が送られてきたが、残念ながら、わが社の売り上げには結び付かなかった。三十数年前に提案したNTTの「ダイヤルQ2」といい、大塚製薬の「ポカリスエット」といい、それぞれの企業にとってはエポツクとなる巨額な利益を生む提案をしていながら、発案者の権利は全く尊重されない時代だった。これを書くに当たり、当時のスタッフとその場面を振り返ったが、ダイヤル・サービスは人々への貢献、企業や社会への貢献には大きな力を発揮したが、それをテコに自社の利益につなげようという知恵と手腕にはいささか欠けていたと、遅すぎる反省にしばし沸いた。

 

一一〇番ビジネスの見直しを図る

 

一一〇番サービスにスポンサーは必要不可欠な存在だが、実際のサービスの中では宣伝色がほとんど出てこない。電話がかかってきたときに、「はい、こちら○○○の×××一一〇番です」と、頭に企業名を付けるだけだ。

例えば「子ども一一〇番」の場合は、夕方五時から九時までがマンツーマンの電話相談サービスで、それ以外はテープで様々な情報を提供する。クルマに限らず、子供たちが関心のあるいろいろな情報を流しており、最後に「提供トヨタ」を加えるぐらいで、直接的な宣伝情報は一切ない。

もっとも、スポンサーメリットをどう生かすかは企業の自由だ。われわれが提供するのは電話相談だが、スポンサーの要望があれば、それに沿ってカスタマイズした周辺サービスを拡充する。

一一〇番サービスをモノの販売とうまくリンクさせたという点では、西武流通グループ(後に西武セゾングループ)が出色だった。西武百貨店やパルコの中に育児サロンを設け、「赤ちゃん一一〇番」を出張させたり、そこで年に何回かベビー用品フェアを開いたりした。今月○日に「赤ちゃん一一〇番」の相談コーナー開設というアナウンスをしておくと、その日は朝から行列ができるといった状況で、当時は大変な集客力になったものだ。

「プレママ一一〇番」「OL一一〇番」、そのほか臨時や特設の一一〇番サービスなど 一九七〇年代から一九八〇年代前半にかけては、様々な一一〇番サービスを世に送り出していった。

ただ、スポンサーシツプだけで成り立つ一一〇番ビジネスは、オイルショックのような景気の大変動の波をもろにかぶる。経営者や広報宣伝部長のような役職者が代わると揺らぎやすいのも難点だった。西武百貨店は、社長が堤さんから水野誠一さんに代わった一九九〇年からパイプがぐっと細くなり、結局切れてしまった。安田生命や野村証券も同様だ。

〝今野由梨だからできること″に依存し続けるのも危うかった。新幹線の中で豊田章一郎さんに出会うとか、松下幸之助さんや井深大さんに直訴するとか、そんな饒倖は誰にでもあることではない。そういうものに頼って成り立つサービスは、ビジネスモデルとしては問題があった。属人的なものに依存せず、景気変動に左右されにくい新しいビジネスモデルを構築していかなければならない。山あり谷ありのダイヤル・サービスを見つめるうちに、そういう危機感は次第に強くなり、一九八〇年あたりから少しずつ路線を見直し始めた。そこで新たに始めたのが、クレジツトカード会社や保険組合のアウトソーシング業務の引き受けだった。カード会員や健保・簡保組合員向けのサービスを黒子になって提供するというものだ。契約の相手は企業や団体だが、これなら会員。組合員に対するパーマネントサービスとして導入するものなので、時や人によってコロコロ変わるものではなく、ビジネスの成り立つ基盤が全然違ってくる。一九八五年に開始したダイヤモンドクレジツト(現デイーシーカード)のDCテレホンサービスを皮切りに、このジャンルを拡充させていった。カード会員や組合員向けだけでなく、企業の社員向け福利厚生サービスのアウトソーシングや、企業の顧客向け電話相談サービスのアウトソーシングまで手を広げてきた。別の見方をすると、一サービス一社ではなく、一サービス百社にしていこうという考え方だ。 一サービス一億円を一社に頼んでもなかなか難しいが、一社百万円ならやってみようかという話になる。 一社百万円で百社集める方が、 一か八かの確率より高い。育児、健康、介護、メンタルヘルスなどの相談サービスメニューをいろいろと用意しておき、欲しいメニューを買ってもらうという、いわゆるカフェテリア方式だ。

この少額多企業契約型の中でも、企業の管理部門のアウトソーシングサービスとして実績を上げているのが、一九九七年七月に導入した「セクハラホットライン」だ。従業員からの、セクハラ相談に応じる企業の外部窓口として機能する 一種のリスクマネジメントサービスといえる。

 

初の男性社員が生んだ障害者サービス

もちろん個人向けサービスを縮小させているわけではない。誰もが利用できる一一〇番サービスではないが、一九八七年十二月からスタートさせた視覚。聴覚障害者のための会員制サービス「NECまごころコミュニケーション」も売り物の一つだ。

視覚障害者には代読サービス(文書をFAXで送付してもらい、それを電話で代読する)や代筆サービス(電話で聞き取った内容を文章にしてFAXする)、聴覚障害者にはFAX・メールアドレス調べ(電話番号から該当するFAX番号やメールアドレスを調べてFAXで伝える)、伝言サービス(指定の伝言先にメッセージを伝え、返事をFAXで伝える)、FAX・メール着信確認サービス(送信したFAXやメールが先方に届いたかどうかなどを確認して、FAX回答)空き情報・予約サービス(病院やレストラン、宿泊施設などの空き状況を調べてFAX回答、予約代行)などのサービスを用意する。「赤ちゃん一一〇番」をはじめ、今困っている人たちのためのお助けサービスを生み出したダイヤル・サービスらしいサービスといえるかもしれない。このサービスはひょんなきっかけから誕生した。ある日、出社したら、応接室のソファに見慣れない青年が座っていた。

「こちらの会社に就職させてください」当時、わが社は女性だけの会社として名が知られていて、男性が入りたいと思うような会社ではなかったから、そう言われて、ちょつとたじろいだ。聞けば、「子ども一一〇番」で流している情報メッセージをたまたまラジオで放送していたのを耳にし、「仕事をするなら、

こんな夢のある会社で」と思ったのだという。

その青年は全盲だった。受け答えが実にさわやかで聡明な感じだったし、訴えようとしていることにも説得力があったので、話し込んでいるうちに、こういう人にも働く場をつくりたいという気がしてきた。この若者はわが社の「子ども一一〇番」のメッセージに引かれてやって来た。彼の方からダイヤル・サービスを求めてきたが、ダイヤル・サービスもまた彼を必要としている、私は直感でそう思った。

「うちはご覧の通り、と言ってもあなたには見えないんだけど、大企業と違ってベンチャー企業で、社員一人ひとりが責任を持って自分の仕事をこなさないと、生き延びていかれない会社なの。全盲だからといって、誰もあなたの世話をする余裕はないし、あなたはほかの人と同じように自立して仕事をすることになる。ほかの人が稼いだ分で、あなたを養うことはできない。特別待遇はありません。それでも働く気がありますか」

心を正して、私は一言一言しっかりと伝えた。突然、彼の大きな見えない瞳から、涙がぽろぼろとこぼれ落ちた。厳しく言い過ぎたのだろうか。心がピリリと痛んだ。

二十五歳のその青年は、父親が実力者らしく、これまでつてで様々な企業に紹介されたが、どこの反応も「採用するが、やってもらう仕事はないので、出社しなくてもいい」というようなものだったそうだ。

「こんなふうに一切差別しない自分の仕事は自分で考えて自分の給料は自分で稼げと言われたのは初めてです。僕はこんなにうれしいことはありません」「あなた、本当にやるの?」

「やります」「それなら三ヵ月だけ試用期間として、うちの仕事を勉強する時間をあげます。そこで勉強したことを基に、いろいろな情報を総動員させて、自分の企画を立て、自分で営業する準備をしなさい。三カ月以内にちゃんと企画書を持ってくるのですよ」

青年K君は三ヵ月たたないうちに、ちゃんと企画書を持ってきた。それが「ハンディキャツプ一一〇番」、今の「NECまごころコミュニケーション」の基になった企画だ。仕事経験のない彼が、実によく組み立ててきた。どんな質問にもよどみなく答え、企画を自分のものにできているのが十分読み取れた。願ってもない人材だ。

こうしてダイヤル・サービス設立後十九年目にして初めて男性社員が誕生したのだった。

さっそくスポンサー候補の会社をいくつか紹介して、プレゼンテーションに行かせたがヽ一九八七年といえばバブルが加速度を上げて急膨張していた時代この企業もわずか三十万人のハンディキャップ人口が対象のサービスはマーケットとして小さすぎると、触手を伸ばさなかった。最後に出向いたのがNECの関本忠弘社長(当時)のところだ。K君のプレゼンテーションには障害者としての心の叫びがこもっているし、なにせあの大きな瞳で見つめられたら迫力はある。そのうえで私も、ちょっとだけ援護射撃をした。

「実は、これは巨大なマーケットを対象にした企画です。入り回は確かに三十万人のハンディキャツプパーソンだけれど、恐ろしい勢いで世界最大の高齢化国へと突き進んでいる日本にとって、ハンディキャップは決して特殊な世界ではないと思います。高齢者は取りも直さず目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、手足が不自由になる、つい昨日までできていたことができなくなる。それとハンディキャップとはどう違うのでしょうか。私も関本さんもいつかはハンディキャツプパーソンの仲間入りをします。だったら今のうちにハンディキャップの人たちをサポートしながら、人に優しいインターフェースの通信機器を他社に先駆けて開発する。それが高齢化社会のトップランナーになるために必要なことではないでしょうか」こんな話をぶち上げて、「その通り」と賛同をもらう結果となった。他社がこぞって「たった三十万人市場」というマーケット理論を振りかざし、NOという答えを出したのを逆手に取って勝ち得た成果だ。初の企画で実績を上げた青年K君は、ダイヤル・サービスでしっかり力をつけて、三、四年後に巣立っていった。女性社員との親和性も抜群で、向こうから飛び込んできた押しかけ社員にしては文句のつけようのない男性第一号だった。ただ、巣立っていくときに、わが社で飛びっ切りの美女まで一緒に、生涯の伴侶として連れていってしまったことは、全くの計算外だったけれど。

 

女性による初のシンクタンクを設立

「赤ちゃん一一〇番」「エンゼル一一〇番」と、世の中のニーズに応える形で次々と一一〇番シリーズは増えていき、私たちも一日中、彩しい数の相談に追われる日々となった。このビジネスモデルは、もちろん日本では全く初めてのものだった。当時、ダイヤル・サービスは、電話サービスの全米協会にも日本で初の会員として名を連ねていたが、米国にもこのようなサービスは全くないということで、逆に何度も講演を頼まれたり米国各地に招かれたりした。情報サービスが最も進んでいる米国にもないということは、世界にないということだ。苦労ばかりで、これといって社内のみんなを元気づけるご褒美もあげることのでき

ない私としては、「日本発世界オンリーワンの仕事」という誇りでも持ってもらうことで、元気を出してもらうしかなかった。

 

そんなある日、私はあることに改めて気づかされた。スポンサーに提出するマンスリーリポートに目を通しているときだった。これまで私は、ダイヤル・サービスはいつでも誰からのどんな問題にも答えられる情報提供のプロ集団だと思ってきた。リポートには、その月に寄せられた典型的な相談事例が、問題のカテゴリー別に並んでいた。よく読んでみると、私の知らない暮らしの中の実に多様な悩みや訴えがあり、それらは現代社会の縮図ともいえるものだった。そうなんだ、本当の情報発信源は私たちではなく、電話の向こうの顔も知らない何百人もの利用者の人々なんだ。改めてそう思った瞬間、私が次にやらなければいけないことのイメージが出来上がった。

これまでは一人一人に誠実に答えて完結したと思っていたのだが、それは果たすべき役割の半分でしかなかった。何百万人もの人々が悩み訴えてきたのは、彼ら一人ひとりの固有の事情ではあるが、少し視野を広げてみると、切実な現実の社会テーマにつながっているのが見える。私たちがやらなければならないのは、貴重な生の本音情報をもらいっぱなしにせず、みんながより幸せに暮らせる世の中をつくるために、その情報を生かす仕事なのだ。

女性だけの初のシンクタンク、生活科学研究所はこうして誕生した。ダイヤル・サービスの創業からちょうど十年一九七九年の秋のことだった一九八〇年代は情報化ということが盛んに言われ始め、八四年には、今は懐かしいINS高度情報通信網)の実験が東京。三鷹で始まり、放送衛星が打ち上げられ、「ニューメディア元年」という言葉が誕生した。生活科学研究所でも「INSを考える女性委員会」を設け、使い手から見た家庭の情報化というテーマで、調査報告や提言を数多く出したものだ。

八五年のつくば博(国際科学技術博覧会)のときには、私個人としても、出展者、参加国、パビリオンプランナーといった人たちをつなぐための基本構想をまとめる仕事で奔走し、三年間どっぶり体の芯まで、つくばに浸るような生活を送った。

家庭の情報化というテーマはそのうち、情報化に対応した街づくりという方向へ広がり、住宅・団(、労働省からの仕事もずいぶん増えていった。特に八

都市整備公当時)や郵政省〇年代後半はバブルを背景に、各地で新しい街づくりが進展していた時期でもある。生活者

の視点でつくる街という私たちの提案はあちこちで評価され、その提案を生かした港北ニュータウンなどは、働く女性が住みたい街として人気を集めた。

行政絡みの仕事は次から次へと入ってきて、研究員である女性たちにはとてもやりがいがあったと思う。

 

バブルの時代を闘い抜いて

 

念願のニューヨーク進出

円高ドル安で潤う懐を武器に、日本企業がわれもわれもと米国進出を果たしていた一九八七年の七月、ダイヤル・サービスはニューヨークに、現地法人ダイヤル・サービス・インターナショナル(DSI)を設立した。きっかけはやはり「赤ちゃん一一〇番」だ。その頃、海外からの利用がぐんぐん伸びていた。海外駐在員やその妻たちが国際電話をかけてまで、現地で生まれたわが子のことで相談してきたのだ。「海外にいる孫のことで」と、私たちの仕事がこういう形で国際化の波に組み込まれていく、日本にいる祖母からの代理相談も増えていた。そういう時代が来たのだと思った。しかも、新しく赴任したての駐在員の妻たちは、子育て、健康問題、その他もろもろの悩みを抱えているのに、言葉は通じないし友人もいない。夫は一日中、外で働いていて相談相手にならない。そういう状況下でノイローゼに追い込まれるケースが続出していると聞き、それなら、現地でそういう人たちの役に立つ仕事をしようと、進出を決意したわけだ。その頃、米国では、政治家による日本製品の叩き壊し事件など、日本バツシングがテレビで世界中に大きく報じられていた。私がかつて経験した美しき良きアメリカのイメージが、国家間の経済戦争で壊されていく。私の心は痛んだ。政治家や外交官や大企業といったこれまでのルートで、国と国との関係がつくられたり壊されたりするのではなく、一般市民やニュービジネス、ベンチャーといったルートを開いて新しいネットワークをつくれば、もっとヒューマンな縁とか絆を結び直すことができるはず

だ。だったら、コミュニケーション能力においてむしろ男性より優れている女性の私たちが、その努力をしよう。進出を決心する裏には、そういう強い思いもあった。昔から外国へ行くたびによく言われたものだ。「日本の女性は誰もみんな明るく親切で、誰からも好かれるのに、男性たちは笑いもしゃべりもせず国際性に乏しい。日本には二つの民族がいるみたいだ」と。

日本からのスタッフは芹沢さんを含め二人、あとは現地の日本人五人でのスタートだった。

 

マグロウヒルビルでのオープニングパーテイーには、日本企業をはじめ米国のマスコミなど大勢が駆けつけてくれ、賑やかなものになったのだが、私が印象的だったのはアメリカ側の反応だ。彼らのイメージの中にある日本企業というのは、トヨタやソニーなど世界に冠たる大企業。ところが目の前にいるのは無名の女性起業家で、しかもメーカーでも商社でもない、日本とアメリカを心と文化でつなぐ情報サービスという、超ソフト型ビジネスで進出してくるという。こういう企業がよく、あの経済一辺倒の日本で育ったものだという驚きの日で迎えられた。ダイヤル・サービスの最初のビジネスのヒントはアメリカから得たという点でも、驚きと共感を持たれたようだ。

その夜、パーティーが終わって、フィフスアベニュー、フオーテイーセカンドストリート

(五番街四十二丁目)の摩天楼のオフィスに戻った私は、 一人窓辺に立ち、燈々と光を放つ

ニューヨークを見下ろしながら、二十七歳のときにエンパイア・ステートビルの屋上から、この街に誓った言葉をつぶやいた。

I shall return―。そう、そして私は戻ってきた。I am here now.

そのエンパイア・ステートビルは目の前にそびえていた。

現地法人を設立した翌年の十月、KKD(当時)とNTTがスポンサーに付いて、米国にいる日本人や日本からの留学生。旅行者のための「米国生活一一〇番」をスタートさせた。

また、JETRO(当時日本貿易振興会)からのアウトソーシングを受け、米国人向けに、日本の生活・文化などに関するよろず問い合わせ電話サービスも開始。この二つのサービスをベースにしながら、様々な日本企業の米国でのリサーチや宣伝などを引き受けることになる。例えば、KDDから受けた国際テレビ電話の利用開発と実験もその一つだ。東京のKDDとマンハッタンにあるわがDSIのオフィスを結んだ国際テレビ電話の実験で、希望者を募ったところ、日本の両親に孫の顔を見せたいという駐在員の妻たちや、日本にいる同級生と話したいという留学生など、たくさんの反響があった。この実験を踏まえて、その新しいメディアを企業や個人がどういう目的で、どのくらいの頻度で使うのか、それにはどういう機能が必要か、適正料金はいくらかなど、様々な提案をKDDに返すという仕事だった。この時期、ニューヨークにオフィスを出したからこそできた面白い仕事が、次から次へと降ってきた。

 

バブルが壊した人間の価値

東京でもニューョークでも、何もかもが面白いように回っていた。だが、その頃から銀行の営業員がちょくちょく私のところに訪れるようになる。土地を買わないかという話だ。当時のオフィスは原宿のど真ん中の交差点の所にあった。その界隈はバブルの象徴のような街で、空き地という空き地は、三角だろうがねじ曲がっていようが、とにかく投機の対象になっていた。次から次へとよくもまあ、そんなに見つけてくるわというぐらい、各行が競って土地の斡旋に来た。

「お金は全額融資します。あなたは一銭の負担もなく、この土地を自分のものにできる。あなたたちが何百人集まって働くよりも、遥かに高い利益を稼ぎ出すことができるんですよ」「あそこの社長さんも、そこの社長さんも、あれもこれも全部買ってて、本業の方はあまりうまくいっていないけれど、今ではそっちよりも遥かに利益を上げています」土地転がしでお金を稼ぐという発想がわが社にはないからと固辞すると、「なんでこのチャンスに気がつかないのか。女性経営者は全く時流に疎い」などと、さんざん悪く言われた。世のため人のためと日夜ひたむきに働く私たちより、ペンペン草が生えるちっぽけな土地

の方が、ずっと価値がある。そんなふうに言われて、プライドも傷ついたし悲しかった。確かに日本中どこも景気が良かったから、何か提案すればすぐスポンサー契約ができて、その意味では楽をした半面、知恵と汗を絞ってひたむきに働くことへの価値観が、この時代を境に大きく揺らいだ。勤勉、根性、奉仕といった日本的な労働価値観が消えていったように思う。

私の友人たちの中にも、このバブルの波に乗って失敗した人がたくさんいる。銀行からいくらでも貸すと言われて、あれよあれよという間に百数十億円の借金をした。確かに会社は一気に成長し、あっという間に私のところを追い越して、高収益企業に成り上がった。だが、やがてバブルが崩壊し、借金して買った土地はすべて不良債権と化し、結局、倒産する羽目になった。

バブルのピーク時、わが社のその年のボーナスの平均は一人五十万円だった。ところが同じ原宿のあるバブル企業、これも友人の会社だったのだが、ここは同じ年頃の二十代の女性社員に一千万円払った。年収ではなくてボーナスだ。数年前には三十万円ぐらいしか払っていなかった会社が、あちこちに土地を買いまくり転売して一捜千金。結局、この会社も潰れてしまった。札束が乱舞し、人心までも荒れてしまった原宿。私たちはいとしい思い出の詰まった原宿を去り、南青山に移ることにした。

 

先輩からの叱咤激励

私は社団法人ニュービジネス協議会(NBC)で、初代会長の関本忠弘さん(元NEC会長、現。国際社会経済研究所理事長)、二代目樋口廣太郎さん(アサヒビール相談役名誉会長)、三代目大川功さん(故・CSK取締役会長)四代日高橋慶一朗さん(ユニ・チャーム代表取締役会長)、五代目現会長の志太勤さん(シダックス代表取締役会長)という五人の、素晴らしい会長の下で 一九九四年から副会長を務めてきた。日本を代表する五人の経営者たちからは、それぞれの個性でもって叱られもしたが、大いに育ててもいただいた。NBCでの私の役割は一貫して会員交流とネットワーク強化だ。

NBCが一九八五年に通産省(当時)管轄の社団法人として東京で立ち上がった後、全国の各地域でもニュービジネス協議会が立ち上がり、地方色を生かした活発な活動をするようになった。ところが、ここ十年の不況により、どのベンチャー企業も財界活動より本業回帰というわけで、各協議会とも会員を減らす結果となった。こういう苦しい時期だからこそ、ベンチャー企業を孤立させずに応援しなければならないし、NBCの役割もまさにそこにある。そこで、どこの地域の会員であろうと、日本のベンチャーとして同じように会の恩恵を受けられるようにするために、全国ネットワーク化を進めることになった。私の担当はまさにそれだった。

全国を駆け巡り、各地域の会長たちと話し合い、どこかで女性部会が誕生すれば駆けつけて講演する。そんな調子で、とにかくNBCのためになることだったら時間を惜しまずに何でもやった。全国組織の日本ニュービジネス協議会連合会はその後二〇〇三年にようやく設立されることになるのだが、東奔西走する私を見て樋口廣太郎さんは叱咤した。

「人の世話ばかりするな。まず自分がやるべきことをやって立派に一人前になってから、人を応援しろ」「いつまでも女性起業家第一号だと言っていても、古いだけじゃ駄目なんだ。実力第一号にならなければダメだ。自分の会社を一人前にしてこそ、若者たちの面倒を見て、なるほどとみんなが納得するんだ」

その後、二〇〇一年に樋口さんが突然倒れられた。危機を脱してからも、いまだに口を利いてくださることはない。そうなってみて改めて、私はあの叱咤の言葉の意味をもう一度、真剣に自分に問い直した。私のことを案じて、「何が何でも頑張るんだ」と厳命したその親心に、もっと正面から向き合ってみたくなった。そして気づいた。「女性経営者は着想がいい、仕事も真面目にやる、社会にも大いに貢献する、だがビジネスの手腕はいまひとつだ」というイメージを残したままではいけない。後から続く多くの女性起業家たちにも失礼になる。「女性経営者はやると決めたら、やるんだな」という実績を残しておく必要がある。それも私の使命だと、樋口さんは言いたかったのだ。一年ほどして、アサヒビールの福地茂雄会長のおかげで、まだ外の人とはお会いにならない樋口さんを見舞うことができた。話してもおわかりにはならないと知らされてはいたが、

89

病室の車椅子の樋口さんを見た途端、そんなことはすっかり忘れて話しかけた。あの強い樋口さんが、こんなに柔らかで優しい手をしていることにも感動した。しっかり両手で樋口さんの手を握りしめ、夢中で話しかけた。

「樋口さんが提案された全国のニュービジネス協議会の連合会をつくり上げるため、志太会長はじめ全国の会長さんたちと頑張って準備を進めています。みんなあなたの志を受け継いでいます。そして何より、何度も厳命されたダイヤル・サービスの次″へのステップ〃にも

チャレンジします。この二つをお約束するために今日は来ました」そう心を込めて話しかけた。声はおろか、まばたき一つすら反応はない。でも、もっと確かな、気配といったらいいのだろうか、あのかつての大声以上の迫力で伝わってくるものがあった。「ようやくその気になったか、ほんまに世話の焼けるやっちゃ」涙が出るほどうれしかった。

 

第二章 試練

私のイメージの中には、いつも出会わなかったもう一人の自分がいる。

藍や草木染めの絣、時には紬の着物を着て、広い縁側にぽつねんと一人座って庭を見ながら、平和な物思いにふけっているもう一人の自分――。生活の心配もないし、来月のボーナスをどうやって払おうかなどと考える必要もなく、ただただ安心して、文机を脇に読書や瞑想などをしている。そんな私。

そんなもう一人の自分にいつか会える。そう夢に見て、私は毎年、着物を作り続ける。仕付け糸を取ってもらえぬまま和箪笥に眠る着物。それはきっと自分を慰め励ますための小道具なのだろう。「今という時の先に、この着物を着る、そんな私がいる」と自分自身に言い聞かせ、今日もまたいつもの自分の闘いが始まる。

自分の会社をつくると決意してから、これまでまっすぐ前だけを見てひた走ってきた。そんな私とは正反対の、イメージの中の自分を、もしかしたらこれが本来の私だったのじゃないかとも幻想する。何万、何百万とあったはずの、これまでの人生の中の岐路。それを意識して、あるいは無意識のうちに右、左、ゴー、ストップと選択した百万遍の人生の交差点。戸惑い、迷い、悩みながらの旅路の果てに、今ここに、私がいる。その何百万の岐路の中で、もし、あのとき右ではなくて左を選んでいたら、私は今どこにいるのだろう。

 

十八歳の試練、進学の壁

 

子供の頃からミスマッチング

姉妹が六人もいたせいもあって、私は幼稚園に入る前、子供のいなかった東京の伯父夫婦から養女にと請われて一緒に住んでいたことがある。三重県桑名市で暮らす家族が恋しく泣き喚く私の歓心を買うために、伯父は何でも買ってくれた。その中で私の一番気に入ったのが、黒板だった。伯父は会社から帰ると、毎晩、黒板にいろいろな絵を描き、それが少しずつ変化して象形文字になっていく字の成り立ちを教えてくれた。それが面白くて、ノートや画用紙を買ってもらい、絵本も手当たり次第に買ってもらって、そのせいか随分早い段階から読み書きができるようになっていた。

 

桑名に戻って最初にしたことは、自作の紙芝居だ。伯父がふんだんに買ってくれた画用紙やクレヨンで絵を描いて、話はアドリブで作り、紙芝居にして近所の子に見せては喜ばせていた。それにすっかり味を占め、将来は紙芝居屋さんになるつもりでいた。

近所のお風呂屋のおじいさんとは大の仲良しだった。毎晩こっそり抜け出しては、かまを焚くおじいさんの膝に座って話をせがむ。溢れ出てくるいろいろな物語は、私を夢の世界ヘ連れていった。話をしながら時折、おじいさんはおが屑をかまの口に投げ込んで火を足す。火の粉が舞い上がる一瞬の興奮。紅蓮の炎の妖しい美しさに、幼い私は酔いしれた。

ふだんは寡黙で、何か事件が起こったり周りから声をかけられたりするまでは、ただぼんやり夢見ることの多い子供だった。自分の世界に入って次から次へといろんな連想をするのも好きで、それが紙芝居となり、小学生になると、絵日記や壁新聞作りに夢中になった。誰かに何かを伝えたい、共有してほしいという気持ちが強かったのかもしれない。小学一年生のときに、発明コンクールというのがあって、私は一風変わった精米器を考案して応募した。精米器といってもテコの原理で米をつけるように、母親の化粧クリームの空き瓶とか割り箸など有り合わせのものを寄せ集め、接着剤でくっつけたような代物。夜ごと腰の曲がった祖母が、私たち家族のために玄米を一升瓶に入れ、全身の体重をかけながらついていたのを見て、それがとても大変そうで申し訳なくて、なんとか楽にしてあげたいとずっと思っていたから、発明コンクールと聞いて考えた。

それが思いがけず小学一年生の部で一等賞を取り、私は担任の先生と一緒に教頭室に呼ばれて行った。教頭先生は満面の笑みをたたえながら、私の頭をなでて「どうしてこういうものを発明したの」と聞いた。その途端、私は火が付いたように泣き出した。それはなぜだか今もってよくわからない。ただ、戦時中の大変なときに、上級生たちはお国のために役立つものを作ったのに、私だけがスットンスットン米をつくだけの幼稚なものを考えたということで、叱られたと思ったらしい。国のためじゃなく、たった一人の祖母のためという発想がいけなかったのだと思った。

後日、私の作品は、正面玄関の二宮金次郎の像が建っているそばの、立派なガラスケースの中に、恭しく飾られた。それ以降、私は玄関には一切近づこうとしなくなった。なぜなら、ほかのと並べて、私の作品だけがひどくみすぼらしく、時代とミスマッチングだとわかっていたから。

思えば私は、いつもミスマッチングの状況に置かれながら、その中で格闘してきたような気がする。女ばかり六人姉妹の次女で、幼いときからなんとなく自分は姉や妹たち、それに近所や学校の友達とも違うように思ってきた。家の手伝いはうまくできないし、料理、洗濯、掃除、裁縫、どれを取っても苦手だった。母も諦めて私には何もさせなかった。

だから、自分は大きくなったら家に入るのではなく外で仕事をしようと、ごく自然に思うようになっていた。九歳のときの空襲で、「アメリカに行って、三度と戦争が起きないように、そういう仕事をします」と神様に約束したときも、仕事をするという言葉が当たり前のように口を突いて出たのだった。

 

弱い人を助ける人になろう―

空襲体験は九歳の子供の心を、たった一夜にして百八十度変えてしまった。翌日から母親

と一切、口を利かなくなった。戦争ほど不条理なものはない。なぜ子供が、そんな恐怖の極限を体験して、理由も告げられずに死ななければならないのか。その不条理は九歳の頭では理解できず、捌け回のない怒りをすべて、大人社会の代表として一番身近にいた母親にぶつけたのだった。母の方こそ理不尽で不条理の極みだったことだろう。今、養子を得て人の子の親となって初めて、親の苦しみがわかった。申し訳ないことをしたと思う。

ある日、大事に育てていたウサギが五匹次々と、飢えた野良猫に襲われて無惨にも餌食になってしまった。それは町でも有名な大きな泥棒猫で、復讐の鬼と化した私は近所の男の子たちを手下に、その猫を捕まえ手足を紐で結わえ、「愛するうさちゃんの仇、思い知ったか」とばかりに川へ放り込んだ。猫は素早く紐をすり抜け難なく逃げ延びたのだが、その話はぱっと広まり、親の耳に届くこととなる。それまで大や猫や蛇までも生き物は何でも大切にしていた娘の突然の暴挙に、母親は心を痛め、その荒ぶる魂をどう鎮めたらいいのかと悩んだ末、一計を案じた。お茶を習わせることにしたのだ。

終戦直後の何もない時代、家計はお茶どころではなかったはずだが、日曜になると祖母の作った団子や慢頭を持たされ、何キロもの田んぼ道をとぼとぼ歩いてお茶を習いに行った。大人ばかりの中に九歳の子供が一人。静寂の中に茶がまの湯の煮えたぎる松風は、空襲の夜以来ケロイド化した幼い魂を、優しくあやす子守歌のようだった。

ところが、そこでもまたお茶の先生を巡る大人の世界を垣間見ることになった。地元のちょっとした金持ちが引き揚げ者のその先生を世話して、お茶の教室を開かせていたのだが、その先生が東京へ行くことになった。金持ちは、それまで費やしたお金をどうしてくれると、露骨な嫌がらせをした。それに涙ながらにひれ伏して謝る美しい初老の先生を見て、「みんなから慕われるこんなすてきな人でも、お金がないとひどい目に遭うのか」と悲しくなって、私は大声で泣いた。大人たちは驚いて、その場は収まったが、私はこういう弱い人たちのカになれるような人になりたいと、泣きじゃくりながら強く思ったのだった。

後から振り返ってみると、私は事あるごとに、いつもそのような経験を繰り返し、そのたびに同じ決意を固めていったような気がする。当時は日本中が悲しい時代。人間の尊厳も、まして子供の尊厳など誰も考えない時代だった。その時代に一番感受性の鋭い子供時代を過ごしたことが、私の人生を決定したと思う。もし、違う時代を生きていたら、全く別の考え方.生き方をしていたのだろう。誰もがそれぞれ、その時期にその国に生まれ、育って、体験したことに、固有の意味があるのだと私は思う。その意味に気づけば、人は、そして自分は、何のために生まれたのかが見えてくるのだろう。

 

仕事に生きると決めて

中学時代は学校新聞の編集を任された。当時始まったばかりの校内放送でもアナウンサーを務めたし、立候補して生徒会長にもなった。その頃から、将来は何かを伝える仕事をしたいと思い始めたのかもしれない。家庭科の先生を泣かせたことがある。ある日、母親はその先生から呼び出しを受けて、いきなり泣きつかれた。家庭科の時間に、浴衣を縫うといっても足袋を縫うといっても、私だけが一切教材を持ってこずに、 一人知らん顔して本を読み、反抗的というのではないが、教師としての存在が無視されていて耐えられないと言われたのだ。

その先生は私に3の評価を付けて、職員会議で他の先生から問い詰められたらしい。ほかの教科が全部5なのに、どういうわけで3なのか、意地悪をしているのではないかというわけだ。先生は「5を付けるためには、浴衣を提出し、明日の期末試験で良い点を取ってほしい」と涙ながらに母に頼んだ。私は抵抗した。家庭科が3でなぜいけないのか。私にはほかに得意科目があって、それは5をもらっている、それでいいではないかと訴えた。母はその夜、徹夜で浴衣を縫い上げ、私は友達にノートを借りて全部丸暗記させられた。

なんとか満点を取り、先生は喜んで5をくれたが、後日、父からも母からも大いに叱られた。私は、大人になったら仕事を持つと決めていたから、「自分で稼いだお金で浴衣もエプロンも買います。だから、なにも裁縫の不得手な私が、無理をして自分で縫う必要はない」というのが言い分だった。専業主婦になるのだったら、自分や家族の足袋や浴衣の縫い方を習うのは大事だけど、浴衣を縫う人は縫う人、それを働いたお金で買う人は買う人、そうやってそれぞれの生き方があり、役割分担がある。縫った浴衣を買ってくれる人がいなければ、縫う人だって困るじゃないか、と考えていたのだ。「自分の得意なことをして生きていくのはいい。しかし、そのために人を泣かせたり迷惑をかけたりしてよいというわけではない。自分の思うままに生きたいのなら、なおのこと周りのことを考える人間になれ」父はそう言って叱った。

六人姉妹の上を見ても下を見てもどこか頼りない。いずれ私が大黒柱になってみんなの面倒を見ることになるのかなと、おぼろげながら思っていた。姉や妹がいじめられて泣いて帰ってくると、下駄を履くのも忘れてすっ飛んでいき、いじめた相手と代理のけんかをしたものだ。子供の頃から、私は誰かを守る方の役割なのかなと、ずっと思ってきた。そんな私の人生といえば、残念なことに、いまだに私を守ってくれる人は出現していない。不公平ではないか。

 

大学進学を勝ち取るまで

どうしても四年制の大学に進みたかった。それも東京。九歳のときの神様との約束を果たすためには、東京でなければならなかった。だが、親も周りも大反対。それまで桑名の町から東京の四年制大学へ進学した女子は一人もいなかった。当時は「女が大学へ行くなんて」という時代だ。崩すきっかけさえ見つけられそうもない反対の壁にぶち当たったが、それでも私は負けるつもりはなかった。親に食い下がって頼み込み、奨学金も自分であちこちに申請した。三重県からの奨学金を桑名高校でただ一人、受けることになり、ほっとしたその夜、幼なじみの男友達の母親が家を訪ねてきた。彼は東大にストレートで合格した秀才だった。

「公的な奨学金というのは、将来この国を担うべき人を育てるためにある。いくら勉強ができても女の子は女の子。世のため人のために働けるわけではないから、将来のあるうちの子に譲ってほしい」

私はこの母親を、仕事を持つ女性として長年尊敬してきた。職業を持つと固く決意するようになった背景には、この人の存在もあった。事もあろうにその人の日から、女は世の中の役に立たないと言われるとは。ショックでしばらく日も利けなかったが、気を取り直して言った。

「よくわかりました。意味を理解したうえで、私が選ばれたのは正しかったといつか思って

いただけるよう、世のため、人のために役に立つ人になることを約束します」言われた言葉は私の闘志に火を付けた。結局「一校だけ。浪人はなしという条件で」と、親も折れた。敗者復活戦のない一発勝負。私は津田塾大学英文科を受験した。

この間たった一人、終始応援してくれたのが、小学校六年のときから通っていたアテネ塾という塾の西塚茂雄先生だ。塾といっても場所は近所のお寺の境内。学校で教わるような勉強ではなくて、わかってもわからなくてもいきなり英語の原書を読まされたり、数学の時間には数や図形の成り立ちを学んだり。試験で点を取るための勉強という発想は全くなかった。

「覚えることはどこかに書いてあるものを見ればわかる。考えるという力はどこにも書いて

ない。だから、物事の根本を考える力を養うんだ。大学に入るための勉強はするな。入ってからのため、社会に出てからのために勉強しろ」

そう言われ、風変わりな授業を受けていた。若いときに肺結核を患い、自髪でやせた貧相な先生だったが、当時としてはとても進歩的で、男と女を絶対差別しなかった唯一の大人を、私は心のよりどころにしていた。実は私はほんのわずかな期間だが、就職した経験がある。大学入試を阻まれ、東京の伯父の回利きで、名古屋の名門、岡谷鋼機という会社を受けさせられた。手を抜いたり妥協したりということを知らなかった私は、 一番で入社試験に通ってしまい、伯父を狂喜させ、結果として就職する羽目になるのだが、その一ヵ月後に津田塾大学から念願の合格通知が届く。

しかし、すでに働き始めてしまっている。伯父の顔を潰すことになる。親の怒声も脳裏に響いた。どうすればいいのか。高校を卒業したばかりで、世間が未知のジャングルにしか見えなかった十八歳には酷な決断だった。追い詰められて、それでも会社に辞表を出したときの非難中傷は、当然のことながらすさまじかった。私は逃げるように名古屋を後にした。西日が照らす桑名の駅に降り立ったとき、線路を隔てた向かいのホームに一人立って待つ西塚先生の姿が目に映った。高校出たてで世間に真っ向から抗い、早くも痛手を負った私を、「一人でよくやった。大文夫だ。もう何の心配もいらない。僕がついている。東京へ行くんだ」と抱き留めて頭をなでてくれた。私はただただ領くことしかできなかった。

 

2 就職の壁

西塚先生は進学後も万全のフオローをしてくれた。親をはじめ周りの反対を押し切っての

進学だったから、仕送りは一切ない。東京の伯父の家に下宿させてもらったが、自分で学費や生活費を稼がなければならなかった私に、先生はアテネ塾の講師や家庭教師のアルバイトを用意してくれたのだ。夏休みや冬休みにまとめて稼いだ報酬は、学生生活を支える大事な基盤となった。大学生活は学生新聞の活動に夢中だった。学生新聞の編集長を務めていた関係で後に貴重な人脈につながるアルバイトに出合ったのは幸運だった。 一橋大学の南博教授の社会心理研究所で様々な調査の手伝いをしたときに訪ねた家の一軒が、産経新聞社「随筆サンケイ」の編集長の自宅だった。

 

学生時代、大学の授業になじめず、津田塾大学学生新聞作りに熱中していた頃。いつも麦わら帽子をかぶって、真っ黒に日焼けしていた。22歳

 

夏の日盛りの中、滝のように流れ出る汗を拭き拭き真っ黒に日焼けした私を見て、たまたま在宅だった重村力編集長が、「まあ、上がりなさい」と言って、冷たい麦茶を出してくれたのがきっかけだ。「津田塾大学の学生新聞の編集長をやっています」「ああ、私も編集長なんだよ」

そんな話から親しくなり、「随筆サンケイ」で月二回ほど校正のアルバイトもさせてもらうようになった。

小学校のときの壁新聞に始まり、ずっと新聞作りに携わってきたから、就職の第一志望はマスコミだったが、就職の年、目指すテレビ局で募集したのは男子のみ。残された道はアナウンサーだったが、それも募集人員はごくわずか。就職することが優先だったので、可能性のある企業の問戸はあちこち叩いた。自分には仕事をこなす自信がある。面接ではそれをしっかりとアピールして回った。門戸さえ開いてくれたら……。だが、「女の定年二十三歳」というのが企業の陰の人事規定だった当時、四年制大学を卒業する二十二歳に投資のしがいがなかったことは間違いない。高卒が「金の卵」といわれるゆえんを改めて実感し、あのまま十八歳で岡谷鋼機に勤めていたらという気持ちが、ちらりと胸をかすめたりもした。 一社、また一社と希望は潰れていく。望まれる女子社員は「従順で使いやすく、二十五歳で結婚退職」というイメージがしっかりとできていた時代に、女が「私」をアピールする強気や自信は逆効果にしか働かなかった。就職の壁はまさに鉄の壁だった。生まれて初めて、この時代にこの国で、女として生まれたことの意味を思い知らされ、愕然とした。

 

一日四毛作の日々

就職の道は完全に閉ざされたが、負け犬で終わるわけにはいかなかった。猛反対を振り切り、勘当同然で東京に出てきた私が、就職できなかったからといって、おめおめと故郷に舞い戻るわけにはいかない。しかも、ここで挫けてしまえば、「それ見たことか、だから女は」

というレッテルを重ねるばかりで、後に続く女性たちに瑕疵を残すことになる。働く女性の風穴を開けるつもりが、逆効果のネタに使われるわけにはいかない。

日本の社会が四大卒の私を必要としないなら、自分で会社をつくろう。そう決意するのに時間はかからなかった。私には落ち込んでいる暇も泣いている暇もなかった。前に具体的な何かが見えているわけではない。それでも前を見て、とにかく歩き始めるしかなかった。

会社をつくるという、雲をつかむような頼りない決意を実現させるのに、自分に許した期

限は十年。それまでにできるだけの経験を積もう。何しろアテネ塾で教えた以外は、きちん

とした仕事というのをしたことがない。資金も人脈も必要なものはすべて、この十年間でつくらなければならなかった。最初に声をかけてくれたのが「随筆サンケイ」の重村編集長だ。就職は駄目だったと伝えると、夫妻で食事に招いてくれ、「それなら、うちで四ページあげるから映画評論でも書いてみるか」ということになった。私は津田塾大学学生新聞でずっと映画評を書いており、それを編集長にはいつも届けていたから、そんなありがたい申し出をしてくれたのだ。実績三割、同情七割というところだったに違いない。「随筆サンケイ」の映画評論は、また次の思わぬ仕事を引き寄せた。映画評を読んだTBSのデイレクターから「ちょっと会って話したい」と呼び出され、新しく「街の歌声」というテレビのルポルタージュ番組を始めるので、そこでインタビュアーをやらないかと声がかかったのだ。今では考えられないことだが、当時はまだビデオというものがなかったから、放送はすべて生中継だった。中継車や大勢のスタッフが出向いて、決められた時間の中で、すべてをピシャリと決めなくてはならない。何分何秒にフロアデイレクターから「三、二、一、ハイ」とキューが飛ぶ。最初の頃は、緊張して引きつっているうちに、どんどんシーンが切り替わっていくような始末だった。だんだん慣れてきても、インタビューが佳境に入りかけたのに、もう次の別のシーンに切り替えられてしまう。「アリの町のマリア様」(当時、スラム街でホ―ムレスの人たちと苦楽を共にしながら、彼らに日銭となる仕事を手配して救済の道をつくっていた北原怜子さん)と話しているのに、話の途中で放り出して、ホームレスの人たちの歌声シーンに顔を出さなければならないのだ。三ヵメだというのに、 一ヵメに向かってにっこりしている。ああ― デイレクターたちの髪の毛が逆立つ。そんなヘマはしょっちゅうだった。

この仕事で毎週あちこちへ取材に行く中で、当時ブームだった歌声運動のメッカ、新宿の「灯」(ともしび)から中継したことがあった。後日、そこでもちゃっかり深夜の部のアルバイトを見つけ、歌集編集や、毎週のように入るテレビや雑誌の取材に対応する広報担当の仕事をするようになる。営業は夕方から十一時頃までで、すべて終わって家に帰ると深夜一時というようなアルバイトだった。

四畳半のアパートにはお風呂もなかったから、歌舞伎町の銭湯を利用していた。ある日、過労と空腹から銭湯で倒れてしまい、身元不明ということで警察にまで届けられる騒ぎになった。そんな私に同情してか、当時私の企画したステージに出ていた若き日の上条恒彦さんが、ラーメン餃子をごちそうしてくれたものだ。会社をつくるという目標の割には、いきなり毛色の変わった仕事にパタパタとありついたわけだが、「随筆サンケイ」でも随分いろんな人を紹介してもらった。徳川夢声さんや木々高太郎さんなど当時の人気作家や論客のところへ原稿を頼みに行ったり取りに行ったり、そういう人たちが開くパーテイーにも呼ばれたり、そこでまたいろんな人たちと顔見知りになったりと、その頃まだ全く社交性が身に付いていなかった私でも、何人かの人たちがかわいがってくれるようになった。そんな知人の一人から紹介されたのが、曾野綾子さんと三浦朱門氏だった。

紹介してくれた曾野さんの友人から、「何をやらせてもらえるかわからないけれど、会えるだけでもラッキーよ」と促され、三浦・曾野ご夫妻に会った。お二人は新宿歌舞伎町とか若者が集う歌声喫茶というものに興味を持たれ、何度か案内することになった。それがきっかけで、三人でよく歌舞伎町を探検した。いつも「大陸」という中華料理店で、油の染みついたカウンターに陣取り、ラーメンをすすり餃子をパクつき、その後「灯」というお決まりのコースをたどったものだ。夫妻は作家の目で当時の若者群像を観察されていたのだろう。

テレビ取材で得た情報を頼りに、曾野さんたちをあちこちご案内したり取材に同行したりするうちに、三浦朱門さんから回述筆記のアルバイトを頼まれることになった。毎日午前中三時間のアルバイトで必ず千円頂ける安定収入源として、これは本当にありがたかった。

というわけで、その頃の私は一日四毛作の生活をしていた。朝起きてからチラシ広告のコピーも含めて雑文書きの仕事、その後、九時から十二時まで三浦さんの口述筆記、午後はテレビの仕事、夜からは「灯」でのアルバイト。それ以外に定期的に「随筆サンケイ」の映画評論があったので、収入的にはなんとか生活できた。

 

肉体的にはハードだったけれど、何より勉強になったのは、OLとは全く違う世界の人たちとたくさん知り合え、世の中が見えたことだ。

歌声喫茶では月に何回か開くイベントで、プロデユーサーのような企画の仕事も手掛けた。後に大スターになった上条恒彦さんや菅原洋一さんを呼び、帝人やレナウンといったスポンサーを付けて衣装提供をしてもらい、舞台構成を考える。普通ではなかなかできない独特な

世界だった。とにかく上司に命じられてする仕事ではなく、どれも自分からやりたいと思う独創的な仕

事ばかりだったから、貧しくて不安はあったが、不満はなかった。十年後に会社をつくるという決意は全く揺るがなかったが、資金や事業計画が見えている

わけではなく、ある意味、無鉄砲に、日々をがむしゃらに突進しているような感じだった。なんとなく大学四年間の新聞部の延長にいるような環境で、その点では無意識のうちにも、自分に合った世界を選んで生きていたのだと思う。

だが、「灯」から帰ると毎晩一時。真冬の深夜、氷のように冷たく暗い部屋で、言いようのない孤独と不安に苛まれることがあった。この暮らしの延長に、いつか本当に私の描く未来など来るのだろうか――。

いつものことだが、これは危険な時間だ。急いで電気をつける。スタンドもろうそくも、家中にある明かりという明かりは全部つける。私は一人で凍える魂を抱く二十五歳の女だった。

 

トンネルの向こうはニューヨーク

 

一見、自由で華やかな仕事をしているように見えても、私には暗くて長いトンネルの日々だった四年間。だが、終わりのないトンネルはない。その向こうには必ず出口があるのだ。私にとっての出回はニューヨーク世界博だった。

ある日、三浦・曾野ご夫妻から「ニューヨーク世界博が開かれることになり、日本館コンパニオンを募集している」と教えられ、夢のような存在だったアメリカが突如近くに見えてきた。そんな幸運があるとはとても信じられなくて、何度も新聞で確かめたほどだ。本当だと知って、どんなに興奮したことか。もちろん応募しても必ずコンパニオンになれるわけではない。実際、百人募集のところ、三千人の応募があった。だが、是が非でもこのチャンスをしっかりつかみ、アメリカヘ行くのだという強い意志が、私を突き動かした。

そして合格。暗くて長いトンネルの向こうは、雪国ならぬ、ニューョークという名の天国だった。ニューヨーク世界博は私にとって、本当に新天地だった。世界最大の都市で最先端の文明に囲まれ、世界各国の人たちと出会い、日本では味わえない様々な経験をして、見聞を広めることができた。ついこの間まで、深夜一人、冷たい部屋で膝を抱えていた自分が嘘のような世界だった。

 

ニューヨーク世界博のコンパニオン仲間と、五番街のロックフェラーセンターの前庭で。右から3番目が私。27歳

 

実はこの世界博で、私は忘れることのできない奇跡のような体験をしている。日本館での仕事は、呼び込みから始まって焼き鳥からすき焼きのサービスまで、振り袖姿にたすき掛けで何でもやったが、 一人の日本女性として米国のマスコミ取材に応じる仕事もやらせてもらった。ある日、車椅子に乗った米国人記者が訪ねてきた。アメリカでは車椅子の記者も少なくないので驚きもしなかったが、取材が終わった後、「日本のどこから来たのか」と聞かれた。「三重県の桑名という所。名古屋と四日市のちょうど真ん中あたり」そう答えた途端、彼の顔色が変わった。突然、私の手を握り、「よく生きていてくれた」と声を詰まらせる。何のことかわからなかったが聞かれるままに答えた。

「当時、九歳でした」握っている手にさらに力が入り、「よく元気で生き延びてくれた。よくアメリカに来てくれた」と、泣き出さんばかりに喜んでくれる。なんと、その人は当時B29で桑名を爆撃した米空軍の若き兵士だったのだ。

彼は太平洋戦争の後遺症で精神を病み、それが原因で半身不随になってしまったという。車椅子を使っていたのは、そのせいだ。肉体的なけがをしたわけではないのだが、大勢の人を殺してしまったという意識にずっと苛まれ、心身を病んだのであった。

なんという奇跡だろう。誰がこんな偶然を信じられるだろうか。こんなに広い世の中で、爆撃された少女が大人になって、まさに爆撃した一人に出会うなんて。だが、日の前で狂ったように私の手を握り締めて腕を振っている人は、間違いなく名古屋一帯を爆撃した人にほかならないのだ。

私はその人に、九歳のときの神様との約束の話をした。将来いつかアメリカに行って、日本での空襲のことを伝え、戦争というものの悲惨さ、不条理、誤りを広くアメリカの人たちに伝えるという約束を。その話を聞いて、彼は言ってくれた。「私もマスコミの人間として、あなたが神とした約束を、これから命ある限り、いろいろな人たちに話していこう。伝えていくよ」それを聞いて、どんなに心が安まったことだろうか。私は思わず心の中で手を合わせた。

「神様、私は九歳のときの約束を今、果たしています。私をここまで連れてきて、こんな奇跡を起こしてくださったあなたは、やっぱりすごい。本当にありがとう」その日、彼が撮った私の写真は、新聞一面全段で全米に配られた。

ニューヨークは、私にビジネスの種を与えてくれた幸運の街であると共に、過去を清算して未来を与えてくれた輝かしい街なのだ。

 

ストレスに押し潰されて

 

転機そして試練を通過することによって人は目覚め変化し成長する 一匹の毛虫がさなぎになり、羽化し、アゲハチョウとなって空に舞う、あの変身の刻を、神はわれわれ人間にも公平に与えている九歳のときに戦火で命を失いそうになったあの刻あの夜がなかったなら、生命の尊さ、「自己と他者」への強烈な意識、今ここに存在することの意味、自分の使命といったものに目覚めることはなかっただろう。十代の進学、二十代の就職で閉め出し状態に追い込まれなかったら、女性起業家への道を歩み出すことはなかったと思う。

そして、起業家の道を選んで二十年。五十代のときに、私にはまた大きな転機が訪れた。

 

壊れたロボット

次に私を襲った大きな試練。それは体の変調だった。

ストレスの表れ方は人それぞれで、例えばピアニストは指に、声楽家は声にという具合に、その人にとって一番大事な個所にダメージを与える形で表れることが多いと聞く。東奔西走、元気印が売り物だった私はまず足腰にきた。

ある朝、日覚めて立ち上がろうとしたら、立ったはずがゴロンと床に転がってしまった。関節が全然利かない。とにかく力が入らない。

実は以前、「赤ちゃん一一〇番」を立ち上げた直後にも同じようなことがあった。そのときは恐怖にうろたえて、親友の牛丼測アイコさんに電話を入れて飛んできてもらい、即刻入院となった。社長が倒れてしまっては周囲に不安を与え、スポンサー営業にも大いに支障を来す。スポンサーやクライアントからは、「今野さんにスキャンダルや健康上の問題が起きたら、契約は打ち切る」と言われていたから、病気になる自由が私にはなかったのだ。急きょ、米国出張ということで、秘書以外は家族や社内にも極秘にしてどうにか凌いだのだが、いくら精密検査を続けても原因は全くわからない。思い当たる節もなく、そのまま退院して、すっかり忘れてしまっていたのだった。

今再び、床に投げ出されたぶざまな自分に呆然としながら、自分に起こったことを理解しようとした。その頃、次々と起こった公私にわたる厳しい出来事が、私の心を攻撃し続けていたのを、何食わぬ顔でやり過ごしてきた。少なくとも自分ではそう思ってきた。私は強い女なのだ。そんなことで挫けるなんて、私にはあり得ない。試練こそ天からの贈り物。足尾鉱毒事件で闘った田中正造が迫害された苦境の果てに書き付けた言葉、「辛酸佳境に入る」を、当時座右の銘にしていた私だった。人生の辛酸こそ、魂を強く美しく育むビタミンではなかったのか。そう信じ、そう語り、生きてきたではないか。

その私にとって現実は惨めすぎた。どんなに強がりを言っても、生身の体や心は次々と攻撃してくるつらく苦しい出来事に、悲鳴を上げ、血を流していたのだ。特別なものなど何も

ない、そこには、周りの人たちと何ら変わらぬ五十代の女でしかない私がいた。そのことに初めて気づかされたのだった。ちょうどバブルの真っ盛り、株価がピークを走っていた年だったように思う。

その年は、父の死に始まって、夫との離別、二十三年連れ添った猫たちの死が相次いだ。会社では手塩にかけ、期待して育てた人たちがプライベートな事情を理由に次々と去っていった。大きな大切なスポンサーとの別れもあった。何もかもなくして独りっきりになった私。これから会社はどうなっていくのだろうか。これまでの自分の人生の揺るがぬ基盤と信じていた大事なものが、みんなみんな音を立てて消えていった。安心して駆けていた足元がいきなり陥没して、奈落の底に一気に落ちていく私がいた。

だが、心の症状が堰を切るように体に表れても、会社を休むわけにはいかなかった。仕事は猛烈な勢いで回転しているし、こなし切れないほどの講演も入っている。前回のように海外出張を理由に姿をくらますということはスケジュール的に絶対無理で、どんなに苦しくても休むことは考えられなかった。会社では普段と全く同じように仕事をこなし、講演のとき

も「その元気の秘訣は」と尋ねられるほど、元気いっぱいを演じてみせる。人目があるところでは、不思議とそれができた。

ところが、家に帰って玄関のドアを閉めた途端、手を放されたマリオネットのように、体がそのままくずおれてしまう。風船からシューツと空気が抜けるようにすべてが萎える。家では杖がなければ歩けなかったし、階段は這って上った。

考えてみれば、経営者というのは誰もが二重人格のような人生を送る運命なのかもしれな

い。どんなにひどい状況にあっても、それを外には見せられない。クライアントもいるし社員もいるし株主もいる。周りを不安にさせてはいけないし、何かを気取られたらビジネスの成否にもかかってくる。だから、大変なときほど明るく何事もなく見せようと無意識のうちに演じる力が、・身に付いてしまったのだろう。

一日中みぞおちのあたりに大きな鉛の塊が詰まっていて、吐き出すこともできず、息をするのも苦しい。何か嫌なことがあると、それが鈍痛になる。体がみぞおち部分で二つ折りに

なり、みぞおちを引っ張り上げないと、また折れてしまう。私は子供の頃から姿勢が良すぎると笑われるくらい、背筋をビッと伸ばしてきたのに、今はみぞおちを押さえていないと体が保てない。そんな情けない自分の姿に怒り狂った。

こんな人生、放り投げてしまいたい。どんなに頑張っても、計略や裏切りに足をすくわれ、積み上げても積み上げても崩れていく。むなしい徒労の人生。もう重すぎる。その血を吐くような思いをただ一人ぶつけることのできたのが、私の三十年来の友人でも

ある主治医の松木康夫さんだった。よく夜中に点滴片手に駆けつけてくれた。自暴自棄になって荒れ狂う私に、「君は自分が誰だか知っているのか?今野由梨なんだよ。たくさんの人たちがあなたから元気をもらっている。それがわかっているのか?」と、頬を引っ叩いて

くれたこともある。長渕剛の『乾杯』を何度も歌ってくれた。「君は今、幕間にいて、これ

から本当の大きな舞台に出ていくんだ。この奈落の底から本番のステージヘ出ていくんだよ」と、泣きながら諭してくれたこともあった。今も会えば憎まれ口を言い合う仲だが、この恩人がいなければ、あのとき私は潰れてしまっていたかもしれない。

もう一人、私の苦しみを知っている人がいた。斎藤茂太先生だ。友人から私がストレスで苦しんでいると聞き、ある日、イタリアンレストランで会うことになった。症状を聞き終わると、あの大きな声でのけぞって笑って、「わかったわかった。じゃ、時々ここで、またワインを飲もう」と言い、次に会ったときには薬を持ってきてくれた。「飲んでも飲まなくてもいいよ」と渡してくれたのが、どう見てもビタミン剤。でも、そうやって会って私の話を聞くたびに、豪快に「アハハ、ワハハ」と笑い飛ばしてくれたことで、どんなに心が軽くなったことか。二人の名医は考えてみれば、いわゆる医療や施術、そして投薬らしきことは何もしてくれなかったような気がする。病院へも一度も足を運ばなかった。そういえば治療費も払っていない。でも、この二人のおかげで、私はもう一度、泥沼から這い上がって、自分のこの足で

立ち上がる勇気を得たのだった。

 

感動の生還

それでも私の体の症状は一向に良くならなかった。相変わらず人目がなくなると、壊れたロボットのようにパタツと動けなくなる。そんな状態が三年続いたことを、社員はもちろん秘書さえ知らない。

ある日、北海道。伊達青年会議所(、菊谷達夫さんかマラソンゴルフと

JC)の友人ら「いうのをやってみませんか」という誘いの電話がかかってきた。

伊達JCとは一九八〇年代後半から親交がある。私は横路孝弘さんがまだ北海道知事だった八六年に、北海道開発庁の北海道開発審議会委員に就任して以来、道から講演に呼ばれることが多く、そんな中で伊達JCの人たちから声をかけられた。「一度、伊達にも講演に来てください」

そんなやり取りがあって出向いたのが最初だ。その後、商工会議所や信用金庫などいろいろな主催で何度も伊達に呼んでもらい、講演にとどまらずゴルフをしたり、船を出して洞爺湖や噴火湾を巡ったりしながら、町づくりについて話し合うという親交を続けてきた。その伊達の青年たちが、しばらく北海道に姿を見せない私を案じて、声をかけてくれたの

だった。人生やめるか、もう一度這い上がって再起するのかという深刻な課題を自分に突き付けながら、耐え難い日々を送っていた私は、その優しい呼びかけをもらった瞬間、なぜだかわからないけれど、みんなの期待に応えてみようという気になった。伊達JCは何力月も前から、コースの選定に始まり食料補給、医療態勢など、何から何まで用意してくれた。相変わらず一人だとまともに歩けない。練習ラウンドでもハーフがきつかった。体重が一気に入キロも落ちてしまったその体で、六ラウンドをぶっ通しで回るという挑戦に、当然のことながら主治医の松木ドクターは強固に反対し、「それでもやるなら金輪際、主治医は辞めるよ」とまで言われたほど。しかし、帰り際に「長袖のシャツに帽子、水分をたっぷり取ることは忘れずに」と言ってくれた。

 

六ラウンドというのは女性記録になるという。確かに体のことを考えれば無謀に違いない。 」だが、すべてが心の問題からきていることを知っていた私は、それを解く鍵がマラソンゴルフにあるような気がした。問題を解きほぐすのか爆発させることになるのか、先はわからなかったが、ただじっと待っていても始まらないことはわかっていた。何かを変えたかったのだ。きっかけを渇望していたのかもしれない。その前夜午前○時、ベッドの上で改めて身を正し、神に祈った。九歳の夏、火の海の中で出会い、久しく対話することのなかった、その神に話しかけた。「これからの再起を懸けて、お答えを頂くために、マラソンゴルフをやらせていただきます。もう私の仕事が終わっているのであれば、それなりの答えを下さい。まだやるべき仕事が残されているというのなら、そのようにご指示を下さい」私にとって神とは、生命の根源にある大きな知恵のエネルギー。私の人生をずっと見守り導いてくれる大きな存在だ。 一切の宗教と無縁のまま生きてきた分、私だけの研ぎ澄まされた存在として、いつも神はいる。一九九一年六月、夏至と満月がちょうど重なる日の午前三時半、千歳市のザ・ノースカントリーゴルフクラブで、絵に描いたような満月に照らされ、私の挑戦はスタートした。真夜中なのに大勢の人たちが集まってくれていた。その多くのまなざしに応えたいという強い思いが沸々と湧いてくるのを感じた。そして、第一打。打った瞬間、憑き物が落ちるかのように、プツーンと音を立てて何かが吹っ切れ、すべてが月光の中に飛び散っていった。降り注ぐ月の光を浴びて無心で球を打ち続けるうちに、素晴らしい夜明けを迎えた。地平線からとてつもなく大きな太陽が上がってくる。ラフに落ちたボールを追っていくと、灌木

に大きな蜘蛛の巣が張っていた。 一本の糸も切れていない非の打ち所のない形の蜘蛛の巣に、さっき通り過ぎた朝霧が付けた水滴、その水滴に顔を出したばかりの太陽の光が当たってい

る。実に見事な天然の造形。私はしばし球を打つのを忘れ、ひざまずいてその美しさに見惚れていた。そのうち、もっと違う光が目に入った。近寄ってよくよく見たら、小指の爪の先ほどしかない小さな無数の蜘蛛の巣ではないか。生まれたばかりの蜘蛛の子たちが、DNAに導かれて、もう一人前に完壁な蜘蛛の巣を作っていたのだ。その小指の先ほどの巣にも、ちゃんと朝霧は極小の露を残し、太陽の光も平等に照らしている。親が作った巣のそばに何百、何千という蜘蛛の子たちが作った極小の美の世界。その生命の営みの完璧さに圧倒され打ちのめされて、こみ上げる涙が止まらなかった。五十にもなって自分の足で満足に歩けないほど体と心を病み衰えさせている今の自分、それに対して、この生き物たちの完璧さ。私はただ素直にひざまずいて頭を垂れるばかりだった。「申し訳ありませんでした。私は根源にある大切なものを見落としたまま、せっかく自分に与えられた命を、こんなふうにゆがめて生きてしまいました」

私は自分が病んでいる理由を理解した。足りなかったのは感謝なのだ。いくつもの別れや裏切りが重なって、私は「なんでこんな目に遭わなければならないのか」という不平不満や恨みがましい気持ちを持ったのだと思う。去っていく人たちにも「なぜ」「どうして」と問い詰めるような気持ちがあった。仕事だから照る日もあれば曇る日もあるはずなのに、 一つ一つの現象に一喜一憂して、根源的な喜びを忘れていた醜い自分。今、心の中にあるのは感謝の気持ちだけだった。こんな素晴らしい情景の中で、そのことに気づかせてもらったことへの感謝。喜びが胸いっぱいに広がり、シャボン玉のように私を軽やかにしてくれた。

それからはもう軽々と、痛みもなく疲れもなく眠気も空腹もなく、何の苦もなくプレーできた。シャンと伸びた背、駆けるように風の中を歩く足取り。なんという不思議、そして変身―

六ラウンドを終えた午後六時半には、なお余りある体力と気力が残り、疲労のかけらもなかった。あんなに耐え難かった精神的、肉体的な苦しみが嘘のように消えていた。それを、なぜと詮索する気はもう起こらない。「神様、そういうことなのですね、あなたからのメッセージは。ありがとうございます。頂いた答えを大切にして生きていきますから」

「気づき」というのは、何でもない日常の延長の中では、なかなか起こらないものなのかもしれない。極端とも思えるぐらいの非現実的な体験の中でしか気づけないことがあるのだと思う。「気づき」がターニングポイントとなって、また新しい生き方がスタートする。私は、

友人がかけてくれた「マラソンゴルフをやりませんか」という一本の電話に導かれて、気づき、そして生還した。

 

マラソンゴルフでギネスブツクレコード

女性初の六ラウンドマラソンゴルフ達成ということで、周りはギネスブックだと騒いで申請してくれたが、それはロンドンにあるギネス。ワールド・レコード社からすぐに却下されてきた。ギネスブックというのは、USAオープンのようなメジャーな大会と同じくらい正式なルールに則ってやらないと採用されないのだという。すると、札幌JCの原田信隆さんが声をかけてくれた。

「今度は僕たちも応援するから、ぜひもう一度、正式なギネスブツクレコードに挑戦しましょう」、

彼らとはちょうど北海道JCが主催で行った全国キャンペーン「地球の詩92」で「お金も知恵もありませんが、全国青年会議所のメンバーのネットワークとフツトワークがあります。なんとか力を貸してください」と協力を依頼され、企画からお金集めまで全面協力してイベントを成功させたばかりだった。

キャンペーンでは、子供たちに地球を守ることの大切さを知らせるために、「地球の詩」というテーマで全国から詩を募り、電話、FAXで寄せられた詩を各界の人たちが審査して、優秀作品の子供たちを北海道に招き、米国NASAからは宇宙飛行士を招待し、みんなでかけがえのない地球を考えるという交流の場を設けた。北海道JCにとっては歴史的な大イベントを成功させたということで、喜んでもらった。親しくしていた駐日英国大使サー・デービッド・ライト氏がギネスのルールを調べてくれ、札幌JCの彼らがルールクリアのためのすべてを準備した。まずはマスメディア。テレビ、新聞、雑誌、あらゆるメディアに取材されて記事にならなければならない。地元名士によるアテスト、スコアキーパーやタイムキーパーの配置など、そのすべてを手配してくれた。

私は、体重こそまだ戻らなかったが、体調は回復しており、彼らの尽力に報いようと意欲は満々。そのせいか当日、睡眠わずか五十五分で目が覚め、前年と同じザ・ノースカントリーの会場には一時間も早く着いてしまった。灯火一つない真っ暗闇を、溝にでも落ちて足を

挫かないように用心しながらスタート地点へ向かうと、そこにはたくさんの取材のまばゆいライトが待ち受けていた。

一九九二年六月二十二日午前三時、ギネス記録を目指して完全徒歩によるマラソンゴルフが始まった。ティーグラウンド以外、目指す方向はまだ真っ暗な中、付き添いのゴルフ場マネジャーにいちいち方角を聞きながらのショット。すべてフェアウエーを外さず、五十一プラス一空振りの五十二でスタートした。その後ラウンドを重ねるにつれ、スコアはどんどん良くなり、自分のゴルフとは思えないほど、やることなすことすべてうまくいく。そのうちボギー、パー、ボギー、パーの繰り返しになって、ついに三十台も出そうな勢いだ。疲れてくると徐々にスコアは落ちるものだと思うのが普通だが、やってみると、いつものような五十台、六十台という数字は一回も出すことなく、むしろどんどんいいスコアが出るようになった。その間、日にしたものは一口おにぎり一個とどら焼き半分とバナナ一本。空腹感とか

喉が渇いたとか、暑い寒い眠い疲れた、そんなものは一切感じなかった。私を支配していたのは、ただただ再起への感謝と感動だけだ。当初は、前年に一度達成している女性記録の六ラウンドが目標だったが、それは昼間のうちに難なくこなしてしまったので、どうせだからと男性記録の七ラウンドを目指そうということになった。「この際、日の前にあるものはすべてやってしまえ」と気合が入ったのである。しかし、それすらもお茶の子さいさいといっては不謹慎かもしれないが、達成してしまった。マスコミの人たちをはじめ全員の「男性記録達成、おめでとうございます」と祝ってくれる言葉の裏には、「今度こそ、これでやめるんでしょうね。もうこれ以上は付き合えないよ」という悲鳴とプレッシャーも重なっていた。

 

 

1992年6月22日、夏至、北海道ザ・ノースカントリーで、マラツンゴルフによるギネスブックレコードに挑戦。徒歩による完全ホールアウト。歩行距離70キロ、スタート午前3時、終了時間午後7時10分。平均スコア464。男子の記録7ラウンドをぶっちぎりで抜き、1993年版ギネスブックに掲載される。56歳

 

「まだちょっと明るいので、もう少しだけ回らせてください」と八ラウンドロに踏み出すと、彼らも夜中からずつと張っているから、応援よりもブーイングに近くなる。申し訳ない思いでいっぱいだったが、心を鬼にして張り切った。八・五ラウンドを終えたところで、さすがにJCの人たちも「はい、これまで」と止めに入った。私としては、方向指示さえあればまだ打てる暗さだと思ったので、もうハーフやりたかったのだが、泣く泣く断念したのだった。最後のグリーン上では、誰かがマッチを擦ってくれた。うれしい明かりだった。百五十三ホール十六時間十分。終了は午後七時十分だった。

いわゆるランナーズハイなのだろうか。回っているうちにどんどん意識が希薄になってくる。全く努力していないのに足が猛烈な勢いで回転する。希薄な意識の中で、時々ふっと正気に返るという感じ。そういう極限に近い時間の中で、自分の内から少しずつ何かが脱げ落

ちていき、新しいものが生まれてくるような感覚があった。

私は若い頃、自分のことがあまり好きじゃないと、周りの人に言っていたようだ。自分の嫌な部分は誰しも無理に意識したり口にしたりはしないと思うのだが、私はそれをかなり自覚していたのだろう。肉体だけを極限まで酷使し、意識停止に近い状態の長い時間の中で、不要となったものを脱ぎ捨て、新しい何かを身に付けながら、少しずつ私は変容していったのではないだろうか。古の行者たちが山を駆け滝に打たれた、あの″行″のようなことを、そうとは知らずにゴルフという形でやってしまったのかもしれない。

十六時間十分の行は、まだ見ぬ新しい自分に出会う旅であったような気がする。

 

ストレスは出合った瞬間に消していく

私の場合、七つ八つのストレスが閉じ込められ、圧縮。濃縮された結果、メガトン級の破壊力となって心身を襲った。ただ、どれ一つ取っても私にとっては実に大きな問題だった。

例えば、手塩にかけた社員が連れ立って去っていったとき。彼女たちは「ほかではできない大きな責任を任され、ほかでは考えられない大物たちと直接素晴らしい仕事をさせてもらって、人脈も経験もいっぱいできました。ありがとうございました。さようなら」と言って、ちゃっかり辞めていった。会社のデータベースをごっそり無断で持ち出していった人。辞めた後、私の人脈を勝手に使った人。ダイヤル・サービスと同じサービスを始めて、同じスポンサーに売り込みに行った不埒な人もいる。スポンサーから「うちはダイヤル・サービスがやろうとしていることに共感して応援している。その恩を仇で返す、そんな不心得者を応援するわけがない」と一喝されて戻ってきた人もいる。もちろんモラルに欠ける人ばかりだったわけではなく、全く別な仕事で独立したい人もいれば、突然の大恋愛で唖然とする仲間を尻目に結婚、夫の転勤という人もいたけれど、とにかく、私は何のために今まで心血注いで育ててきたのだろうと思うと、全身の力がスーッと抜けていくような、どうしようもないむなしさに襲われた。

あれから十五年。私も少しだが成長したと思う。社員の人たちは、いろいろな意味で未熟な私の反映だったのだろう。ダイヤル・サービスの中で起こったことは、 一つ残らず良くも悪くも、私自身がつくり出したこと。そう思えるようになった今は、彼女らが成し遂げた数々の成果はもとより、そうでないすべてのこともなおいっそう、抱き締めたいほどいとおしい珠玉の思い出だ。素直にそう思っている。一生自分の中に封印しておかなければならないような問題もあった。自分の中に閉じ込めるから病むのであって、本当はそういうことも爆発させて吹き飛ばしてしまえればいいのだけれど、世の中、周りの迷惑を考えれば、どうしてもそういかないこともある。これまで本当にいろいろなことがあったから……。ただ、これからも今までに勝るとも劣らない様々な試練に出合うだろうが、ストレスはできるだけ一つ一つ出合った瞬間に消していく。無理して心に閉じ込めたり鍵を掛けたりしない。思いを話せる友達がいる。それが大切だということがわかった。

 

今の私がそのときに戻って同じ体験をしたら、どうするだろうか。それはよくわからない

が、気の持ちようという点では、例えば社員が去っていくときは、「今までの経験を生かして、時々はダイヤル・サービスのことも思い出し、卒業生の自覚を持って頑張ってね」と温かく送り出せていれば、相手も私も衝撃を残さない形でうまく別の道を行くことができただろう。

スポンサーが離れるときも、「またいつかより良い形でお会いできますように」と感謝の言葉をお伝えすれば、関係が切れてしまうことはなかったろう。父の死に際してもそうだ。老衰で亡くなったのだから思い残すことはお互いない。

よちよち歩きの私の手を引き、故郷の三重の海や山にくまなく連れていき、わかるはずもない私に宇宙や外国を語り、生涯の心身の基盤をつくってくれた父。私はその父に背いて女だてらに起業家なんぞになり、古い時代の価値観を背負った父に、死ぬまで肩身の狭い思いをさせてしまった。でも、ああしてあげればよかった、もっとこうしてあげればよかったと悔やむのではなく、ありがとうという気持ちで野辺送りしてあげるだけでよかったのに……。

私が愛した人、今野勉さんとの離別は、後からじわじわと染み込んでくるようなストレスになった。二十五歳で知り合ってから二十五年、そこには普通の夫婦には決してないような数多くの出来事があったから、別れのストレスを軽減するような妙策があったとは思えない。だが、いつかその日が来るだろうという覚悟はずっとしていた。

 

今野勉 出会いと別れ

出会いはTBSの番組「街の歌声」だった。私がインタビビュアーに起用されたとき、今野勉は同期のデイレクターに頼まれて、フロアデイレクターとして手伝っていた。その後、彼は二十代の若さでテレビ界のアカデミー賞といわれる「イタリア賞」を日本人として初めて受賞し、鬼才として話題の人となった。私もその後の『七人の刑事』をはじめ今野勉の作品を見て、同じ年でこれほどのオ能があり得るのかと驚かされたものだ。あれから四十年、いまだに今野勉の作品を超えるドラマを見たことがない。どんな話をしても感性がピッタリ合って楽しかった。知的で、しかも屈託がなく、飾らない人柄、威張らないところが好きだった。だが、私の番組でフロアデイレクターをしていた頃の今野勉はひどかった。当時はすべて

が中継の時代だったから、時刻ぴったりに「ハイツ」というキユーが出て、あうんの呼吸で

私がしゃべらなければならない。ところが私は全くの素人。何もかもが初めての経験だったから要領がのみ込めず、必然的にフロアデイレクターのキューの出し方が頼みの綱だったというのに、恐ろしく息が合わない。私の期待を裏切って飛んでくるキューに苛ついているうちに、大事な場面が飛んでしまうこともあって、もうめちゃくちゃだった。私は自分の未熟さを棚に上げて、二人のデイレクターにかみついた。

「今野勉を誰かと代えてください―」

私の見識のなさを最もよく表したエピソードの一つとして貴重だと、私は変な自負さえ持っている。今野勉はそんな私の暴言など気にするふうもなく、その後もトンマなキューを出し続け、私はヘマを繰り返した。

どちらからもプロポーズらしきものをした記憶はないが、「結婚するならこの人」と決めていた。ニューヨーク世界博に行くときも相談することなく決め、勝手に行って勝手に帰ってきた。帰ってきたら結婚するのだろうと、周囲も本人たちもそれとなく思っていたが、ニューョークで起業のネタを拾ってきた私は、驚く周囲を意にも介さず、再びさっさとベルリンヘ旅立ったのだった。ベルリン滞在中に三文判一つで勉さんが婚姻届を出した。送られてきた届のコピーを見て、「結婚したんだ」と神妙に納得して、たった一人だったけど乾杯をした。

二年後の帰国とダイヤル・サービス創業。私にとっては十年前からの予定の行動とはいえ、勉さんにしてみれば次々と襲ってくる嵐に巻き込まれ、心の平安もゆとりも何もない人生を共有させられる羽目になった。

勉さんが大阪万博の電電公社パビリオンのプロデュースを頼まれたと聞いて、私は契約料を前払いさせ、全部ダイヤル・サービスにつぎ込んだ。社員に払う給料が足りなければTBSから前借りをさせ、ボーナスが払えないとなると別荘を売り払ってしまった。この手の悪行は数限りなく、私たち夫婦は楽ではない生活に耐えながら、それでも振り込まれてくる彼の収入を右から左へと惜しげもなく会社に流したのだった。彼は一度も「何に使うの」とか「あのお金、どうした」などと聞いたことはなかった。浮世離れした人ではあった。

おかげでスポンサーが決まるまでの何年かを食いつなぎ、特にオイルショック時の厳しさをどっこい生き延びることができた。勉さんの学友や、私と共通の仕事上の友人たちが、今でもまだ真顔で言う。「あなたのような人と結婚しなかったら、今野勉はもつともっと大成したはずなのに。世界の今野勉になれたはずだ」

それを一番わかっていたのは私だ。好きだったし尊敬していた。でも、なんといっても銀行が一切聞く耳を持たなかった当時、私の唯一のプライベートバンクだったから、私から別れる理由は皆無だったが、だからこそ一つだけ心に決めていた。もし勉さんが別れたいと言

ったら、「なぜ」とか「嫌」はない。「長い間、ごめんなさい」「支えてくれて本当にありがとう」これだけ言おうと、ずっと思ってきた。もしかして心のどこかで、勉さんにとって遅すぎないうちに、その日が来るように仕向けたような気がしないでもない。

 

ある晩、帰宅すると、玄関に四匹の猫たちがちょこんと座っていた。大きな八つの瞳が私を見上げる。何一つ景色は変わっていない。でも、直感で「あ、そうなんだ」と悟った。私の大事な猫たち、その中の一匹、オ色兼備のダイちゃんは勉さんが心から愛していた猫だ。ダイヤル・サービス創業時に拾ったことから命名した、その愛猫さえも残していってくれた。

「ああ、勉さん、ありがとう――」。私はその場で彼らを一匹ずつ抱き締め、「大丈夫だからね」と言い問かせた。それは私に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。出会ってから二十五年目、ペーパーマリッジという変則的な結婚ではあったが、その日から二十年目のことだった。私は五十歳になっていた。勉さんは、自分の身の回りのものだけを持ち、 一通の優しい手紙を残していなくなった。「テレビマンユニオンに電話をくれれば、いつでも僕はいるからね」最後のその言葉が、私の告げたかった言葉の代わりに、大粒の涙をあふれさせた。

人間の体は脆い。ましてや経営者は心身の動揺を表出できないがゆえに、過度に自分を追い込みやすい。人生の一つ一つの岐路で出合うストレスを、どれもため込まずに治めていく

ことなど至難の業といえる。それでもできるだけ努力して適切に処理していくことが、どれだけ自分と周りを救うことになるのか、この試練で私は学ばせてもらった。

 

マスコミに責められて

それは読売新聞のスクープ記事から始まった。

一九九五年四月一日。その朝、社会面のトップ記事に何気なく目を通すと、どこかで見た

ような財団の名前が書かれていた。そのすぐ後を見て目を疑った。今野由梨理事長とある。

 

「え~⁉」中身を読んだが、さっぱり意味がわからない。新聞をわしづかみにして総理府にすっ飛んでいった。総理府は、私が理事長を務めている財団法人2001年日本委員会を管轄している。駆け込むなり、「これは何のことでしょうか」。「こちらこそそれを聞きたくて、あなたを探していました。本当に身に覚えのないことですか」「当然です。想像もつかないことです。多分、マスコミの間違いだと思います。こういう事実は全くありません!」

新聞に書かれた疑惑は、財団の基本財産が元労働大臣・山口敏夫氏の親族の関連する企業に不正流用されていたというものだった。

 

財団の不祥事に巻き込まれる

会社に戻ったら、記者やヵメラマンがわんさか押しかけて、大変な騒ぎになっていた。いろんな人たちからも問い合わせが殺到し、無実を訴えると、スポンサーやクライアント企業からは「マスコミの前から一切姿を消すように。会って何かを話したら必ず敵の思うつぼにはまる」と諭された。

そうしようとは思ったが、その夜、自宅に戻ると、ここでもヵメラの放列。近所の人たちの好奇の目にはさらされるし、日頃からなぜか私のことをよく言わない女性経営者は記事を拡大コピーし、ここぞとばかりFAXで送りまくる。姿を消しても電話に出なくても情報を遮断しようと何していようと、火の手は上がる一方で、新しい事実がどんどん書き立てられ、マスコミの論調は厳しさを増していった。私は方針を変えた。先輩諸氏が案じてアドバイスしてくれたことはありがたいが、私には私のやり方があるはずだ。

早速、問い合わせのあった記者全員をリストアップし、各一時間ずつ割り振り、全員の取材に徹底的に応じることにした。仕事を終えた夕方六時以降、夜中の一時二時まで、連日一週間。そのうち記者の方から逆に、いろいろな事実を教えてくれるようになった。

「今野さんが理事長に就任したのは九三年ですよね。これが仕組まれたのは九二年のことら

しい」「当時の理事長にヒアリングしたけど、 一切知らないと言っているから、きっとあの人の単独犯ですね」

あの人とは財団の理事を務めていた山口敏夫さんだ。私の方も次第に事の真相がおぼろげながら見えてきた。財団や、とばっちりを受けているダイヤル・サービスのために、闘う気力十分だし、なんといっても頼もしかったのは、わが社の秘書と広報担当たちだった。みんな二十代、三十代の女性。特に一番若い広報担当の張り切りようはすごかった。新しく知り得た情報を記者に一生懸命説明し、「わかりましたか。メモしましたか。ちゃんと正しい記事書いてくださいよ―」と仕切っている。

山口敏夫さんとは、森永乳業の一件以来、家族ぐるみの付き合いだったので、「ちゃんと正直に本当のことを話してください」と、ある日、彼を呼び出した。私も必死だった。昔からスポンサー企業には「不祥事、スキャンダルがあれば、間答無用でうちは降りる」と言われてきたから、ダイヤル・サービスの存亡がかかっていたのだ。

山口さんからすべてを聞き出し、「そうだったのですか。よくわかりました。いろいろ大変だったのですね。でも、あなたには真実を話す責任がありますね。この事件が、私と今の財団には全く無縁のことだと証明していただけますね」と詰め寄った。友達としてはつらい立場だった。意を決して、私は紙と筆をぐいと差し出し、書いてと迫った。「今回のことはすべて自分が考えたことであり、現財団および理事長の今野由梨さんには一切関係のないことです」先生は自筆の書面に判まで押してくれた。「山口先生、ありがとうございました。ここで潔く、山口敏夫らしく、事実関係を認めて今の財団を守ってください。そうしたら私は先生に代わって、どこにも負けない素晴らしい財団にして、社会のお役に立っていくことを誓いますから」そう言って別れた。

十月十六日に記者会見を開き、この一筆をマスコミに見せることで 一挙に事件は解決した。突然、降って湧いたこの事件は、都合半年にわたる騒動の末、幕が引かれた。真剣に相手に向かったときの私は確かに怖いほどの迫力があると思う。山口さんも、マスコミからは逃れられても友人である私からは無理だと思ったのだろう。

彼も広い意味ではバブルの犠牲者なのかもしれない。悪い人ではないのだが、お人好しで

妙な義侠心があり、やりすぎてしまうところがある。新自由クラブをつくったときも、かわいそうなくらい一人で資金集めに奔走していた。そういう立場を生きてきた人だから、こういうときにも、悲しいけれどやりすぎてしまうのだ。あのオ能がよく生かされれば、非常に有能な人なのに。

でも、この事件を本当に解決したのは、彼の実姉の山口仁枝さん、私の無二の親友である。

弟たちのバブルの後始末のために、 一人で奔走してお金をつくって返した。ない袖を振り絞

って、それでもなんとか返そうとした。

その後、山口敏夫さんに会ったのは、彼女のお葬式のときだ。五十代の若さで、金策に疲れ果てた末の突然の死であった。亡くなる前、化粧っ気もなく逮捕される親友、仁枝さんの姿をテレビで見て、人一倍誇り高い彼女の心境を思い、その身を案じていた。私にとっては絶句するしかない突然の訃報だった。

私の手元には今も、「必ず返すから」と彼女が持ってきた五枚の手形が残っている。悲しすぎる形見である。もっともっと力になってあげたかったのに、運命はなんと私たちを対立する立場に置いたまま幕を引いた。でも、最後まで二人だけのやり取りは変わることなく親友同士のそれであった。そう思いたい。

 

私はお葬式には呼ばれなかったが、聞きつけて出棺直前に駆け込んだ。居並ぶ親族の人たちの冷たい視線の中で、山口敏夫さんだけが昔のままの笑顔で言ってくれた。「今日は来てくれて本当にありがとう」。

その一言で私はすごく救われた。冷たい彼女の顔をなでて、「よく頑張ったわね。本当にお疲れさま」と、心からねぎらった。

マスコミのさらし者にされたダイヤル・サービスにとっては不幸なアクシデントだったが、物事は悪いことばかりではない。考えてもみなかった副産物が嵐の後にたくさん残った。

その第一は、秘書を筆頭に、社員みんなの危機管理能力の高さがわかったこと。特に一番年若い広報担当は、それまでさほど優秀とは言えなかったのが、いざというとき人はどれほどのパワーを出せるかを、みんなに教えてくれた(彼女がその後、朝日新聞のすてきな記者をつかまえて結婚したのには恐れ入ったが)。もう一つは財団理事や評議員の方々のありがたさ。私が理事長になってから理事、評議員を一新し、大企業の名だたる経営者の方々に就任していただいた。当然、ちょっとした不祥事ももってのほか。しかも、事件発覚後は株主総会のシーズンであった。そこでもし、「社長は今話題の財団の理事に名を連ねておられるが」などと追及されたりしたら、このうえもない迷惑だったはず。後で秘書の方たちから聞かされた。何社かはそれを想定して、経営者の方も万全の準備で総会に臨まれたそうだ。私に文句の一言もなく、かえって「よく頑張ったね」とねぎらってくださった。さすが一流の経営者とはこうなのだと改めて感動したものだ。事に当たってうろたえない、ノウハウやマニュアルでは問題は解決できない、信念を持って事に当たる、真心を込めて相手と対話する、相手と共に解決の糸口を見つけていく――。

経営者として、この一件から学んだことは多い。マスコミから逃げずに体当たりしたことで、途中から彼らは様々な情報を寄せ、応援してくれるようになった。今もそのときの記者さんたちとはいい関係が続いている。

ともかく逃げることなく、真摯に真正面から受け止めて事に当たる。真っ向勝負、どうやらほかに秘訣はなさそうだ。

 

 

ニューヨークでの裁判

ニューヨークオフィスの開設は、私にとってエポックメーキングな出来事の一つだった。空襲で焼け出された九歳のときの誓い、世界博で米国を訪れた二十七歳のときの誓い、それが因縁の糸のように私を動かし、 一九八七年に米国現地法人ダイヤル・サービス・インターナショナル(DSI)をつくった。そのおかげで体験できたことが山のようにある。決してビジネスに直結する話だけではない、光と影が織り成す私だけのニューヨーク物語である。この地で実現した世界の女性経営者たちとの交流は私にとって大きな財産になったが、の大好きなニューヨークで、後に手痛い仕打ちを受けることになろうとは、夢にも思わなかった。

 

米国の裁判制度に敗北を喫す

円高の波に乗ってわれもわれもと米国に進出してきた企業群は、バブル崩壊により次々と

撤退していった。駐在員家族のサポートが主な目的だったDSIに寄せられる相談は、相次ぐ撤退の混乱の中で減ることもなく、こんなときこそと張り切って、その後もDSIはニューヨークで業務を続けていた。そんなところへ降って湧いたのが、 一九九七年の裁判事件だ。訴えたのはDSI副社長を務める現地採用の韓国人K氏。訴えられたのはなんと、ダイヤル・サービス社長である私だった。

K氏はその七、八年前に経理担当として採用した人物で、裁判請求の理由に挙げていたのは人種。国籍。年齢による差別。見当違いも甚だしい訴訟であった。訴状をよく確かめてみると――。まず最初のつまずきは、当時、取引銀行からダイヤル・サービスに専務として迎え入れていた人がニューヨークに出張したとき。夜の会食の席で「Kさん、今年、いくつになられた」と突然、聞いたことだという。日本では年齢や生年月日を聞くのは珍しいことではないし、むしろそこから話の糸口を引き出そうとするが、米国ではそれが差別になる。その専務は、銀行在職時に海外支店を立ち上げた人でもあるし国際感覚には信用を置いていたのだが、それが外れた。確かにKには、老いが仕事に響き始めているかなという感じがあり、その自覚が逆に彼を神経質にさせていたのかもしれない。年齢で差別してはならないが、それが仕事に支障を来すようなら問題だ。

ただ、もっと別のアプローチをすればよかったものを、いきなり年齢を聞いたものだから、Kはすかさずそれをメモした。

もう一つは、その頃、ニューヨークの不動産関連のリサーチの仕事があり、ニューョークオフイスから出てきた報告書に対し、「その近辺は近年、韓国人等が大勢移り住んで、価格が上昇しない」というようなコメントを専務が出した。たとえ現地のリサーチが正しいとしても、受け取る相手が韓国の人と知っていながら、そのようなコメントを送るというのは確かにセンシテイビティーに欠ける。さらに矛先が向けられたのは私。Kは送迎用リムジンの手配先を、いつの間にか自分の知り合いの韓国人の会社に切り替えるようになったのだが、あるとき、私が大切な日本人の女性経営者をニューヨークにお連れした際、そのリムジンの運転手がいたたまれないほどのにおいを車内に充満させて登場した。日頃から人一倍においに敏感な彼女は耐え切れず、翌日から別のリムジンにしてほしいと頼まれたので、私はそのお客様の要望通り、彼女の滞在中はリムジン会社を替えることにした。大事な客を送迎するのが運転手の仕事である以上は、その仕事のときに大切な客を不快にさせるようでは困る。単純にごく普通のこととしてのやり取りが、ことさら意図的に民族差別としてでっち上げられ、この件が裁判の一番の争点にされてしまった。そのほかにも細かいことがごちゃごちゃと挙げられていたけれど、こちらの方も負けるわけにはいかず、現地の日本人従業員たち総出でたくさんの反証材料を用意した。膨大な時間と弁護士費用が出ていき、仕事どころではなくなった。日韓の友好の絆になってほしいという私の一貫した熱い思いを託したはずの人が、まさかこんなことをたくらんでいたのだろうか。絶望で日の前が真っ暗になった。

私は、戦争で傷つけ合った国同士の信頼や友情を取り戻すのに、民間人レベルの交流を大事にし、新しい歴史を刻む仕事をしたいという思いで生きてきた。その思いがこもったニューヨークで、そんな私がこのような裁判を仕掛けられるとは。天に向かって「これはいったいどういうことなのですか」と叫びたい気持ちでいっぱいだった。

裁判は、私の気持ちが許さず、和解を拒否して連邦裁まで行ったが、結局、負けた――。米国の裁判制度に負けたと言っていい。

最初は当然、百パーセント勝てると思った。裁判官は女性、DSI側の弁護士は取引銀行からの紹介でニューヨークでも辣腕の弁護士、その下で直接担当したのは女性弁護士、陪審員の顔ぶれは働く米国人女性たち、中には女性経営者もいた。これなら勝ったも同然と、辣腕弁護士も大鼓判を押すほどだったのに、頼りにしていた陪審員たちが「忙しいので何日も裁判に付き合えない」という理由で、全員降りてしまった。

残ったのは、仕事もなく日当日当てで、当時は日本にあまりいい感情を持っていなかったアジア系移民の人たちだった。その顔ぶれを見て、これではどう闘おうと日本企業に勝ち目はないと思わざるを得なかった。

恐れた通り負けた。しかも陪審員からは、裁判官や弁護士ですら呆れた過重な懲罰的罰金まで言い渡された。その頃は「日本憎し、日本企業を狙い撃ちして金を絞り取ろう」というような風潮が蔓延していた時代だった。

ダイヤル・サービスはこの裁判が契機となって、二〇〇〇年にニューヨークを撤退することになる。日本企業を狙った裁判で巨額の金が転がり込んだという風評は簡単に広まるから、

狙い撃ちされ、第二、第三の裁判を起こされる危険は大いにある。それはリスクが大きすぎる。志半ばでの撤退は無念すぎる思いだった。

しかし今、撤退したからといって、日米やアジアとの架け橋の一翼を担いたいという志が曲がったり消えたりすることはない。このような大きな試練を受けて、私はもっと大きな役割を担うだろう。絶望のあまり何もかも投げ出してしまいたくなる自分に、そう言い聞かせ

て傷心の帰国をした。米国での不当な裁判に負けるという試練を経て、今改めて日本の司法制度改革への危惧を

深めている。しっかりしたビジョンのないままに、必要以上に弁護士を増やすことが、何を

もたらすのか。訴訟国家のアメリカでは、有り余る弁護士がなんとか仕事にありつこうと、何でもかんでも取りあえず裁判に持ち込むことに躍起となっている。まっとうに働くことより、訴訟で他人の金を絞り取るような社会になりつつあることを、心あるアメリカ人たちが憂えている。このままいけば日本も同じ轍を踏む。私はニューヨークでの経験を踏まえて、民間臨調で何度も力説したが、ついに日本も裁判員制度の導入を決めた。裁判員制度には大きな暗黒の落とし穴がたくさんある偏見や個人的憎悪など、真実″や〃正義〃とは程遠い次元で、法に守られた集団リンチの危険が本当にないと言い切れるのだろうか。

帰国後、莫大な裁判費用の支払いに途方に暮れる日々が続いた。どんなに働いても追いつかない―判決の瞬間、机の下でKとその弁護士が握り合った手を強く振って喜んでいたあの姿が、今もまぶたから消えない。

 

第三章 育む

育てることより、育てられ上手だと自分では思っているのだが、世間では「育てる人」というイメージが強いらしい。

私は一人のアントレプレナーとして、自分の会社を生み育ててきたが、その会社がまた日本で初めてのサービスをたくさん生み出した。そしてそれぞれのサービスが子育てを始め、世の中に新しい価値観やライフスタイルを生み育てることに貢献してきた。そして何より、こうしたニュービジネスを育てることで、当時の女性たちに新しい雇用を生み、彼女たちの能力を引き出し育てることになった。というと聞こえはいいが、育てるという仕事は理不尽な世界でもある。ギブ・アンド・テイクならぬギブ・アンド・ギブで、まさに親業に似ている。

言われてみれば、ビジネスを離れたところでも様々なものに手を出し首を突っ込んで、この理不尽な苦労の種を背負い込んでいる。国内だけでなく他の国の女性経営者の相談を受けたり、アジアの若者の親代わりになったり、揚げ句の果ては見知らぬ若者をついに養子にまでしてしまった。日本的慣習や常識の中では、やりすぎとか変わり者ということになるらしい。世間の評価はともかく、なぜそこまでするのかと問われれば多分、自分と違うものへの好奇心と、それを育てているつもりが、気がつくといつも自分の方が育てられていることが多く、その人間関係の力学が面白くうれしいからなのかもしれない。

 

世界との縁づくり絆づくり

米国の女性起業家を招いてニューヨークに現地法人を設立した早々、米国の最もパワフルな女性起業家の団体「C200(The committee of200)」のメンバーとして招かれた。

C200にはベンチャー企業の経営者だけでなく、例えばAT&Tの副社長クラスとか、シリコンバレーのIT企業の経営者とか、様々な規模、業種のエグゼクティブクラスが集まっている。当初二百人のメンバー限定でスタートしたのが、今や五百人を数えるようになり、年二回の大会をはじめ、その活動はますます盛んだ。私が一九八七年に入会したときには、米国以外の国際メンバーはフェラガモの社長ワンダ・フェラガモさんだけ。私はアジア初のメンバーとして迎えられた。C200のメンバーと劇的に親交が深まったのは、 一九九二年の大会で日米の国家関係が議論されたのがきっかけだ。当時、米国では日本の極端な輸出超過でジャパン。バツシングが喧伝され、日本車を叩き壊す事件が各地で相次いでいた。大会席上でも激しいバツシング発言があり、米国側が数百人、対する日本は私一人だから、とても太刀打ちできそうもなかった。だが、ここは聞き流すべきではないと、私は下手な英語に思いを込めて発言した。「皆さんの日本観は正しくないと思う。それは皆さんが、アメリカのメディアを通して日本に関する情報を受け入れ、それが正しいものという前提で討論しているからです。私は日本で生まれた日本人で、世界の中の日本を日々考えながら仕事をしています。日本人はそんなアンフエアで自己中心の国民ではないし、日本企業もまたしかりです」

すると、 一人の女性経営者が壇上に駆け上がってきて、「私もそう思う。今、発言した人で日本人の友人を持っている人はどれだけいるのか。日本と仕事をしている人は何人いるのか。日本に行って仕事をした人は何人いるのか」と畳みかけた。

「ほとんどいない。それで決めつけるのはおかしい。自分で体験して、そこから発言する人

がいないとアンフエアだ。私は日本人の親友を持ち、日本と仕事をしている。日本にも行っている。その私の目から見て、アメリカのマスコミが報道しているような、アンフエアで不可解で嫌な日本人というイメージはこれっぽっちもない」

彼女の援護に私は感激した。

「とにかく一度ぜひ日本に来てほしい。素顔の日本を見て、体験して、日本人と話してみてください。そして、できればいつか日本と仕事をしてほしい」

その提案が功を奏して、翌年、三十人の視察団が日本に派遣されることになった。そのときのうれしさといったらない。どういうふうにしたら、素顔の日本を体験し、新しい日本を理解してくれるのだろうか。

ちょうどその頃、C200の重要メンバーの一人ビバリー・コーヘンさんが、国際大学(新潟県南魚沼市)の教授を務める夫と共に来日して新潟に住んでいた。異文化交流に熱心で、地方の暮らしや文化をよく理解している彼女に相談したところ、ある日、夫妻から新潟への招待状が届いた。アメリカ人である夫妻が、日本人である私に、日本の地方の文化の豊かさを体験させたいのだという。喜び勇んで出かけていくと、まず八海山に登り、夜になると、スニーカーを履いてこいと言われ、連れていかれたのが田んぼの中。あぜ道を歩いて沼のほとりに出たら、これまで目にしたことのないような蛍の大群が舞っていた。それはもう幻想的で、夫妻の蛍の蘊蓄にも驚かされる。それから囲炉裏を囲み、日本酒を酌み交わしながら、地酒の話、山菜料理、ヤマメ、環境問題へと話が進む。ちょうど二年続きの冷害の年で、農家の苦労も教えてもらった。温泉にも入って、「これぞまさしく日本の田舎」というような旅を体験したのだった。

私も講演などで全国いろいろな所に案内してもらうが、ここまで徹底して田舎の良さ、田舎暮らしの何たるかを体験させてくれた人は初めてで、しかもそれがアメリカ人夫妻となれば、なおいつそう感動と共感を得ることができた。

そこで、C200の三十人の視察団にもこのような体験を共有してもらおうと、彼女たちの滞在一週間を、新潟と東京のプログラムに分けることにした。東京ではトヨタやNTTデータ、NTTドコモなど、ダイヤル・サービスのクライアントである先端企業のプレゼンテーションルームを見学し、社長と直接話をし、交流する。東京と地方、同じ日本でも多様性があることを際立たせて、丸ごとの日本を理解してもらおうと思ったのだ。一九九三年十一月に来日した視察団は、新潟と東京の体験に大満足して一週間のツアーを終えた。大勢で入る温泉には尻込みするかと心配もしたが、尻込みどころかお湯かけ合戦で、

アメリカに帰れば強面の女性経営者たちが童心に帰っての大騒ぎ。地元の農家の人たちとの心温まる交流もあり、日本の地方の文化を感じ取ってくれたように思う。

「私たちは今まで日本のほんの一部、氷山の一角のそのまた一つの氷ぐらいしか見聞きしていなくて、それで日本という国を決めつけていた。大いに反省して、これからは自分たちが体験した日本を語ります」と言ってくれ、ビバリーと私は心から喜び安堵した。

翌年、私は彼女たちが主催するワシントンでのC200の大会に招待されて行ったのだが、その席でゴア副大統領や米通商代表部(USTR)の代表で、当時通産大臣だった橋本龍太郎氏と剣道のまねをして有名だったミッキー・カンター氏に、「私たちは由梨に招待されて、素顔の日本を見るツアーに行ってきた。あなたたちも行ったらどう?」と紹介されたのには驚いた。思いを込めてメッセージを送れば、ちゃんと届く。そうやって人と人との関係がつながっていき、政治家や外交ルートだけでなく、新しい民間のネットワークで交流を重ねることにより、国と国との相互理解も深まり、関係も好転させることができるのだと改めて強く思ったのだった。

 

アジア、そして豪州へと交流は広がる

C200メンバーの日本への招待は、その年から私が理事長に就任した財団法人2001年日本委員会の主催(企画・運営はダイヤル・サービスと生活科学研究所)で、第一回女性起業家国際交流事業として行った。

C200との交流が上々の首尾だったからといって、これで一安心というわけにはいかなかった。私が大事にしたいのは米国との関係だけではない。日本が誤解を解く努力をすべきなのは、むしろアジアの国々の方が深刻だという思いがある。アメリカの女性たちがあのように感動して、相互理解を見直そうというきっかけをつくれたのだから、同じように真心を込めて呼びかければ、アジアの女性たちとも新たな一歩を踏み出せるのではないか。そう考え、 一番難解で積み残されたままの問題であるアジアとの関係の再構築に取り組もうと、翌年から少しずつ招待国・地域を広げていった。一九九四年の第二回には中国、韓国、台湾、シンガポールから三十五人、翌年の第三回にはASEAN諸国とネパール、米国から三十人が参加。九七年の第五回には世界大会として欧州、ロシア、オーストラリアからも参加があり、七十人が集まった。九六年には米国へ、九八年には豪州へと逆に出向くなど、これまでに九回の交流事業を行っている。もっともお金に余裕があるわけではないダイヤル・サービスと、もっとお金のない財団がやることだから、台所事情が苦しいのは確か。それでも交流の意義に共感して頑張ってくれるダイヤル・サービスの社員には本当に感謝している。

苦しい台所事情ゆえ、頼りにするのはNTTドコモや東京ガスや東京海上、トヨタ自動車

といったダイヤル・サービスのクライアント企業だ。協賛金を募らたり、ゲストルームを提供してもらったり、ウェルカムパーティーを開いてもらったり、クライアントの関連会社が保有するホテルの部屋を安く提供してもらったりという具合で、いつも大変なご支援を頂いている。

 

1995年の第二回女性起業家国際交流事業にはASEAN諸国、ネパール、米国から総勢 30人が参加。その交流パーティーでは、橋本龍太郎通産大臣(当時)も出席され、これぞほんとのAPECとうれしいエールを送ってくれ、出席者から喝采を浴びた。後列真ん中横向きが私。59歳

 

韓国への思い

私は不思議と韓国に縁がある。

第一章でも書いたが、ダイヤル・サービスを設立する前、まだ西ベルリンで欧州の電話サービスの実情調査をしていた頃、韓国人実業家に頼まれて、日本企業の商品をドイツに紹介する仕事をした。化粧品、真珠、カメラ、ラジオなどの日本のトップブランドを世界の檜舞台に乗せる喜びで、私も燃えた。結果は大失敗。気がついたら、韓国人社長はすべてを持ち去り米国へ逃亡。残された私はパイプ役を務めた日本企業へ謝罪に行かざるを得なくなった。

ニューヨークでの裁判事件でも、私を訴えたのは現地採用の韓国人。教養があって、息子たちもハーバード大学を出て国際企業の経営者として活躍しているような一家で、日本が好きだから日本の企業で働かせてほしいという、その言葉を信じた。経理担当としての資質と人柄から判断して採用し、日本人社員の頭越しに副社長にまで抜擢したのに、年齢差別、民族差別などと全く根も葉もない訴訟を起こされ、恩を仇で返すような落とし穴を掘られた。

この事件は日本での出来事ではないので、大々的なマスコミ報道により会社が存亡の危機に陥るようなことはなかったが、長年の夢が、またまた韓国人によって阻まれ、米国の裁判制度のゆがみの犠牲になって潰されたことで、無念が全身を貫通した。

 

 

若い頃の私は喜怒哀楽が激しく、ひどい仕打ちを受けると怒りや恨みも深かった。喜びは

人の何倍も、受けた恩も人一倍感じる代わりに、恨みは晴らすという思いも何倍も強く、今から考えれば怖いくらいだったと思う。そんな私が、韓国の人からこれほどの仕打ちを受ければ、恨みを三倍にして返したくなるのは当然だろう。ドイツでの事件のときはちらつとそう思った。でも、ベルリンにしろニューヨークにしろ、なぜいつも韓国なのか。もしかしたら、それは個人を超えたもの、得体の知れない歴史の暗い流れの中で、両国のDNAに刷り込まれたものがぶつかり合っているのかもしれない。

そうだとすれば冷静になる必要がある。もし今、この恨みを三倍にして返せば、その人はまた三倍にして返そうと思うはず。三倍で返されれば四倍……。そんな無益な繰り返しをしていたら、何世紀たっても事態は変わらないどころか、エスカレートして間違いなく両者共に破滅に至る。「どうだ、これでもまだ韓国への思いは変わらないか。これからも愛し続けていけるのか。本当にそうか」

いつもどこかで、そう問われているような気がする。

答えは一つ、YESだ。

 

愛と哀しみの赤とんぼ

ふと、私の脳裏に一片の歌がよみがえった。

夕焼け小焼けの、赤とんぼ.

負われて見たのは、いつの日か.

その歌と共に、ベルリンでの出来事を思い出した。

当時の西ベルリンには、世界各国、特に日本や韓国から多くの若者が集まってきていた。医者や看護婦、作曲家や演奏家、オペラ歌手、政治家、ジャーナリストを志す人たちが、まだ第二次世界大戦の爪跡を残す街で、明日だけを見つめながら生きていた。

私にも仲良しの韓国人グループの友人たちがいて、よく連れ立っては見間を広めにあちこち出かけたものだ。ある日、その友人四人に誘われて、ベルリン映画祭で日本映画を見た帰りのことだった。

昼下がり、映画の興奮の余韻を引きずりながら、なんとなく四人別れがたく、大通りを横一線でたらたらと歩いていたときのこと。私が無意識で回ずさんだ歌に、友人の一人が敏感に反応した。「ユリさん、その歌、歌わないでください」回ずさんでいたのは「赤とんぼ」。私は言われた意味がわからなくて、そのまま歌い続けた。「その歌を歌わないでください、と頼んでいるのです!」

強い言葉に驚きつつも、私もその言葉にある命令口調に反発し、険しい視線を送りながら、「なぜ、いけないの」と投げ返した。

彼の瞳には、私には不可解な炎が映っていた。怒り?嫌悪?苛立ち?でも、なぜ?頑なになった私も負けていなかった。「負われて見たのは、いつの日か.」

彼の鼻先で確かめるようにゆっくり音にした。平手打ちが飛んできそうな瞬間、彼の落ち着いた低い声が響いた。

「私が子供だった頃、韓国では母国語さえ禁じられ、自国の歌を歌えない時期が続きました。毎日毎日ラジオから流れてくるのは、聞き慣れない日本語の歌ばかり。あなたたち日本人にとっては美しく優しいメロディーが、海一つ隔てた私たち韓国人の子供の心をどれだけ傷つけたか、あなたにはわかりますか」

静かな、染み入るような、だが、底に炎を感じさせる言葉だった。「歌の好きなあなたがそうやって時々口ずさむ日本の歌を、心のどこかでは僕自身も好きになりつつあるけれど、それでもやっぱり許せない思いがある。遠い昔に受けた心の傷が疼き出すのです。悪いけど、聞きたくない。聞かせてほしくないんだ」返す言葉は全くなかった。私の心を癒してくれる大好きな歌が、人の心に遠い昔の憎悪を呼び戻す。その事実に私は愕然とした。

記憶はさらに飛ぶ。

西ベルリンの一件から数年後、すでに私は会社を立ち上げており、彼も韓国の大手新聞の論説委員を務める傍ら、大学で哲学を教える立場になっていた。ある年、日中韓の国際シンポジウムで彼が代表としてやって来た。

谷川俊太郎氏と私は、彼を八ヶ岳高原音楽堂での音楽祭に招待した。涼やかな初秋の音楽堂をマツムシソウやワレモコウなどの山野草が取り囲み、高い空には真っ赤に色づいた赤トンボが青の色を潰さんばかりに群れていた。その見事さ。私は思わず歌を口ずさみそうになり、慌ててそれをのみ込んだ。「ユリさん、お願いがあります」と彼が言った。

「あの『赤とんぼ』の歌を私に歌ってくれませんか」思わず彼の目を見た。穏やかな笑みを浮かべたその目は澄んだ水面のようで、そこには深い理解と許しがあったように思う。彼もあの日のことを忘れてはいなかったのだ。

もちろん私は心を込めて歌った。誰かの歌う歌が、ほかの誰かの心にも愛とやすらぎを運んでくれますようにと、祈りを込めて。

その二年後の一九九四年、第二回女性起業家交流事業で中国、韓国、台湾などから三十五人の女性経営者を日本に招いた際にも、″赤とんぼ″は飛んだ。初日の夜、ョコハマグランドインターコンチネンタルホテルで和気あいあいの食事を終え、自己紹介を兼ねたミニシンポジウムを始めようというとき、どこかのテーブルで歌声が起こった。みんなが一斉に振り向くと、韓国人グループが「サランヘ」を歌いながら、次々とス

テージに上がっていった。ステージから達者な日本語で「ユリさんもこっちに来て、 一緒に歌ってください」と呼びかける。私も大好きな歌だ。喜んで一緒になって歌った。すると、後を受けて中国、シンガポール、台湾と、各グループが次々に壇上へ上がり、自国の歌を歌い出す。そのうち民族舞踊まで飛び出した。会場が沸きに沸く中、私を含め主催者側の日本人スタッフが安堵の息を漏らしていると、どこかで手拍子が始まった。

「ニツポン、ニツポン」

日本の歌を促すその声に、 一体、何の歌を歌ったらふさわしいのか。とっさのことで意見がまとまらずにいるのを見て、韓国人のグループから声が上がった。「ユリさん、『赤とんぼ』を歌いましょう。 一緒に歌いましよう」

私と同世代の韓国の人からの屈託のない明るい誘い。私は時間という温かな流れに身を洗われた。あの忌まわしい戦争から半世紀、ベルリンでの赤とんぼ事件から四半世紀。時は流れ、当時、日韓両国の子供たちが別な思いで歌い、耳にしていた「赤とんぼ」が今、そのときと同じ私たちの声に乗って、思いを一つに、空を舞っている。一緒に歌ってくれてありがとう― 私はただその思いだけで胸がいっぱいだった。そして今、私には李英蘭、徐辰奎、全映宣といった姉妹以上に心の通い合う大好きな友人たちがいる。

日韓の女性経営者の交流に加え、二〇〇三年からは慶応義塾大学の島田晴雄教授に誘われて、日韓学生交流事業も手掛けている。二〇〇四年にはソウル大学の学生たち四人がわが家にホームステイした。まっすぐで明るくて素晴らしい若者たちだ。帰国した彼らからのメールには、こんな一言があった。

「これから貴女を日本のお母さんと呼んでいいですか」

 

若きベンチャーたちへの応援

私はこれまで、ニュービジネス協議会でのオフイシャルな活動からプライベートなものまで、後に続く若い起業家たちに対して様々な形で私なりの支援、応援を続けてきた。彼らが一つでも多くのモノや技術やサービスを新しく世に送り出してくれれば、それらは利用する側の人々の知恵で、単なるモノやサービスから社会の財にまで発展していく。そうやって生み出される社会の財や新たな雇用に期待して、彼らを応援した。これまで出会った多くの若い起業家たちの中でも特に強く印象に残っているのが、なんといっても西和彦さんと孫正義さんだ。

西さんとは一九七五年頃、まだ彼が十九歳でアスキーを設立する前、早稲田大学理工学部 聾の学生だったときに、電通に呼ばれて対談した。私が三十九歳で、「エンゼル一一〇番」を 第始めた年だったと思う。テーマは「プッシュホンの未来」。彼は天才少年の名を欲しいままにしていた頃だったか

ら、機関銃のような勢いでしゃべった。次々と湧いてくるイメージに言葉が追いつかない感じで、一時間の対談のうち五十五分は彼がしゃべった。私は相づちを打つ役で終わったけれど、この対談はとても楽しかった。たまたまダイヤル・サービスのオフィスが原宿、彼は南青山に事務所があったので、私のくたびれた黄色いベンツで送ってあげようとしたら、「わあ、ベンツだ」と、子供みたいにはしゃいでいた。それがきっかけで、よく会うようになった。彼は何でも話す無邪気な少年で、私の家にも遊びに来たし、仕事上のアドバイス、もっとこんなサービスにしたらいいのではないかというようなアイデアもたくさんくれた。頼りになる息子という感じだった。

その西さんがマイクロソフトの取締役副社長を辞めたときは、すごくショックだった。なんといっても、あのビル・ゲイツのパートナー、マイクロソフトのナンバー2の役を降りるわけだから。ただ、彼はそんなことよりもっと別の大きな志を持っていたから、独立したかったのだろう。そういう西さんをずっと間近で見てこられたのは、私にとって楽しいことだった。

三十一歳にしてアスキーの社長になるというその就任式の前夜、彼は私の家に来て、社長就任挨拶の予行演習をした。私は「うん、すてきよ、いいと思うわ」と惜しみない拍手を送ったのだった。

西さんは実に純真で、われわれとは違う思考回路で発想し選択する。彼は今、新たに教育の道を選択した。近い将来、日本に彼のような若者が出てきてほしいものである。孫さんと知り合ったのは一九八二年頃。つくば博の基本構想づくりのシンポジウムで何度か出会っている。「この髪の毛の一本一本にマイクロチップが付いていたら、どんなにいいだろう」などと語って、私を驚かせたあの日を今も鮮烈に思い出す。

親しくなったのは、その十二年後の一九九四年六月、ダイヤル・サービスで企画した米国マルチメディア最前線視察ツアーでのことだった。

NTTデータの藤田史郎社長(当時)を団長に参加者にはCSKの大川功会(故人)

や日立、東芝はじめ日本の大手メーカーの情報担当役員の人たちが勢ぞろいして、十五人定員のつもりが四十人も集まってしまい、最初予定していた飛行機に全員が乗れなくなるという事態も起きた。人数が溢れると、主催者である私と最年少の孫さんが後続の飛行機で追いかけるというようなことがあり、おかげでその間、孫さんとは二人っきりでじっくりといろんな話ができた。飛行機の中で、熱病に浮かされたように、将来ビジョンを語り尽くそうと 聾する孫さんの姿に圧倒された。彼の考え方や人となり、ベンチャーとしてのたぐいまれなるチャレンジ精神を知り、改めて日本にもすごい若者が誕生していることに目を見張る思いだった。

彼はその直後から、世間をあっと言わせるような米国企業との提携・買収を繰り広げていくが、そのきっかけが視察ツアーにあったということで、「今野さんは僕の幸運の女神」と言ってくれた時期もある。その頃はよく一緒にゴルフに行き、公私共にいろんな時間を共有したものだ。

孫さんは、最初の買収(ジフ・デービス・コミュニケーションズの出版部門)こそ他社に抜かれてしまったが、何が起こってもめげずに初心を貫き、世界に向けて「日本に孫正義あり」をアピールしていく、まさに日本の希望の星だった。日本に新しい光をもたらしたこの二人との出会いが、その後、私がたくさんのベンチャーとかかわる生き方をするようになった導火線であることは間違いない。それほど鮮やかな残光を残して、二人は私の人生を通り過ぎていった。

 

ネパールの青年の親代わりに

就学のチャンスさえない子供たち

十数年前にネパールを旅したことがある。

そのときにガイドをしてくれたのが、ヒンズー教の神様の名前を持つクリシュナだ。二十五歳のガリガリにやせた青年だった。ガイドをして二、三日日、彼はぽろっと口にした。

「自分は日本に行って勉強したいと思っている。そのためにこちらで日本語も勉強しけれども大学の留学生でもないと、身柄を全面的に引き受けてくれるスポンサーが日本にいない限り、日本政府は入国を認めてくれない」私はちょっと警戒して、その話には乗らなかったのだが、「日本で勉強して何をするの」と聞くと、「教育の勉強をして、ネパールの子供たちの教育に一生を捧げたい」と言う。そのうちに気心が知れてくると、「もしネパールのことをもう少し知りたいと思ってくれるなら、自分の村に案内したいんですが」と切り出してきた。ネパールは魅力的な国だったが、あまりにも貧しかった。男たちは昼間からパイプをくゆらせ、うつろな目をしながら酒を飲んでいる。 一生懸命働いているのは女ばかり。幼い子供たちも母親を助けて働いていた。そんなイメージだったから、クリシュナの村はどうなのだろうと興味を持った。途中、大きくて深い谷川に行く手を塞がれるが、橋がない。聞けば、数年前にネパール中

の橋が全部流されるほどの大洪水があって、向こう岸の村に行くには、渓谷に渡したロープに吊るされた籠のようなものに乗るしかないというc「え? まさかこれに?」。落ちれば千尋の谷底。なんとも頼りない貧相な籠に何人かで乗って渡るという。これまでODA関連をはじめ大勢の日本人が視察に来たが、ここまで来ると、「もうわかったわかった、ちゃんと報告しておくから」と言って、みんな引き返していったそうだ。

もちろん私だって怖かったが、せつかくここまで来たのだし、クリシュナの期待に応えたかったから、運を天に任せて乗ってみた。そのとき初めて、私を見るクリシュナの目が変わった。「この川を渡った初めての日本人だ」。

村は美しい所だった。ただ出会う子供たちが皆、自分の体の何倍もある草の束を背負わされて、昼間から農作業の手伝いをしている。草の束の中に完全に隠れてしまっているから、草のお化けが歩いているようにしか見えない。家が貧しいから学齢期になっても誰一人として学校に行けないのだという。学校に案内してもらうと、そこには窓も床も何もない日干しれんがの建物があった。手で作った日干しのれんがを積み重ねただけの小屋。日盛りの中から足を踏み入れると、日潰しを食らって全く何も見えない。こんな真っ暗な中でどうやって勉強するのだろう。すると、クリシュナが不思議そうに「見えないのですか」と聞く。私は今でも裸眼で左右とも1・5だが、電灯のない暗がりの生活に慣れている彼らとは、視力というより眼力が違うことに気づかされた。日本人の日は明るすぎる照明に慣らされて、すでに退化しているのだ。学校には生徒も先生もいない。ただの小屋。「これがネパールの現状。このままだと、あと百年たってもまともな国になれない。だから、時間はかかるけれど、自分がまず日本で勉強して、それからネパールで子供たちを教育する

ことに一生を捧げたい」

クリシュナはそう言った。その顔は真剣そのもので、半信半疑で聞き流していた私の心を振り向かせた。

「本当ね。私を頼って、ただ日本に来たいというだけじゃないのね。本当に勉強してネパールの教育に尽くすのね。それ以外の目的ではないのね」

「本当にそうします。約束します」

「じゃあ、私がスポンサーになってあげましょう」。私は決心した。

彼はこの言葉に驚いたようだ。「これまで随分たくさんの偉い人たちを案内してきたが、そう言ってくれた人は初めてです」

 

走れ、クリシュナ

そこから先が大変だった。日本という国は、向学心に燃えるアジアの若者一人を受け入れるのにも、ものすごくたくさんのバリアがある。

まず、何事があろうと、どんな事件や事故や犯罪が起ころうと、私がスポンサーとしてすべての責任を取ると誓わなければならない。これはなかなか怖いことで、だから誰もが尻込みするのだろうが。

それから学校。彼は学校を出ていないから、日本の大学には入れない。そこでYMCAに入れることにしたのだが、ちゃんと入学手続きを済ませてからでないと、彼は来日できない。もちろんクリシュナにはお金がないから、私が入学金から何からすべて払い込み、帰りの旅費や生活費の面倒を見ることもすべて丸ごと保証した。ここまでしなければならないとは―

これでは日本に来られないわけだ。よその国から、こうした優れた若者たちを迎える気が、

どうやらこの国にはないらしい。

私はクリシュナを甘やかす気はなかったから、「学費と住居費は私が払ってあげるけれど、それ以外、自分でできることは全部自分でやりなさい」と言い渡してあった。なので、友人日本ケンタッキー・フライド・チキンの大河原毅社長(当時)やカウンター割烹を経営している友人にも皿洗いの仕事を頼むなどして、二つ三つのアルバイト先を用意した。また、私の家でずっと暮らすのも甘やかすことになるかと思い、友人の会社の従業員宿舎に空室があるというので、それも使わせてもらうことにした。

そうやって、彼の日本での勉強の日々が始まった。

遠いネパールから、生涯を捧げようというほどの志を持って、千載一遇のチャンスに懸けである、

てやってきた青年だから、本当によく頑張った。私がつべこべ言う隙は全くないほど完璧だった。朝早く家を出て学校へ行き、授業の後は「ケンタッキー・フライド・チキン」で働いて、それが終わるとカウンター割烹へすっ飛んでいき、夜遅くまで皿洗い。夜中は予習・復習を私が見てあげたり、彼が将来やるべきことに関して一緒に話し合ったりした。私も疲れているから時々面倒になってガンと怒鳴ったりして、二人ともくたくただったが、逆にそんな私を気遣ったりいたわったりしてくれた。クリシュナは、ただの一度も泣き言を言ったり、さぼったり、やる気をなくしたりすることはなかった。しかも、彼はその忙しい合間を縫って、私が知らないうちにいろいろな小中学校に連絡を取り、学校を見学させてもらったり、教育関係者との人脈を広げたりしていた。学校が休みの日には、そうやって時間を使っていたのだ。

日本に滞在できるのは二年間だけという、限られた時間の中での挑戦だった。私も「延長はないんだから、与えられた機会を無駄にすることなく、めいっぱい活用しなさい。人生にまたはないのよ」と言ってあった。あの厳しい二年間を彼はよく耐えたと思う。ひがむことなく、日本で勉強できる感謝の気持ちを忘れずに、最大限に頑張った。いよいよ帰る段になって少し未練があったようだが、私は許さなかった。本当はもうちょっと勉強させたい気があったのだけれど、「人生は期限付き、そういうものなの」、そう言って送り出した。ちょうど世の中バブルのときで、こんな日本にいても彼にとってろくなことにならないと思ったのも確か。ネパールの生活に順応できなくなったら、日本で努力した意味がなくなってしまう。私は心を鬼にした。

「ママも、あなたと一緒に、あなたの国の未来のため、子供たちのために頑張った。約束は必ず実現させなさいね。そして人のために働きなさい。自分が受けた恩は必ず何倍にもして

返しなさいね。受けた人にでなくていい、これからクリシュナが出会い、あなたの力を求める人たちに、ママがあなたにしたように惜しみなく分け与えなさい」

 

クリシュナの恩返し

あれから十年の歳月がたった。クリシュナが立ち上げて、理事長や校長を務めている学校が三十五校になっている。ネパールでは子供一人が学校へ行くのに、何もかも合めて年間一万七千円かかるそうだNPOからも応援を得たりして 一万七千円集めては一人の子を学校に行かせ、また一万七千円集めては次の一人を行かせるという形で、これまでに一万人余の子供たちを就学させてきた。最近、私の知らないNPOの人たちから、「ネパールであなたの息子に会った。これまで数多くのネパールの有名人に会ったが、クリシュナほど立派な人はいない」という内容の連絡をよくもらう。その中で、「クリシュナはとても立派な仕事をしている。でも、彼の生活は苦しいようですよ。お母様はそのことをご存じですか」というのがあった。どういうことだか意味がわからなかったところへ、当の本人からメールが来た。「子供が

生まれて三カ月健診に連れていったら、栄養が足りないと言われた」とある。クリシュナの子供は、私にとってはいわば初孫。心配のあまり思わずカッとなって、「大人のあなたが貧乏するのは、自分の選択なんだから構わない。だけど、生まれたばかりの赤ん坊を栄養失調にさせるなんて、それは百パーセント親の責任であり怠慢だ」と、それはひどいことを書き殴り、勢い余って送信してしまった。冷静になってからは悔やむばかり。彼の子供だけが栄養失調なのではなく、彼が育てている五千人、 一万人の子供たちみんなの栄養が足りていない、そういう国でクリシュナは闘っているというのに。いろいろな人たちの話を総合してわかったのだが、クリシュナはバラモンの出で、階級的には一番上。村では田畑を多く持っている家なのだが、父親を早くに亡くし、大家族を養うのは容易ではない。そんな身でありながら、学校を建てる費用を捻出するために田地田畑を売ってしまった。こういう計算のなさも親の私に似たのだろうか。生活を成り立たせるために、彼はカトマンズで安旅館を買い、そこを弟と妹に経営させ、日本から来るNPOの人たちに泊まってもらって、かろうじて収入を得ているのだという。私は教育が過ぎたと反省した。「人のために働け、受けた恩は何倍にもして返し、助けを求めている人たちには惜しみなく分け与えよ」と厳命した怖い日本の母親の言葉が効きすぎたようだ。同じことは、私が育てた若いベンチャー経営者たちにも必ず言っている。「私から受けた恩は百倍にして誰かに返しなさい。利益が上がったら、必ずその一%は世のため人のために、無条件で差し出しなさい」

誰にどのように返すかは任せるけれども、とにかくその約束だけは果たしてほしい。たとえ誰も見ていなくても、そういう尊い約束を果たそうと努力すれば、大きなプラスアルフア

のエネルギーが与えられ、成功に近づけるのだから。それにしても、使命感に燃える純粋なクリシュナにこの言葉は重すぎた。彼は私との約束を果たすために、貧しさに耐えながら滅私奉公で働いているのだ。三十数校もの校長や理事長をやっていれば、それなりに裕福だと思っていた私が間違っていた。ネパールという国では、校長や理事長は名誉職であり無給なのだ。

クリシュナがNPOの協力の下で立ち上げた学校を写真で見た。それは以前、私が現地で見た窓もないただの暗い箱ではない。ブルーの制服を着た子供たちが満面の笑みをたたえ、素晴らしい校舎を背景に群れ集まっている。夢の実現とはまさにこのことだ。強く願えば、夢は必ず叶うのだ。

その建物を造るために、校長であるクリシュナ自身が、日干しれんがを詰められるだけ詰めたもっこを額に引っかけて、折れそうな体で山の上まで運び上げたのだ。歯を食いしばり、鬼のような顔をして山に登っている写真を見ると、そこまでしなくていいんだよと、写真に呼びかけて涙した。彼はまさに粉骨砕身、ネパールの子供たちのために日々奮闘している。

私は早速、森永乳業の大野晃会長に、「ネパールで栄養失調に陥っている赤ちゃんたちのためにミルクを下さい」とお願いした。クリシュナには「自分の子供の養育資金として使うこと。ほかの子供を学校に入れるための資金に回してはいけません」と書き付けて、お金を送った。彼個人に送った初めてのお金だった。

 

わが家で深夜、予習・復習に精を出した息子クリシュナと私 ○クリシュナがNPOの協力の下で立ち上げた35校のうちの 1校。窓もあるしっかりした校舎の前で、ブルーの制服姿の元気な子供たち。クリシュナを支援すると決めたときから、ずっとこの光景が脳裏にあった。私の素晴らしいデジャヴュ

 

私は、一人の見知らぬ若者の夢を信じ、それを叶えてあげたいと思った。どれほど能力のある子なのか、どういう性格なのか全くわからない、ただ信じるだけの世界。だが、たった一人のその子を育てたらその子は五千人 一万人にして返してくれた「一人でそんなに頑張ったって世の中変わらないよ」と人はよく私に言う。けれども、そうじゃないことをクリシュナが証明してくれたのだ。私はネパールに行って百人の子供を育てたわけではない。たった一人の子に一生懸命かかわって面倒を見ただけ。「それでどうなるの」と、そのときも随分みんなに言われた。「知らないよその国の子をよく家に入れるねえ。何が起こるかわからないじゃない。アジアから来ている人たちの犯罪もよく聞くし」でも、そういう危険な面ばかりを見て、すべて回避していたら、いったい何が新しく生まれるのか。人ひとりに一生懸命かかわれなくて、この先、何を変えていけるというのだろう

 

それは例えば環境問題でも同じこと。「資源の無駄遣いはやめよう。地球に負担をかける 育ことはやめよう」と話しても、「言いたいことはわかるけど、自分一人がやってもね」という反応が大半だが 一人が一生懸命に事にかかわれば何かは変わるのだ。その紛れもない真実を体を張って見せてくれたクリシュナに、私は心から拍手を送りたい。

 

息子誕生 愛と闘争の日々

 

私は二〇〇〇年一月、生まれて初めて人の子の親となった。といっても、初めて手にした自分の子供は、九々と太って赤いほっぺをしたマシュマロみたいなかわいい赤ん坊だったわけではない。私の初めての子供は、身長一人○センチ、体重一三〇キロ、二十歳の若者だった。

お母さんになって

一九九七年三月。その日、東京・六本木のベルフアーレではニュービジネス協議会の大会が開かれていた。暗がりの会場で、すごく大きなシルエットが目の前に現れて、名刺を差し出し、突然言った。「お母さんになってください」。

最初は暗くてよくわからなかったから、四十歳ぐらいの男に見えた。なんだ、これは?その立派な体格は、ベンチャー仲間だった西和彦さんにも似た雰囲気があった。瞬間的に答えていた。「いいわよ」。いい大人がわざわざそんなことを言うには何か訳があるはず。「どこの誰なの」「理由は」

「目的は何」などと詮索する気にはならず、何も聞かずにイエスと答えてしまった。

その青年の名は譲司。ブラジルで活躍する画家の父親と画商の母親の間に生まれた。八歳までブラジルのサンパウロで裕福に育ったという。ポルトガル語しか話せない子は、日本ではご多分に漏れず、いじめられっ子。強くなろうと柔道を始め、めきめきと頭角を現し、柔道で有名な先生のいる沖縄の高校へ特待生として入学することになった。そこでも教師ぐるみの暴力に遭い、退学する。

それ以降、少年は引きこもり生活を何力月も続ける。たまたまテレビでコンピューターの話をしていた。興味を持って、毎日その講座番組を見ているうちに、もっといろんなことを知りたくなる。母親からお金をもらって書店に行き、コンピューター関連の本を買い漁り、全部読破した。きっと和紙が水を吸い込むように、新しい知識を体が欲したのだろう。

新しい道を見つけてからは、様々な人たちに積極的に会いに行くようになった。中には彼

の作ったソフトウエアを高値で買う人も出てくる。十八歳になった彼は群馬県の高崎で会社をつくり、起業の道を歩み始めた。それは、十八歳の起業家誕生ということで、NHKの三

十分番組に取り上げられたりもした。やつとうまく回り始めた。そんな矢先に起こったのが、母親の突然の死であった。人生の二人三脚パートナー、頼みの綱を失って、十八歳で譲司は天涯孤独の身になった。最愛の母の死に直面し、再起不能なほどの痛手を負う。そして運命に導かれるように、その日、ベルフアーレに足を運び、私と出会うことになる。

その日、譲司がベルフアーレにいたのは、当時ニュービジネス協議会の会長だった故・大川功CSK会長の招待によるものだった。若いベンチャーを育てる天オだった大川さんは、彼のオ能を見抜いていた。

パーティー会場で「いいわよ」と安易に答えた私は、彼が母親を亡くしたばかりだという話を聞き、後日改めて会うことにした。それ以降、食事に行ったり電話をかけたりして、ぽつぽつと彼の生い立ちを知るようになる。私が出会ったときの印象は、二十歳にしては随分老成した、かわいげのない子だなというものだった。少しでも強く見せようとしていたのだと思う。私はまず、安心してありのままの自分、本来の譲司をさらけ出せるようにと環境を整えた。それに安心する子供の部分と、やっぱり強がって無理する部分、彼にはその二面性があった。そのうち私の家に遊びに来るようになってからは、真夜中まで話し込むこともしょっちゅうで、時間を忘れて話をしたものだ。そんな日々が半年以上も過ぎた頃、彼は私の家で暮らしたいと言った。友人たちの反対は大きかったけれど、判断し決めるのは私なのだ。私は親として譲司に、自分には愛してくれる家族がいるのだという安心感と満足感をあげたいと思った。譲司の魂を、普通の子供の軌道にちゃんと乗せて世に送り出してあげたかった。私が本当の親になれるまでの、いばらの道はそこから始まった。

 

あんたのすべてがウザいんだよ

最初の頃、お母さんという言葉を使っただけで、譲司は「母のことは言うな―」と荒れた。父親とは八歳のときから離れて暮らし、母親も亡くなってしまった。それは譲司には捨てられたという思いになるのだろうか。彼の両親への掛け違った思慕のようなものを解きほぐしたくて、私は親の気持ちを一生懸命代弁した。ちらつと人から耳にした話や目にした写真などから想像すると、譲司は恵まれた環境で愛され大切にされた幼児期を過ごしている。彼のご両親になり代わり、そのことを毎晩切々と語り、思い出させた。

「今、話していることは、あなたのそばにいつもつきっきりで見守っているお母様が、私の口を借りて、譲司に言い残したことを伝えておられると思って聞いてちょうだいね」

譲司はこれまで、つらい思いを吐き出す場所がどこにもなかったから、自分の中に閉じ込めて必死に耐えてきた。そのエネルギーが今、私の前で爆発している。血のつながりのない出会ったばかりの他人が、いくら母になることを引き受けてくれたとはいえ、自分のことなど息子として愛せるはずがないと信じているようでもあった。そんな私を試したかったのだろう。あるとき本当に荒れて、ロシアの女性経営者から贈られた私の大事にしているイコンを割ろうとした。「クリスちゃんでもないくせに、こんなもん飾って、偽善者だ!」

それはマリア様がキリストを抱いている陶板のイコンだ。譲司の両親はクリスちゃんで、彼も幼児洗礼は受けている。私は叫んだ。「待ちなさい―・あなたが今、壊そうとしているそれは、あなたのお母様、抱かれているのは譲司、あなたなのよ」その途端、彼は凍りつく。私は続けた。「私はクリスちゃんではないけれど、キリストを大事に抱いているマリア様の気持ちは、あなたのお母様の気持ちだし、お母様から託された今の私の気持ちでもあるのよ。それを壊せるものなら壊してごらん」三階の自室に鍵をかけて引きこもってしまったときは、心底、心配した。何日も顔を見なければ声も聞かない。内線電話をかけようが、外から電話をしようが、 一切応答なし。ドアをどんどん叩いて声がかれるまで呼んでも、コトリとも音がしない。ものを食べている気配もない。死んでしまったのではないかと本気で心配した。どうしようもなくなって、元プライスウオーターハウスクーパースの斎藤嘉信さんを真夜中に呼び出した。斎藤さんはすぐさま駆けつけてくれて、何度もドアの前で呼びかけてくださり、譲司は何日かぶりでようやく顔を出した。ああ、生きていたんだなと安心して腰が抜けた。だが、この引きこもりはその後、何度も繰り返された。そのたびに斎藤さんには何回もSOSの緊急呼び出しをかけることになる。譲司は全人生を懸けて私に反抗し、少しでも嘘がないかどうかを試していたのだ。まるで、これまでの鬱憤のすべてをぶつける相手として、私を親に選んだようなものだった。

「あんたのそういうところがウザいんだよ」

そんな罵声を残して何日も家に戻らないこともあった

そんな耐え難い試練の日々を支えてくれたのは、親友の湯川れい子さん親子だった。親も子もほぼ同じ年同士ということもあった。 一緒に食事をしながら、湯川さん親子は私がいてもお構いなしに、ポンポンと言い合いを始める。その言葉を私は心のノートにしっかりとメモした。片や一生懸命に言葉を選んで叱る新米ママとのけんかは、本物の親子のやり取りを知る譲司には違和感が大きかったことだろう。「やめてよ、もっと普通に怒んなよ」と言いたかったに違いない。

そうか、本物の親子は、こんな乱暴なやり取りを安心して楽しんでいるのだ。

正式に養子にまでしようと決心したのは、本気で純粋にこの子の力になってやりたいと思ったからだ。中途半端な気持ちではないことを示したかった。そもそも私は普通の日本人が考えるような論理で、物事は考えない。この子を迎えて自分の損得がどうなるとか、そういう計算をしない。精いっぱいやれば結果がどうあれOK。私なら、この子のために何でも引き受けられるという自信があるから、つべこべ言わないし、後悔もしない。

譲司を籍に入れる前には、ブラジルから一時帰国された父親に会い、きちんと了承を取ることができた。それは何よりうれしかった。父親は地元では有名人で、私は知り合いである高崎市長に、父親が何年かに一回は帰国することを聞き及び、帰国の際には連絡をくれるよう頼んであったのだ。父親と譲司、そして私は、譲司の友人のお膳立てにより高崎の駅で会った。改札口を出て、父親と目が合った瞬間、私はその人が素晴らしい人であること、父親として譲司を愛していることを一瞬で理解した。この人もつらい思いをして、譲司を手放していたのだ。

その日は一日中、譲司の友人も交えて静かで和やかな時を過ごした。その夜も更けて、父親が帰るとき、走り出した車を譲司は追いかけた。父親も車を止めて運転席の窓を開ける。二人は頬を擦り合わせるようにして何かを話していた。そこには誰も近づくことのできないオーラがあった。しばらくして私の元に戻ってきた譲司に、「何を話していたの」と聞いてみた。

譲司は「本当にいいの?・お父さんは僕があの人の息子になっても本当にいいの?」と、何回も聞いてみたそうだ。父親は言った。「おまえが地球上のどこにいようと、誰の苗字を名乗ろうと、この世の中で私の息子は譲司、おまえただ一人だけだ」

 

本当に成長したのは――

突然の出会いから二年と十力月、私たちは正式な親子となった。お正月の晴れた日の朝、港区役所で入籍した。すぐ前にある芝の増上寺の境内は、初もうでの家族連れで賑わっていた。譲司はよほどうれしかったのか、境内の屋台の焼き鳥やおでんを片っ端から食べてはしゃぎ回った。それを見て、私もしみじみとうれしかった。

 

譲司は最近、こんなことを言ってくれるようになった。

「もうママは昔のように心配することはないんだよ。ぼくはママのおかげで変わったし、成長したんだから。もう後戻りはしないから」でも本当は、成長したのは私――。

譲司という学習素材を与えられて、私が育ったのだ。彼は、私が成長するために私の人生に現れてくれた神だ。こんなに人を許し、無条件に受け入れることができる自分になれるとは思ってもみなかった。そんな能力も度量も私にはないと思っていた。

最初に譲司を見て、強がりが鼻についてかわいげのない子だと思ったのだが、それは二十代の頃の私に似ていなくもなかった。失意のときには妙にツツパって、自分は大丈夫というところを人に見せたがる。人間は弱いときほど、そうしたがる。譲司が現れて、次々に私に

突き付けたことは、私がいつかどこかでやってきたことではなかったか。少なくとも、がむしやらに駆け抜けてきた前半の人生を心を正して振り返る、そのきっかけを譲司がつくってくれたことは確かだった。私の人生にこの子が唐突に出現した意味の深さに驚いていた。過去に私が決して許すことのできないと思ったことや、私にそういう思いをさせた人たち。

振り返って遠因を探ると、全部私が震源地に思えるようになった。私と無関係に起こったことなど何一つない。必ずいつかどこかで、たとえ気づかずにいたにしろ、まさに「引き金を引いた私」がいたはずだ。だから、どんなことでも許せる、忘れられる。少しずつそう思えるようになってきた。もちろん今、私の周りにある素晴らしい縁に関しても同じ原理が働いている。自分ではすっかり忘れていることを、「あのとき、あなたが言ってくれたこと、してくれたこと、あれがなかったら今の自分はなかった」と言われて驚くこともまた少なくない。人は、人生の途上で出会った数多くの人々を、ちょっとしたことで幸せにしたり不幸にしたりしながら生きているのだ。そうやって一つ一つ、遠い過去に消え残る線香花火のような怒りや恨みや哀しみを切り離し、幸せの記憶には赤い灯をともしていくと、薄紙が一枚一枚剥がれていくように、自分が透明になっていく。相手を許したり救ったりするのではなく、相手へのわだかまりをリリー

スすると、自分の心が救われるのだ。そうでなければ、私はきっとどこかで自分の体か心を破壊していたに違いない。六ラウンドのマラソンゴルフをやり遂げたとき、あのときの「気づき」がなかったら、おそらくそうなっていただろう。マラソンゴルフのときに夜明けの大地で出会った、あの無数の蜘蛛の子たちが教えてくれた生命の感動とそれへの感謝を、譲司

がもう一度、さらに深く再確認させてくれた。

 

地方発ビジネスを育てる

二十年ぐらい前から、いくつかの県のアドバイザーのような役目をやらせていた

長崎県の「長崎奉行」、栃木県の「マロニエ大使」、鹿児島県の「さつま大使」、富山県の「山倶楽部」、岐阜県の「織部連」、三重県の「観光大使」、「北海道開発審議会」などまたこれといった特別の名称はないけれど、知事さんや市長さんから声がかかると、テーマに関わらず飛んでいく関係もある。

生活者の視点や声を大事にして川上に発信していくことをモツトーにする私としては、方の町おこしや身の丈に合った新しい産業創出(仕事づくり)は、やりがいのある仕事だ。地元の視点で地域を活性化させていけば、引いてはそれが国の再生につながる何もころから有を生み出すのはチヤレンジングなことだ。こんなエキサイテイングで楽しいはない。そういう手伝いのため、結構、全国を駆け巡った。

 

 

何もないなら自分たちでつくろうよ

長崎県の場合は、高田勇知(当時)から「長崎奉行」の称号をもらって、五島列島とか松浦半島など、離島や僻地を実際に回るのを長崎国際テレビが三十分番組にした。松浦半島の突端へ行ったときは、地元の人が「ここには何もない」と力説するほど、いわゆる町おこしのネタは本当に何もなかった。「交通の便はない、観光客も来ない、これといった物産もない、これほど何もない所で、どうやって町おこしをすればいいのでしょうか」「何もないからこそ、できることをやりましようよ」

何もない。それは裏返せば、お金では買えない価値があるということ。交通の便がないから、観光客が押し寄せなかったから、この手付かずの自然と静けさが残されている。

「廃業に追いやられた病院の施設を利用して、若いお洒落な女性たちがやって来るような、心と体の癒しの里をつくりましょう。ヨガや瞑想に施設や道具は不要です。都会の生活で心身に付いてしまった汚れや垢を、アロマテラピーやミュージックテラピーなどで心地よく落としてもらうのです」                                第それでつくったのが癒しの里だ。ちょうど近隣の佐世保には、友人が開いている流体力学の研究所もある。流体力学を応用した一種のタラソテラピーなどを組み合わせれば、リハビり治療にも役立つ。流水の勢いや気泡などが人体に与える効果を科学的に測定し、治療効果も検証してみた。そして程なく、全国からヒーリングを求めて来る人たちの癒しの里が誕生した。

そうこうするうちに 一九九〇年の雲仙普賢岳の突然の噴火翌年には大火砕流による災害が発生し、島原は大きな痛手を被った。その頃、私は国土庁の「水を語る女性の会」の委員を務め、また綿貫民輔建設大臣や総合研究開発機構(NIRA)の下河辺淳理事長を囲んでの「国土を考える」会に参加していたので、長崎国際テレビから「今度は島原の現状を見て、応援をしてほしい」と呼ばれ、災害直後の痛ましい島原に足を運んだ。まだ大地の下から煙が立ち上っているような状況の島原で、地獄のような景色を見ながら、私は何をしてあげられるのかと考えた。その後、長崎県主催の首長会議で講演をした際に、

島原での体験を話し、島原復興への熱いエールを送ったところ、その場に島原市長がいたのが契機で、以来、市長を中心にお互い何度も行き来して、島原の町おこしについて提案を続けている。

島原は町中から水が湧き出している湧水の里、そして薬草の里。三百年も前の薬草園というのが残っているくらい、至る所で薬草が群生している。さらに、噴火後、地下から表出した石を持ち帰り、研究所でいろいろと調べてもらったら、なかなか素晴らしいエネルギーを

持っていることもわかった。それプラス温泉。私は島原でのシンポジウムで、地元の人たちに「あなた方は自分たちがどれだけ恵まれた資源に囲まれているか、気づいていますか」と呼びかけた。

そして、さらに焚き付けた。「もう一つ敢えて言うならば、この間、船を出してもらって海からの島原を見ました。海からすぐの所に普賢岳、眉山という美しい山がそびえている。災害で大きな被害を受けたとは

いえ、こんなに大迫力の風光明媚な場所を有している。つまり湧水、薬草、薬石、温泉、景観という五つの宝に恵まれていて、どれ一つ取ってもよその地域から見れば垂涎の的。これを生かさないとしたら、ご先祖から引き継がれてこの地に暮らしてこられた皆さんとしては、

寂しいことではありませんか」島原へ行くたびに焚き付けて、具体的にもどうすべきか、その方法論まで話し合っているのだが、地方はいまひとつのんびりしており、なかなか立ち上がってこない。

だから一計を案じた。ついに慶応の島田教授を担ぎ出し、現地に引っ張っていって、講演で同じ話を繰り返し、島田先生にも聞いてもらった。

「先生が座長を務める内閣府・生活産業創出研究会のプロジェクトで、観光やその他のテーマのモデル地区に、島原を入れてください。私が十数年かけてやってきた仕事ですから、ぜひとも応援してください」

 

島原の持つこうした数々の未開発資源は、私以上に島田先生の心を動かした。

実は、島田先生を現地に引っ張り出してお願いしたのは島原だけではない。もう二十年近く実家感覚の付き合いを続けている北海道の伊達市についても、どこよりも早く働きかけてきた。先生を中心にNTTデータなどにご協力いただいたおかげもあって、伊達市は北海道の中でも異例の躍進を見せている。人口流入も増え、二〇〇三年は地価の上昇率が全国一になった。

今ではこの二市とも研究会のプロジェクトのモデル地区になっている。

伊達の人たちは、私がストレス地獄から脱出するきっかけをつくってくれた恩人だ。地方との絆には不思議な縁のようなものを感じる。これだけあちこちから呼ばれて全国くまなく歩いていると深い縁をつくってしまう所と 一回限りの所時々思い出したようにつながる所など、いろいろだ。それは人間関係とも似て、なぜか思ってもみなかった地方と何十年も故郷以上のつながりを持ったりする。それは一言で言えば縁なのだろう。伊達もその一つ。初めは何回か講演に呼ばれる程度だったが、そのうち山菜の季節になったから食べに来ませんか」「スキーシーズンになったから一緒にスキーをしませんか」「ゴルフをしに来ませんか」などと言っては四季折々に誘ってくれた。だから、伊達市で記念コンサートを開きたいと言われれば友人の小椋佳さんにお願いし、二〇〇〇年の有珠山噴火のときもしっかりと国の支援をお願いした。

伊達にしても島原にしても、私は親戚のお姉さんのような存在なのだろう。実家の弟たちが頑張ってくれるようにと、いつもはわがままでも何かのときにはめっぽう頼りになるお姉さんだと思う。

私は体中にベンチャーの血が流れているから、「何もない、だからできない」という声を聞くたびに戸惑いを感じる。すべての材料がそろっていて、「さあ、いつでもどうぞ」と言われる状況などあり得ないし、たとえあったとしても、そんな中からは逆に優れたアイデアは何も生まれない。何もないからこそ、なんとしても自分たちの手で新しい何かを生み出さなければと思い、その切実なやる気こそが″何か″を生み出す原動力になる。燃える意志のないところに予算だけ用意されても何もできはしないのだ。

ないのはモノではない。 一番足りないのは、何もなければ自分でつくるという意識だ。教育改革だ金融改革だ医療改革だと、今世紀は改革の世紀として始まったが、そのためにまず一番必要なのは、国民一人ひとりの意識改革、自己改革だろう。変わらなくてもなんとか生きていける中途半端な今の日本に、改革のエネルギーを呼び覚ますのは無理なのだろうか。

だが、土地バブル、ITバブルという二つのバブルを経て、日本経済も落ちるところまで落ちた。だからこそ、今ようやく本当の意味での改革の兆しが見え始めてきたといえるのかもしれない。

ガールズ・ビー・アンピシャス

 

様々なものを育てることで自分が育てられたわが半生だったが、中でも一番力を入れたのは、女性たちの社会進出と能力開発だった。やる気が見えすぎるという理由で活躍の場を与えられなかった、かっての苦い経験が私を駆り立てたのに違いない。

当時、津田塾大学の尊敬する先輩たちが、仮に大企業に入れたとしても、最後まで彼女らのオ能や人間性にふさわしい場を与えられずに終わってゆくさまを見続けた。大組織の中で、後輩の男たちの書く間違いだらけの英文レターを書き直してタイプする、そんなことに仕事人生のすべてをかけた先輩たちの悲運をわが事として憤った。

幸い、どこも私を雇ってくれなかったおかげで、考えてもみなかった起業家への道に踏み入ることになった。女性差別という社会の波が完璧だったからこそ、それに押されてニュー

ビジネス、ベンチャー、起業という孤島に打ち上げられた。見渡す限り何もない世界だった。

でも、私には夢があった。女性たちに能力に見合ったやりがいのある仕事をつくり出したい。多彩な経験、多様な知恵と情熱を持つ女性たちが主体的に考え、仕事をつくり出せるような、男女の差別なく活躍できる場″″を提供したい。そのメッセージは当時のマスコミやロコミによって広がり、ダイヤル・サービスには素晴らしい女性たちが集まってくれた。全く新しい雇用の創出に、まずは一つの目的達成と喜んだのもつかの間、まもなく私は次の大きな壁にぶつかった。せっかく集まった才能が、結婚、出産、育児、両親介護の理由で次々と辞めていったのだ。

 

手探り手づくりの働き方開発

これではせっかく長い時間をかけて研修教育をしたかいがないし、会社としてはたまったものではないというのが本音だった。音を上げた私は、立派な企業の人事規定を借りてきて、「辞めずに働き続けられる会社づくり」をテーマに工夫したつもりだったが、うまくいかなかった。当時は、国も企業も女性が働き続けることへの理解などなく、また、今のような育児や介護周辺の多彩な支援サービスやビジネスもなく、家庭と仕事の両立は本当に難しかった。

 

子供もいない、家庭といえるほどのまともな家庭生活も営んでいない私に、彼女たちの本当の苦労やつらさはわからないのかもしれない。思い切ってみんなに「どんな会社なら、どんな働き方なら辞めずに済むのか、提案してほしい」と頼んだ。

会社の就業規定を働く人たち自身が考えて作る、これだと思った。ただ、 一つだけ条件を出した。どんな風変わりな案でも構わないが、それによってこれ以上会社の負担やコストが増えてしまっては、今度は会社を続けられない、そこを配慮してほしい。つまり、「お互いのサステナビリティ(持続可能性)を大切に」を原則にしよう、それが条件だった。提案はまさにびっくり箱だった。箱の中にはみんなの欲しいものがすべて、だが実に理路整然と詰まっていた。自分に合う働き方をその時々の状況に応じて選べ、状況が変わればその都度、選び変えることができるというものだった。育児相談も熟年相談もすべてサービス時間帯が違っていたから、都合の良い時間帯の仕事に就くことができるし、自分自身の人生と仕事のテーマを連動させたければ、子育て期には育児相談のカウンセラーを務めるなどということもできる。フルタイムがきつくなれば、同僚または外部で同等の力量のある人と組み、二人で一つの仕事に責任を持つこともできるし、フルタイムヘの復帰はいつでも可能だ。

産体は一年だが、場合によって短くも長くもでき、その間に実体験を通して育児や介護を

学ぶことを条件に、いつでも元の場所に復帰できる。在宅でレポートを書いたリアンケート調査や調べ物をしたりすることも、また予約で相談を受けたりすることもできた。

それらのどれ一つ取っても、この仕事を愛し、この仕事を続けたいというみんなの気持ちが温れていた。なるほどと脱帽した。私がどんなに家庭と仕事の両立を考えて工夫を凝らそうと、しょせんバーチャルな知恵でしかない。だが、その両立の中を日々真剣勝負で生きている彼女らの知恵は、説得力においても実行力においても私の比ではなかった。

三十数年前に、このような発想を採用し実行していた会社はどこにもなかった。そうまで

して女性の労働力を必要としていなかった時代だから、当然といえば当然のことだ。そのような考え方も実体もなかったから、私たちの働″き方″には特に名称もなかったが、今流

で言えばタイムシェアリング、ジョブシェアリング、在宅勤務、テレワーク、フレツクスタイムということになる。働く人を中心にした自由で優しい知恵の玉手箱だ。

うれしかったのは、会社への配慮も十分すぎるほどなされていた点だ。この就業規定の実

施以来、退職者はパッタリと出なくなった。あれから三十数年を経て、世の中でもようやくこうした多彩なワークスタイルを導入しようとする動きが活発になってきた。

 

心の時代の秘密兵器シークレットウェポン

スタッフが考えた就業規定により、会社は、熟練の知恵と経験の宝庫のような人財を失うリスクを回避できたし、スタッフの人たちも、それぞれのライフステージごとに自分の生活を自ら設計しながら、安心して無理なく働き、成長していくことができるようになった。二十世紀の大半、企業にとって女性とは、できるだけ早く採用して二十五歳までには辞めさせたい、最低賃金帯で常に新陳代謝させていきたい労働力でしかなかった。

当時は少しでも多く、少しでも早く、少しでも安いモノを生産することを競った「物・金」の時代であり、腕力がものをいう時代だったから、国民の半分である男性パワーだけでやっていけたのだろう。そんな二十世紀の日本を、世界は秘密兵器を隠し持つ国と呼んだ。「隠された女性パワーを、日本はいつからどのように使うのだろう」というのが関心事だったのだ。イラクにあるとされた大量破壊兵器はついになかったと断定されたが、日本の秘密兵器は、心の時代といわれる二十一世紀に、生きがいのある社会を目指して、人づくり、仕組みづくり、世直しに心地よい起爆力を発揮することだろう。

 

グランドティトン登頂

子供の頃からスポーツは大の苦手だった。走る、跳ぶ、投げる、打つ、何をやっても呆れるほど鈍重だった。鉄棒から滑り台から、橋から丼戸から、転げ落ちては脳震盪。母が病院に担ぎ込むのに忙しかったという。その時々の傷跡が今も頭に残っている。

そんな私が、今はゴルフ、スキー、スキューバダイビング、登山と、空から海の底まで目まぐるしく駆け回っている。人はそんな私をスポーツウーマンなどと言う。

本当のことを言えば、私は今でもスポーツは好きではない。スキーや特にスキューバダイビングのときは行きたくなくて、二、三日前から鬱になる。なんとか行かずに済ませられないものかとぐずついて、いつも同行の友をうんざりさせている。まるで屠殺場に向かう牛のようにうなだれて連行されるのだが、いったん始まってしまうと一転、豹変する。みんながやめようと言っても止まらないのだ。楽しいからではなく、やめるのが面倒なのだ。ゴルフ一日八・五ラウンドのギネス記録は別にしても、朝九時から夜の九時までスキーで滑り通しだったことがある。つまリエンジンのかかりが悪いうえに、いったんかかってしまうと今度はブレーキが利かなくなる。要するにコントロール不能の欠陥商品ということらしい。これでたくさんの遊び仲間を失いそうになったし、

「ゴルフは一ラウンドでやめることスキーは夕刻までに終わることを誓います」といった誓約書を何度も取られている。

マラソンゴルフのときもそうだったが、私は何かに挑戦しようと決意するときに、あまり深く考えない。まして準備とか練習などのために時間をかけることは一切しない。せつかく何かのきっかけで降ってきたちゃんスだから、素直に受け止め、ではやってみようかと、その気になる 一九九九年夏米国ワイオミング州のグランドティトン登攀もそうだった。

 

ウインクする美人

その三年前の七月のこと。

有名な都市環境プロデューサーの浜野安宏さんは、生まれながらのナチュラリストで、私は友人である彼の生き方に共感、そして心酔していた。その浜野さんから、米国ワイオミング州とモンタナ州に建てた二つのログハウスに招かれた。ワイオミングからモンタナヘとキャンプをしながら移動し、イエローストーンリバーやスネークリバーではフライフィッシングも教わった。その道中で出合った山が実に美しく、見上げた瞬間、その山が私にバチツとウインクした。ウインクに見えたのは岩山と雪渓による光と影の造形だったのだが、その瞬間、私は山に呼ばれているような気がした。いつかあの山に登ることになるのだろうと直感した。それを浜野さんに言うと、「あなたならきっと登れますよ」。それがどんなに険しい山なのかも知らずに、そのやり取りを楽しんだ。グランドティトン登頂へのスイッチがカチッと入った瞬間だった。グランドティトン世辞のつもりで言ったらしいのだが、その後、グランドティトンは二人

が会うたびに挨拶代わりとなる。三年後、彼は言った。「そろそろ今年、登りませんか」「ヽえヽえ」

いつものように軽いノリで答えていた。聞けばグランドティトンは四千メートル級のロッククライミングでは有名な山で、クライマーの憧れだという。当然、周りは大騒ぎして止めようとしたが、あまり深刻に考えたら次の一歩が出なくなる。常に気楽にそのムードの中に自分を置き、わが心の命ずるままに行動する。それが私の特技であり流儀だから、いつものように反対は押し切るしかなかった。

ところで、私はそれまでに千メートル級の山にさえ登った経験がない。いくらなんでもそれは無謀ということで、取りあえず富士山くらいは登ってみることになった。

いつものように仕事を終えてから新幹線に飛び乗った。経済学者、竹内宏先生のご厚意で、静岡県庁の滝田博之さんが同行してくださることになった。世界の人千メートル級をいくつも制覇した一級のアルピニストだという。いくら頼まれたとはいえ、降って湧いたような迷惑だったに違いない。

夜になって登り始め、そのまま夜中にかけて雨の中、登頂を目指したが、これが大変な地獄だった。何の準備も何のトレーニングもせず、仕事で疲れたまま駆けつけたのだから当たり前である。

滝田さんのコーチぶりは感動的で、私はたくさんのことを学ばせてもらった。登り始めて十分もしないうちに早くもバテてしまった私に、頑張れとか立ち上がれとか、そんなことは一言も言わない。ただ黙って待っていてくれる。しゃがみ込んでいては申し訳ないという思いから、なんとか立ち上がってヨロヨロと歩き出すと、「そう、それでいいんです。その一歩が頂上に連れていってくれますよ」。

どう考えても、歩いているよりうずくまっている時間の方が長かった登山中、彼はずっと耐えながら見守っていてくれた。たった一瞬たりとも嫌な顔一つ見せず、ガマガエルのような私のペースを許してくれた。とにかくすごい人物だと思った。

 

たったその一回の登山経験で、しかも自信がついたとは言えない状態のまま、四千メートル級の岩山にチャレンジしようという私は、周りにとってはいい迷惑だったろうが、一番困ったのは声をかけた浜野さんだったのではなかったか。

私がワイオミング州の浜野邸にたどり着いても、連れていかれるのは釣りばかり。山登りの話さえ出てこない。そのうち、超大型低気圧が来るという予報が出て、向こう一週間この辺りはサンダーストームだという。私は登頂を終えた後、ニューヨークの出張予定をびっしり入れていたから、登るとしたらあと数日しかない。浜野さんから「本当に登るんですか」と言われたときはショックだったが、とにかく強引に登山日だけは決めてもらった。

ところが、その後もトラブルが続き、登山予定前々日、浜野さんが崖から下りるときに手の指を強打して骨を痛める。しかも信じられないことに、予定していた優秀なガイドはカナダに行って戻ってこれない。日本を出てくるときに、橋本龍太郎さんと野田聖子さんのお二人から壮行会を開いてもらったうえに、中国の高山病の薬までプレゼントされたというのに、これでグランドティトンに登れなかったらどうしよう。

それでもいよいよ明朝登るという前夜にみんなで登山準備をしていると、「たらいの水をひっくり返す」とはまさしくこのことで、まるで家が滝つぼの中にあるような豪雨となり、誰ももう言葉もない。とにかく準備だけは済ませて、絶望の中で眠りについた。

ふと何かの気配で目が覚めた。不思議に思って窓のカーテンを開けると、なんと、先ほどまでの豪雨が嘘のようにやんでいる。そして、空には息が止まりそうなほどに皓々と美しく輝く満月が、庭の木々を宝石のように輝かせているではないか。急いで居間を突っ切って、反対側の大窓のカーテンを開くと、そこにはまばゆいばかりの月の光に照らされたグランドティトンがドーンとそびえていた。

しばらく、ただあんぐりと口を開けて見入っていたが、つと思いついて部屋に戻り、スーツケースの底に入れてきた一枚の色紙を取り出し、それをグランドティトンの頂に向けて立てかけた。それは、大徳寺昭輝氏がわざわざお守りにと描いてくださったかわいい天照大御神様のお姿だった。先祖代々、ずっと伊勢神官のほとりで暮らし、子供の頃から天照様は私の守護神だった。

「さあ、これで大文夫、絶対登れる」。私は確信した。信じていないと挑戦はできない。

 

極限に挑む理由

翌日、燦々と降り注ぐ朝日の中、私は浜野さん父子と三人で出かけた。アルペンガイドオフィスに行くと、残念ながらグランドティトンはその年、残雪が多く登山ルートが閉鎖され  “ていることがわかり、日標をすぐ隣のミドルティトンに変更した。私にとっては初のロッククライミング。前日にロープの結び方を教わったが、身に付くはずもない。ビツケルもやってはみたが、いざそのときになったら、使えるどころか滑りながら顔や体を傷つけてしまいそうだった。

どこまでも続く岩また岩をようやく越えたと思うと、今度は雪と氷の世界だ。いったいこれをどれだけ越えればいいのだろう。岩から岩へ、しかも飛び乗った岩がグラリと動き出す一瞬前に次の岩に飛び移る。誰も一緒になんて飛べない。何もかも、雪も岩もみんな自分独りの挑戦だ。 一瞬の判断で的確に安全を確保し、前進するのだ。自己責任などという甘い世

界ではない。誰の責任であろうとなかろうと、自分の命が懸かっているのだ。こんなすさまじいことをやっている私を、友人たちは想像もできないに違いない。時々、友の顔が浮かぶ。

ようやくのことでベースキャンプにたどり着く。テントを張って一泊した次の二日目。八合目辺りでガイドが、六十三歳という私の年齢を知り、猛然と引き戻そうとした。確かに、頂上が間近に見えてきてからは、次のたった一歩を踏み出すのさえ体をねじり絞るように大変で、私はずっと声を出し続けた。

「You can do it,I can do it」

ただそれだけを無心に繰り返していた。富士山で教わった「そう、その一歩の積み重ねが頂上に連れていってくれるのだ」、頭の中ではその言葉がこだましていた。もっと大変だったのは浜野さんの長男の晃太郎君だ。グランドティトンにも登ったことのある二十代の彼が、私にもついてこれない、それほど厳しかったのだ。執拗なガイドの制止に私はついに叫んだ。

「どうしても下りるというなら、あなたは帰っていい。ここからはたとえ一人でも私は登る」それは許されるはずがなかったが、ここはどうしても気迫で勝たなければならなかった。なんといっても下りたいベテランが三人、登りたい初心者の私が一人。三対一。浜野さんも「午後になって天候が急変すると危険だ。登りより下りの方がずっと危ない」とガイドに同調し、まずは私の安全確保をしたかったようだ。

テームのリーダーである浜野さんに逆らうことは山の掟に反する。わかっていた。申し訳ないと思った。それでも、どうしても登りたい。登らせてほしい。あそこに立つためだけに、

わざわざ日本から来たのだから。私は守られているから、死ぬことは絶対ない、そう信じて

いたその必死の願いが通じたのだろうか。

「それではすこしペースを上げよう」と浜野さんが言ってくれた。「ありがとう―」。声は出なかったが、三人の目に伝えた。その瞬間からガイドも態度を一変させ、私の登頂に全面協力してくれた。

渾身の力を振り絞り、懸命に岩をよじ登った。次の足場を探れずに足が何度も空を泳ぐ。時折ふと、われに返り、私はなぜ日本から遠く離れた地で、今こんな所にぶら下がっているのだろうと、不思議な感覚に襲われる。南青山のオフイスの風景が一瞬、脳裏を走る。いつもなら午後のお茶でも飲んでいるのだろうか。そのとき、ガイドが自分の膝を私の足の下にさっと差し入れてくれた。さっきまでのあの激しいやり取りの後の、この膝のなんというありがたさ。

無言のまま彼の足を三度ほど足場に使わせてもらい、最後のチムニーから垂直の岩場を越える。上を見る余裕など全くないから、頭上の岩をまさぐる右手だけを頼りに、上を目指す。次の瞬間、手のひらが宙をかいた。つかむものが何もない。ひらひらと宙に舞う手のひら。

「おめでとう― よく来たね」

突然、浜野さんの大きな声が頭上から舞った。

ついに頂上だ―‐。やった、やったんだ―

私は最後の岩を慎重によじ登り、先に到達した浜野さんと抱き合った。宙をかいた、あのときの手のひら。あの感覚は忘れない。「やった・登った」浜野さん父子と三人で叫んだ瞬間、頭上に七色の光の玉、虹を丸くしたような光の玉が現れた。呆然と見守るうちに、その光の玉から透けた雲が広がり、天使の羽になった。

①苦闘の末についにたどり着いたミドルティトンの頂上。浜野さん父子と感激のひと時○「ついに頂上に立った!」。うれしさと感謝に包まれ、<サミット>と書かれたブロンズの小さな碑にキス。63歳

 

こんな不思議な虹もあるのか。写真を撮ることさえ忘れて、私たちはしばし声もなく見とれていた。

登頂した瞬間に、突如頭上に輝いた七色の光の爆発は、神から頂いた何か途方もなく大きな祝福のようで、胸が熱くなった。光が収まるのを待って頂上を辞したが、下りはさらに厳しく危険に満ちていた。富士山登頂のときにアルピニストからもらった、「その一歩を大切に」というアドバイスの意味が痛いほどわかった。そうだ、これまでの成功も未来の幸せも「この一歩」を踏み外した瞬間、すべて無に帰するのだ。人生も仕事も同じ。大切なのは今、この一瞬、そしてこの一歩なのだ。

チャレンジするのはいいが、なぜそこまでの危険を冒すのかと、よく聞かれる。命を懸けてとはいっても、別に死んでもいいと思っているわけではない。やっていくうち

にとんでもないことだと気づくのだが、そのときはもう後に引けない所にいる。もう、やる

しかないと腹が据わると、方法はわからないままに、なぜか一挙手一投足が自然と成功に向かって動いていってくれる。「マリオネットのように、誰かがどこかで糸を操ってくれている感じ」と言ったらいいのだろうか。

私のチャレンジは、はたから見れば無謀だろう。確かに、サメの大群と泳いだし、オーストラリアの水族館で何十匹もの人食いザメがいる水槽に入って泳いだこともある。タスマニアンデビルにかまれて、現地オーストラリアの新聞に載らたこともある。みんなたまたま、そういう場面に巡り合わせ、じやあ、やってみようかと思っただけのことである。

こんなことができるのも、「私は守られている」と根らこのところで信じているからだと思う。それも別に科学的根拠があるわけではない。人生に「保証付き」はないのだ。

いつかテレビを見ていたら、ムツゴロウさんがライオンと戯れていた。自信満々な様子だったが、「あ、きっと指を食われるわ」と思った途端、食いちぎられてしまった。申し訳ないけれど、私は一人で笑い転げた。私もいつか、この程度のけがをするのは仕方ないかもね、と思いながら。

厳しい挑戦の後には、いつも必ず思いもかけない素敵な出来事が待ち受けている。昨日とは違う新しい自分との出会いかもしれない。たとえどんな小さなことでもいい、何かに挑戦してやり遂げたという実感と喜びの積み重ねが、自分の中に小さな自信を生む。初めから自

信のある人など誰もいない。自信は持つものではなく、気の遠くなるほどの失敗と成功を繰り返しながら、長い年月を経て育っていく鍾乳石のようなものだ。その自信がまた明日の希望に向かってチャレンジするエネルギーとなる。

 

健康長寿国世界一を目指して

私には新しい時代に向けてチャレンジしたいと思った情報サービスだ。これまでもダイヤル・サービスで健康情報サービスは手掛けてきた。電話やパソコンなどを通して二十四時間、健康に関する相談を受けるというものだが、今「健康日本21」の時代にあって国民一人ひとりの求める健康サービスは

いろいなニーズやウォンツがひしめいている。そのニーズやウォンツをもう一回整理し直して新たな健康医療サービスを設計したいというのが私の挑戦だ。

治療医学から予防医学ヘ

三度のバブルが崩壊し、世紀が変わりいよいよ生活者の本音のニーズやウォンツが生かされる時代が来たというその時期、私は政府税制調査会の委員(九四年四月―〇三年九月)を務めたおかげで、日本の様々な課題や可能性を考えることができた。その一つが医療問題だ。あるべき真の医療とは必ずしも思えないところに、どんどん国の予算がつぎ込まれ、財政破綻への道が見えているにもかかわらず、改革はなかなか進まない。世界一高齢化が進む日本で、人々の健康への関心が高まる一方、医療への期待と不安もまた大きく膨らんでいる。私たちは今、自分自身の大切な問題として、あるべき医療を考え、利用者の側から新しい仕組みをつくっていこうとしている。

多様な価値観やライフスタイルを十把一からげにして、古い制度を押しつけることは、もはや不可能といえる。インターネツトをはじめ多彩なメディアによって、人々はもうすでに日々送り出される彩しい情報の中から、自分に見合ったものを選択し編集して生きていこうとしているからだそれは既成の制度や仕組みの一部を壊す力にもなるが病気にならない予防医学を推進することで、医療費削減につながる。またそれ以上に、予防医学の広いすそ野は巨大なマーケットや新しい雇用をつくり出す沃野である。

チェンジはチャンス、つまり変化のときこそ大きなチャンスをつかむときでもある。人は誰でも慣れ親しんだものへの愛着や安心感がある。たとえそれが時代遅れで人々のニーズに合わなくなっていても、壊したり手放したりすることの不安よりはましと、昨日を今日に、今日を明日へと引きずっていくうちに、改革の機会を見送ってしまう。

それは企業も一国の政策も同じである。今、本当に必要な大切なものを手に入れるためには、壊す勇気、捨てる決断をまず私たちが持つことだと思う。企業や国の政策も、そうした人々の正直な思いや願いが兆しとなって見えてくるところから動き出すものだ。予兆をつくり、それを実現するパワーにするのは、私たち自身だと思う。

 

チベット医療が教えてくれたこと

もう十数年前になるが、当時NIRA(総合研究開発機構)の下河辺理事長のプロジエクトで、中国政府に招かれてチベットに行ったことがある。十人のメンバーたちは、渡航前に有名な大病院で入念な健康チェックを受けた。政府招待の一行だから、病院側の態勢も万全で高名な先生が担当したのだが、間診も触診もろくになく、ベルトコンベヤーで送られるように次から次へと検査室を移動させられた。検査室に並ぶ高額な電子医療機器の間に挟まれたり中をくぐり抜けたりしながら、ほとんど誰とも会話をすることなく、三時間かけて行き着いた所で、各部屋から集まったデータの結果を聞く。二十世紀の日本の医療の粋を集めた結果がこれかと実感させられた。たくさんのデータがどのような私を語ったのか、本人である私にはわからない。ビザが下りたのだから、取り立てて問題がないらしいと推測するだけだ。チベットに着いて、私は真っ先に高山病で倒れた。駆けつけた現地の医師は自く長い髭を生やし、一見仙人のようだった。優しい日で微笑みかけ、「遠くから来て大変でしたね」と、温かいねぎらいの言葉をかけてくれた。症状を訴える私の話をじっくり聞いてから、体のいろんな部位をたっぷり時間をかけて脈診していき、最後に丁寧に説明してくれた。「人間には気・血・水の生命の三要素があるが、高度四千メートルの環境にいきなり降り立って、その気が少し抜けて弱くなっただけ。ちょっと時間をおけば大丈夫、心配は全くいらないよ」そう和やかに言い、薬草茶を飲ませてくれた。たったそれだけのことだったが、私は癒され、緊張のほぐれた心身にまた気・血。水の流れが戻ったように思えた。病気は一晩で治ってしまった。機械に頼らず医師が自分の手で脈を取り、患者の生体が発信する情報を自分の経験と五感でしっかり読み取り、総合的に診断し、大昔から使われてきた様々な薬草を調合し煎じて飲ませる。それ以上に、患者の心をほぐし信頼関係を結ぶ。これがチベットの医療の姿だった。チベットの医学は古く数千年の昔から、天文学や数学、動植物学や易学まで含めた壮大な科学大系である。それに引き換え、二十世紀日本の医学は、どんどん専門・分科化され、人間は部品の寄せ集めになった。一つの部品を修理すると、副作用でほかの部品が壊れることも珍しくない。

 

健康・医療は誰のもの

人間が病むということ、回復するということを二十世紀の医療は忘れてきた。人間の体はモノではない。いろいろな電子機器を使って情報を読み取るのはいいが、それはあくまで検査であり、電子機器だけで病気を治そうとするところに、患者の不満と違和感が残る。高価な医療機器を備え、それを宣伝することで一流病院と見なされるから、どこも無理して何億円もの機械を入れる。だから医療費が跳ね上がる。薬代も同じ。私は母を訪ねると真っ先にするのが、箪笥の引き出しにしまわれた大量の薬を捨てること。

「お母さん、お願いだから、病院で薬は要りませんと言って。使い切れない大量の湿布薬や何の薬かもわからないような幾種類もの飲み薬。この高い薬代を誰かが代わって払ってくれているのよ」

だが、「お世話になっている先生が下さるものを要らないなどとは言えない」と母は言う。確かにそうだ。こうして今も変わらず母は薬をもらい、娘はそれを捨てている。

がんの治療も日進月歩だが、相変わらず手術をして放射線をかけ抗がん剤を投与するという治療が主流を占める。もっとも最近は、様々な代替医療を自ら選んで受ける人たちも増えてはいる。

私は十年ほど前から、様々な代替医療を研究している数多くの人たちに教えを請いながら、

二十一世紀の医療にどういう可能性があるのか、二十世紀の間に捨て去られ忘れられてしまったものに、見直すべきものはあるのかなどを学ばせてもらった。古くは東洋医学から、ヨガ、呼吸法、瞑想法、それに様々な運動療法に最近の音楽、アロマ、海洋水などを取り入れたテラピーの数々まで、実に多彩な代替医療や民間医療がある。ならば、かってあったこういうものを復活させ、西洋医学とそれぞれの良さを生かして組み合わせれば、医療費を下げることにもつながる。

残念ながら、そうした民間の伝統医療や代替医療はいまだほとんどが医療と認定されていないのだが、すでにそういう治療を経験している人たちの情報を基に、最先端病院から民間療法の治療院まで全国の病院情報、医師情報、治療情報、薬情報を整理・統合して、どれを選ぶか選択肢をわかりやすく提案していきたい。「自己責任社会」を目指すのであれば、そうしたあらゆる必要情報を開示し、誰でも自由に使えることが前提となるはずだ。もちろん、科学的根拠に基づく予防医学が大切なことは言うまでもない。ただ、国の定める科学的な根拠の求め方によっては、民間医療でたとえ成果を上げていても認可がなかなか下りず、人々がその恩恵にあずかれないことになる。なぜ治るのかを科学的に立証しないと、 2医療として認められないのだが、逆にそれができるのは非常に限られたものではないかと思

う。なぜならば、科学的証拠というのは二十世紀までに獲得された科学技術のレベルで測るもので、すでにそれを超えた存在に関しては、既存の科学の方が、なぜ効果を上げるのか立証する力を持たないこともある。その場合、エビデンスの技術は後追いする形とならざるを得ない。

医療は本来、患者のものであるべきだ。医者や病院のためでも企業のためでも、ましてや国のためでもない。いくら先進的でも、患者が副作用や後遺症で苦しみ、死んだ方がましだと思う医療が良いはずはない。

病院に入院して寝たきりになったり薬漬けになったりするよりも、みんなと楽しいことをして一緒に心から笑ったり歌ったり、運動したり休養したり、人によっては断食したリヨガをしたりといったことの方が回復するケースもたくさんある。それぞれの療法ごとに治療例をまとめ、改善データを取ることでエビデンスとすることができるのではないか。そして、それらの治療法にも一日も早く医療保険を適用すればよいと思う。

もう一つやりたいことは、カルテや健康情報を個人に帰属させること。電子カルテの時代が来つつあるが、従来、カルテは医者の手元にあり本人は見ることができなかった。診断を受けても、セカンドオピニオンやサードオピニオンを求めたい場合はいくらでもある。そのときに自分のカルテやレントゲン写真などを持っていこうとしても、診断を下した病院からはいろいろと詮索され、なかなか持ち出しにくい。しかも、自分の健康履歴でありながら、遠慮しいしい謝りながら頼まなくてはならないのだ。これは絶対におかしい。健康情報を個人に帰属させ、それにセキュリティーをかけつつ、しかも自由に取り出せるようなサービスを考えたいと思っている。このグローバル時代、地球の裏側で病気や事故に遭ったときも、すぐカルテを取り出せれば、安心安全の上でも大いに役立つはずだ。

ダイヤル・サービスを支えた恩人の死

私が健康をテーマにした新たなチャレンジを考えるようになった理由の一つに、ダイヤル・サービスの草創期を一緒に闘い抜いてきた二人の仲間、神馬由貴子さんと芹沢茂登子さんの死がある。神馬さんは十年ほど前に五十代の若さで亡くなった。がんの手遅れだった。あるとき気がついたら、胸にピンポン球のようなしこりができて、本人は骨が石灰化したのだと思っていた。調べてみると、もう乳がんの末期で全身に転移し、あと三ヵ月の命という宣告だった。私たち会社の人間はもちろんのこと、本人にも痛みがなかったせいで、全く思いもよらないことだった。

彼女は千葉県にある病院で治療を受けることになった。見舞いに行くと、腹水がたまってスイカのようにカチカチになったおなかを見せ、私の手を自分のおなかに持っていって当てた。「ああ、いい気持ち、いい気持ち、ありがとう」と微笑んだ。

するとその晩、不思議なことに、あんなに頑固に抜けなかった腹水が抜けたのだ。これには医者の方がびっくりして、何があったのかと聞かれたという。

それからは見舞いに行くたびに私の手をおなかのあちこちに当てて、「気持ちがいい」と言った。そして、いつも帰った後は腹水が抜けたり痛みが取れたり楽になったりするということが起こった。さらに不思議なことに、六人部屋にいるほかの人たちまでも、私が帰った後には具合が良くなったのだそうだ。カーテンを閉めたままで、どういう人がいるのかもわからない、話したことすらないというのに。私には信じ難いことだったが、痛みに耐えて病む友の言葉を疑う理由もなかった。私は言われるまま、なすがままに手と言葉を提供するだけだ。それが彼女の生命の灯をたとえ一瞬でも輝かせるというのであれば。

ところが、そうやって見舞った後、病院を出て車に乗った途端、私の方が昏倒してしまうのだった。手がこわばって開かないこともあった。これでは私の方が死んでしまうのではないかと思った。もしかして私の元気の素が彼女に吸い取られているのではないかと不安になったのだ。正直言って見舞いに行きたくなかった。でも、行くことで彼女の苦しみが和らぐのなら、見捨てるなんてできない。私の生命力をなくさずに彼女にパワーをあげる方法はないものか。私は彼女に正直に話した、神馬さんを見舞うと私の具合が悪くなることを。

「だから、これからは私からエネルギーをもらうと思わないで。私はただの道具で、その先につながっているもっとパワフルなエネルギー、例えば大宇宙とか海とか山とか、そんな所にイメージをつないでみてはどうかしら」。彼女は同意してくれた。その日から何度見舞っても私は全く平気だったし、彼女への効果もそれまでと変わりがなかった。

私には功を奏した理由が今もってわからないが、ともかく次々と彼女が見せてくれるそういった事実には大いに感動させられた。

神馬さんは余命三ヵ月と言われながら、その後一年半、実にクオリティーの高い時間を過ごすことができた。聴きたい音楽会には全部行ったし、会いたい友人たちにもみんな会った。食べたいものは全部食べて、好きなことは全部やった。

その一年半で彼女はものすごく人が変わった。知的で熱情の人だったけれど、きつい面のあるところが私とも似ていた。二十代の頃から、誰よりも人生の感動を分かち合い、その分、

激しくけんかもした。それが、感謝の心に満ち溢れ、穏やかな菩薩のような人になったので

 

ある。ある日、彼女は改まった顔で私に言った。「これまでのこと、いろいろと許してね。ほんとにごめんね」私の一番言いたかったことなのに、先を越されてしまった。しかも、これ以上ない美しい

声と表情で、忘れられない情景として残してくれた。

その後も会うたびに、「ありがとう、ありがとう、私はとっても幸せよ」と言って、それまでに見せたことのないような美しい柔らかな表情を見せるようになった。最後にホスピス

に入ったときも全く苦しむことなく、私が見舞った晩はいつもモルヒネを必要としないのだ

と言っていた。いよいよ最期が近づいてきて、私と芹沢さんが覚悟の見舞いに行ったのは、青空に雲がぽこつぽこつと浮かぶ天気のいい日だった。車椅子に乗って幸せそうに外を眺めていた神馬さ

んは、天を指さし、突然叫んだ。「ねえ、見て。見てみて。ほら、雲が割れて、すごい光がこっちに向かってやって来る!」

「ああ、本当にすごいわね」。私たちには見えない。「ね、見えるでしょう。本当にこういうことがあるのね。私を迎えに、ほら、光の階段が……」彼女はそう言って私たちの手をぐいっとつかみ、子供のように喜んだ。

「幸せ。素晴らしい!感動!ありがとう」

その後まもなく神馬さんは亡くなった。結局、彼女は抗がん剤などは一切使わず、自分でクオリティーライフを選択した。私は私なりに一生懸命に彼女を見舞い、余命は六倍に延び、 一年半という確かな素晴らしい時間を共有できたように思う。その後二年ほどして、今度は芹沢さんが逝ってしまった。原因は軽度な膠原病。すでに定年を過ぎていたけれど、彼女のいないダイヤル・サービスは考えられなかったか

ら、無理をいって六十五歳以降もずっと仕事を続けてもらっていた。病気になったときも、そのまま働き続けた方が彼女の生命力になると思った。だから、入退院を繰り返しながらも働いていた。もともと小柄な彼女が、見舞うたびに縮んでいった。何度も背骨が折れたのだという。しかも寝返りして折れた、と。原因はステロイドの大量投与だった。彼女は克明に日記をつけていた。そこには、ステロイドを投与すると言われた際に、それが本当に必要なのか、副作用はないのかなどを医者にきっちり確かめたうえで、やむなく応じたこと、それから大量投与に至る過程が事細かに書き記されていた。

五十代、六十代で亡くなるのはどんなにか無念だろうと思う。私は彼女たちから多くのことを教わった。その彼女たちの悲劇を三度と繰り返してはならない。神馬さんは年二回の会

社の定期健診をちゃんと受けていたのに、病巣を見逃されていた。芹沢さんの場合も私は間

27

違いなく医療ミスだと思っている。二人とも若いときから健康には人一倍関心を持ち、ダイ 却ヤル・サービスの健康部門を立ち上げた功労者だった。

死後芹沢さんが書き残したステロイド投与の克明な記録と病状の変化は 一冊の本になった。今となってはむなしいが、わが社のマドンナといわれた優しい人が、命を懸けて告発した書である。やっぱり日本の医療はおかしい。二人の無念を無駄にしないためにも、彼女たちが立ち上げた仕事を通して、あるべき明日の健康医療を実現していきたい。二人は私を後に残して、何かをさせようとしている。そんな気持ちにいつも駆られている。

 

明日の健康サービスを夢見て

今でこそ電話による健康相談は珍しくなくなったが、私たちが「ファミリー健康相談」を始めたのは今から十七年も前の一九八七年で、もちろん日本で最初のものだった。もっとも、「赤ちゃん一一〇番」をはじめ、育児、介護、食生活あるいは子供自身からの相談の中でも、それぞれ健康に関する相談は主流を占めていたから、厳密に言えば七一年から日本の電話健康相談は始まっていたことになる。一つのサービスが始まると、そこに来る相談が新しい次のニーズを示唆してくれる。そのニーズがあるボリュームに達するとサービス開始に踏み切る、といった具合で、今の数十種類のサービスは私たちの意図的な企画というより、社会の変化と連動して自然発生的に生まれたものが多かった。

先行した一一〇番シリーズと違って、「ファミリー健康相談」は健康・医療という直接人命にかかわってくるテーマであるだけに、あらゆる方向から検討し、スキーム作りにも万全を期した。このサービスの周辺には様々な規制が張り巡らされており、利用者を主役にしたより良い便利なサービスを考えようとすると、ほとんどが薬事法や医事法に触れることが多かった。

第一に、電話で病気の診断や薬の指示をしてはいけないということ。これらは立派に医事法。薬事法に触れる。それはわかるとして、診断や指示をするのが医者でなければならない

うえに、 一度は対面で診察してカルテのある患者にしか電話相談に応じてはいけないとなると、もう完全にお手上げである。かといって、それらの規制をむやみに撤廃することにも、また別の問題がありそうだ。私たちは各科で著名な先生方六十人を顧間にお願いし、サービスの質と信用のベースを固

めた。顧問ドクターにお願いして、どこの医大でもここまではあり得ないと思えるほどの豪華な教授陣から、スタッフたちは手取り足取りで特訓を受けた。

次に、不特定多数をサービスの対象にするのではなく、まずは企業や健保組合、その他の団体などと契約し、社員や会員、組合員といった特定メンバーに向けたサービスと位置付けた。そうすることで、間接的に相談相手の顔が見え、相互の信頼の上に立った仕事ができる。念には念を入れようと、当時の厚生省の方々と議論を重ね、あくまでも現行の法を守りつつ、人々の新しいニーズに少しでも近づけるよう、何をどこまでできるかを検討した。そのうえでサービスメニューを開発した。

一番大事なことは、人々の不安を受け止め、アドバイスをし、安心感を与えること。明らかに病気だと思えるケースは病院へ行くことを勧めるが、その場合も相手の気持ちをまず聞いて、安心と満足を与えることが重要だ。

また、米国では、セカンドオピニオンは企業の健保組合の医療費を倍増させるからと、受け付けないところも多いが、日本ではそのニーズは高い。医師が三分間医療の中で伝え切れない部分を、電話で補足説明するだけでも、患者にとっては大きなメリットになるはずだ。カルテの説明や定期健診のデータの解説なども希望に応じて行っている。病気によっては専門医を案内したり、近くでその設備を持つ病院の情報などを提供したりする。生活習慣病などの場合は、「食の生活一一〇番」につないで、その症状に合った食生活改善のアドバイスをする。そういったことができるのが、あらゆるテーマの受け皿を持つ

ダイヤル・サービスならではの魅力なのだ。年々増え続けるメンタルヘルスの需要に対しても、さらに力を入れていく。 一年に三万人を超える自殺者を出している日本としては、このテーマをもっと深く掘り下げ、対応する必要がある。最近では、見知らぬ若者同士がネットで呼びかけ合い、まるでドライブにでも行くかのような気軽さで集団自殺をしたり、相手の態度が気に入らないという理由で十代の子供が友達を殺したりといった事件が相次いでいる。生命の価値を本気で次世代に伝える大人も実に少なくなった。世の中が忙しくなりすぎて、人々は異世代と交流する方法も忘れ、人間同士の絆を見失ってしまったのだろうか。電話さえかけてくれれば、相談に乗れる私たちがすぐそばにいる。そのことを私たちもも

っと広く知らせる必要があると思う。自分のために家族のために、社員のために、こんな温かい人間同士のサービスが手の届くところにあることを、どうか覚えておいてほしいものだ。現代社会を健康に生きるには、運動、休息、睡眠のバランスが大切だという。このバランスの欠如は私の弱点そのものだが、確かにこれが崩れると心の調和も崩れることになりそうだ。大切だということはわかっても、いったい、いつどうやって、これらの時間を確保したらいいのか、その方が私には問題だ。

年間三万人の自殺者の中には中小企業の経営者が多いと聞く。先日、若い経営者たちの集まりでそのことを話した。企業は社員のために様々なサービスを提供し、ケアをする。でも、

何から何まで責任を持ち体を張って生きている経営者には、いったい誰が悩みを聞き、どんなケアをしてくれるというのか。何も救いのないところで、誰にも話せず、体を壊しても世

231

間に知られてはならず、病気になる自由すらない。ただじつと心に閉じ込めて、孤独な闘い  事を続けている。

「そうですね」と静かに相づちを打ってくれた若手経営者たちの目に、気のせいか、うっすらと光るものがあった。そうだ早く場〃をつくろう経営者が幸せにならなければ大勢の社員を幸せにできるわけがないのだから、と心に決めた。

そこに行けば、心ゆくまで心身を解放でき、オーバーホールをし、また安心して仕事に戻ることができる、そんな場をつくろう。いつ、どこで、誰と、何をする、わくわくする喜びと安心に満ちた場所をつくろう……。これまでのような、情報をベースとした健康への取り組みから、より具体的、積極的な場づくりへと次元を進めたい。自分の体調や症状に合わせた予防医学や代替医療、もつと積極的に快適医療と呼ばれる領域にもチャレンジできたらいいと思う。多彩なメニューの中から、自分に合うものを選び、自ら健康を設計しプログラムする時代だ。健康づくり、それこそ最大のアメニティではないだろうか。

 

サザンクロス再生への道

二〇〇三年の秋、私にまた一つの転機が訪れた伊豆の伊東にあるゴルフリゾートサザンクロスの理事長に就任して、倒産し民事再生した後の経営を見守っていくことになったのだ。私の周囲は「社長、またもご乱心」と猛反対だった。

「経営責任は一切ない、絶対に迷惑をかけることはない、時間や労力の負担も極力かけない」との約束で、サザンクロスから説得されたものの、「ゴルフ場の倒産にトラブルは付きもの。あえて火中の栗を拾うことはない、百害あって一利なし」と、ダイヤル・サービス側も譲る気はなかった。

それなのに、ではなぜ引き受けたのか。

 

ドリーム・カムズ。トゥルー

三十五年前、ダイヤル・サービスがスタートしたばかりの頃は、まだ社員にまともな給料を払えない状態だった。苦労をかけている彼女たちをなんとかねぎらいたいと、ポンコツ車にみんなを乗せて、伊束の先にある私の小さな別荘に連れていった。運転も買い出しも料理も私がやった。その行き帰り、丘の上にそびえる自亜の殿堂が見えた。あれはいったい何だろう。車でガタガタと丘を上ってみると、それはお洒落なホテルだった。そのとき初めて知ったサザンクロスという名前。大勢のゴルフアーで賑わう建物の中に、みんなで恐る恐る入ってみた。「こんなところで、ゆっくりお茶でも飲みたいわね」そんなことを言い合った。「もし来年もまた来れたら、そうしましょうね」と約束した。

次の年、会社はなんとか無事に続いていて、私たちは望みを果たし、「来年はここでケーキを食べましょう」、その次の年は「お昼ごはんをここで」と、夢をつないでいった。

ある年、「いつかここで社員旅行を!」ということになったが、値段を聞いて愕然とした。

でも夢を捨てずに頑張れば、いつか必ず実現する。そう思って、みんなと約束した。そして十年、夢が現実となる日が来た。サザンクロスの敷地内にあって伊豆随一の庭園を誇る高級和風旅館「龍石」を貸し切りにして。社内が部署ごとに秘密裏に練習を積んだ隠し芸大会は圧巻だった。大先輩も新入社員も入り交じっての熱演に、全員が抱腹絶倒。あの日の光景を思い出すと、今も懐かしさでなぜか泣けてくる。

あの時期、私たちに希望という力を与えてくれたサザンクロス。それは私たちの歴史の中に輝く記念塔だ。そのサザンクロスが倒産し、民事再生することになって、今、私の力を求めている。二十年来の理事として石原慎太郎氏、中曾根康弘氏など著名人の名も並ぶが、実際問題として、まさか彼らに理事長を頼めるはずもない。多くの人々の再生への願いを託してきた。

たお鉢は 一番無名で理事の末席に名を連ねていた私のところに回って久々にサザンクロスを訪れてみた。何もかもが荒廃していた。人々がロビーに溢れ返り、活気がみなぎっていた遠い日の面影はどこにもなかった。

主のいない五階のオーナーズルームの鍵を開けてもらった。富士山、天城連山、伊豆の海、

心に染みる景色は何一つ変わっていないのに、この部屋の主であった創業者の姿は今はもうない。自力でこの地を開き、自らブルドーザーに乗ってゴルフコースを造った創業者は、の夏、百歳で天寿を全うされた。

一代で何かを切り開いた人は、狂気にも似たその人並み外れたエネルギーゆえに、理解さ

れなかったり疎まれたりすることも多い。私の中に同じアントレプレナーのDNAを感じてくれたのか、創業者は生前、私のことを、その栄光と悲哀の歴史を語り聞かせる絶好の相手と思っていたようだ。

トラブルを越えてその日から一年、新米の理事長を待ち受けていたのは、予想通り、いや予想を邊かに超えた多事多難な日々の連続だった。

理事会の中の一方の陣営から訴えられて、裁判所に呼び出されもしたが、そんなときでさえ弁護士も誰も付けずに一人で出廷した。再建のために百円の利益にも血眼になっているときに、裁判や弁護士の費用で一円たりとも使いたくなかったからだ。裁判官も相手方弁護士も、たった一人でやって来た私に驚いていた。

「私は法律論争をしに来たのではありません。どっちが正しいか正しくないか、そんなことにも興味がありません。どうするのがサザンクロス再建のため、会員のためにいいのか、そのために私たちはどうするべきか、それを話し合うために来たのです。本当にそのためになるのなら、私は独断でそちらの要求を受けることも厭いません。今日の結果が、後々のサザンクロスの歴史の中で、みんなから評価されるようにしたいのです」

たとえ対立していても、もともとはみんな信頼する仲間同士、話してわかり合えないわけ

がない。そう信じていたから何も恐れるものはなかった。和解を成立させて裁判所を出るとき、私は訴えた人と握手を交わしながら言った。「今度はぜひ、もっと楽しいお洒落な場所で会いましょうね」

荒廃していたサザンクロスにもようやく光が差し始めた。

何よりうれしいのは、一年の間にフェアウエーやグリーンをはじめ、すべてが目に見えて良くなっていったことだ。黙々と働いてくれたサザンクロスの社員やグリーンキーパーの人たちの努力は素晴らしかった。

プレーしている私を見つけると、みんな遠くからでも手を振ってくれる。ぐったりと座り込んでいると、誰かが蜂蜜入りの紅茶をそっと置いてくれる、「元気を出してください」と。誰もがそれぞれ再生に希望を持って見守ってくれているのだ。

頑張ろう。

 

私を引き寄せたエネルギースポット

サザンクロスは間違いなく日本のエネルギースポットだと思う。地勢的に見ても、神が宿るといわれる西方の大室山と東方の小室山を結ぶ線上にあり、北には霊峰富士、南には伊豆七島が並ぶ。それらがクロスする丘の上にサザンクロスはある。付近一帯でここだけが高みになっているから、山も海も町もすべてを見渡すことができる。

今、考えると、三十五年前、まだ独り歩きもできないダイヤル・サービスの一行が、まるで吸い寄せられるかのように、この丘に上ってきたのは偶然ではないような気がする。砂漠で水を求めるキャラバンが何かに導かれてオアシスを発見するように、私たちも生き残る力を求めて、このエネルギースポットにたどり着いたのではなかったのか。

数ヵ月前のことだ。 一部の会員と理事会の間で意見の違いがあり、緊急の課題を前にしながら、なかなか仕事を進められない状況が続いていた。時間と体力の限界かなと、責任を取ることも覚悟していたある日、何人かのスタッフとコース内をくまなく点検して回った。その春に十本の桜を手植えした桜庭や蜂の巣箱を見た後、カートで十六番ホールヘの急坂を一気に駆け上った瞬間、なんと― 目の前の大地から巨大な、しかも二重の虹がドドーンとばかりにそそり立っていた。疲労困ぱいでうつむき加減の心を抱えた私の体に、大きな衝撃が走った。これはきっと何か素晴らしいことの前兆に違いない。もっとよく虹を見ようと全速力でカートを走らせ、海の見えるホールに行った。虹は間近の海面から力強い弧を描いて立っていた。すごい。雨の気配もない快晴の夕刻に、こんなに大きく鮮やかな虹に出合うなんて。ふと見ると、これまで見たこともない子ウサギがカートの前をピョンピョンと先導している。川奈を見下ろす丘に行くと、そこにもぬいぐるみのような大きなウサギが私たちを待ち受けていた。すべて初めて見るものばかりだった。

「農薬を一切使わなくなったので、いろんな生き物たちが戻ってきているのです」

グリーンキーパーが説明した。彼らこそ、かつてこの丘の住民だったはず。生き物たちが安心して戻れる土地にすることが、本来のエネルギースポットとしての気を取り戻すことにもつながるのだ。

そのとき、コース管理の責任者が叫んだ。「あ、あれは何だ!もしかしたら……」指さす池にみんなで駆け下りた。

「やっぱりそうだ。でもこんなこと、信じられない」それは伊豆半島にはもはや生息しないといわれている天然記念物、モリアオガエルの卵であった。今日はいったい、どれだけのご褒美が頂けるのだろう。ついさっきまで希望を捨てそうになっていた自分を恥じた。

バブルが弾けた後、時代の波に揉まれて、この地も一時エネルギーを曇らせていた。しかし、ここ一年でこの地特有のパワーは確かに戻りつつある。そのパワーが、会員やここを訪れる人々にも同じ喜びを与えてくれますように―。

 

健康日本21、私のビジョン

二十一世紀の日本は、健康と医療の大きなテーマに直面している。病気になったら治療するという考え方から、病気にさせない、病気にならない健康づくりへと思い切った発想の転換を迫られているそれが政府の進める「健康日本21」だ一口に健康増進と言っても、運動、食事、睡眠、ストレスなど日頃の生活習慣の指導に始まり、鍼灸マッサージ、温熱療法、アロマテラピー、ミュージックテラピー、タラソテラピー、最近は笑いのテラピーまで、実に多彩な間接治療法がある。運動にしてもウオーキング、水泳、ゴルフ、テニスに始まり、ヨガ、気功など多種多様。健康、長寿とくれば美容の世界も欠かせない。「健康日本21」の周辺にはニュービジネスのチャンスがごろごろ転がっているのだ。私は勉強会を通して様々な新産業を提案してきたが、机上の空論で終わらせたくはない。それらを責任を持って実行し世に送り出す場としても、サザンクロスは絶好の舞台だ。このゴルフリゾートは恵まれたことに、敷地内だけで四本の源泉を有し、掛け流しの風呂や本格的な温泉プールまで持っている。これらの財産を生かせば日本でオンリーワンになる。

ゴルフを中心に、この地で様々な健康法を提供し、心と体の健康につなげたい。病気にならない、病気にさせない健康な心と体づくりを実践し、サクセスストーリーをいっぱい作りたい。科学的なデータも採取しながら、それを明日の「健康日本1」のモデルにしていきたい。

2そのキーパーソンの島田晴雄。内閣府特命顧間をはじめ名だたるベンチャー企業経営者たちもこのビジョンに賛同して、続々とサザンクロスの会員になってくれている。それが何よりも心強い。沖縄のヵヌチャリゾート、北海道のトーヤレイクヒルゴルフ倶楽部、岡山の鬼ノ城ゴルフ倶楽部がこの構想に賛同し、夢を共有してくれることになった。ハワイからも参加の申し入

れがある。また、いくつかの健康保険組合や会員組織も関心を寄せ始めている。その日の客数に一喜一憂するのではなく、時代のニーズを受け止めたサービスを提供し、再生への土壌づくりをしたい。それがサザンクロスの会員の安心と満足につながってほしい。

私が長い間、温めてきた夢の卵が今、孵ろうとしている。

 

更年期を人生の更新期に

四十代、五十代、六十代……、能力は年齢と共に衰えていくのではなく、質的に変化する

ものだと思う。四十代より五十代、五十代より六十代と磨かれていく能力もたくさんあるただ、四十代半ばで道が二つに分かれるように思う。

さらに充実して魅力倍増していく人と、抜け落ちていく人。二段三段のロケットを噴射させながら新しい次元にチャレンジできる人と、逆噴射させて失速してしまう人それを分けるものはいったい何なのか。医者はそれを更年期だと言う。近年、男性にも更年期のあることがわかったようだが、だとすれば、それをどう迎え、どう乗り越えるかは大きなテーマである。一概には言えないが、うまくやり過ごすには何か役割や責任を持っている方がいいといわれる。私の場合、昔から、日曜になるとまるで人が変わったようにぐったりし、微熱が出たりした。多少の緊張感やストレスはむしろビタミンなのかもしれない。 一日しか休みがないとしたら休息と運動とはどちらがいいかと、よく主治医に聞いたものだ。「人によるが、あなたのタイプは体を使う運動の方がいい」と彼は言った。つまり、更年期もうっかり忘れるほど何かに没頭していた方が楽なのだ。私も一直線に昇ってきたわけではない。ガーンと行って、ドーンと落ちる。落ちるところまで落ちて、もう駄目かと思ったとき、足の裏に沼底が触れ、思い切り蹴ってみると、思いもよらぬ力で浮上できることもある。落ちることは上昇への前提行動なのだ。

落ちた後、上昇できるかどうかは気力にかかっている。落ちたことの意味を知って、次の燃料として点火させる。「人生とはこういうリズムなんだ、今は落ちて当然」というバイオリズムがわかってくると、あ、また、その周期が巡ってきた、そんなふうに冷静に受け止めら

れるようになる。

落ちるときには学ぶことが実にたくさんある。上昇期を支配するのが知恵と力だとすれば、沈んでいるときを支配するのはしみじみとした深い内省、内観、そして英知だと思う。

上昇期は外の世界や他人との付き合いに忙しくて自分を忘れがちだが、沈みのときこそ一番大切なわが内なる声を聞き、心のたたずまいを正すことのできる貴重なときなのだ。昔は人生わずか五十年が普通だった。それがいつの間にか八十年まで延びて、百歳以上の人口もなんと二万三千人を超えてしまった。となれば、その五十年でいったん車検が切れたとしても文句が言えないはずだそこで 一度オーバーホールをし棚卸しをしてみよう人生うたかたで死ぬことを思えば、体力気力に変調を来すくらいは当たり前かもしれない。それを契機にワークスタイル、ライフスタイル、そしてマインドスタイルも仕切り直して、次のステージに向けて免許更新を申請しよう。

そう、更年期はその後の人生をより主体的に生きるための更新期なのだ。グッドラックー

 

ゴールを設定して意識をつなげる

人生で自分の果たす役割やゴールが見えている場合とそうでない場合では、同じ昇ったり落ちたりでも中身が違ってくる。例えばゴルフのショットで、第一打からカツプに入れるまで、どこにどう落としてコースを攻略するかと設計する。「あそこに打つ」と強くイメージすれば、その位置に意識がつながる。自分のクラブの先とその位置がつながるイメージを持って打った場合と、力に任せて無頓着に打った場合では、当然、結果が違ってくる。つまり、四十代前半までは生物学的に成熟期だから、確固たるゴールがなくても勢いでガッと昇ることができるが、生体として衰える更新期以降は、ゴールに向かって意識をつなげていく作業が良い結果を生むのではないだろうか。生涯現役で生きがいのある人生を送るに

は、まず健康でありたい。健康に意識をつなげて、自分らしい健康法やライフスタイルを編み出し、イメージを具象化して実践する。この時期が、何か新しい力や魅力をもう一度積み込んで発進できる人と、天から与えられた燃料を切らしてしまう人との分岐点となるような気がする。いくつになろうと自分らしく、人生ますます輝き続けるためには、明日に向かって自分らしいゴールを見つけ、そこに希望をつなげたい。

出し惜しみをしない人生

私の持論に「エネルギー倍増の法則」というのがある。

若い人たちの中には、楽をして要領よくスマートに生きたいという人が多いように思う。人の世話をしたり助けたりする時間は無駄なこと、そんな暇があるくらいなら、全部自分のために使うというような生き方だ。私も若い頃は、できれば余計なことにエネルギーを使いたくないと思っていたから、よくわかる。誰かのために自分の力を使うということは、力が減って損をするのではなく、倍増で返ってくるということがわかるまでは、そう思っていた。

この「倍返し」は経験してみないとわからない。

私のこの十年はまさに、人のためにたくさんの時間とエネルギーとお金を使い、ほとんどがむなしさだけを残して、どこかへ消えてしまった。だが、時間がたってふと気づくと、お金でこそ返ってこないけれど、また別の違った形のエネルギーとなって返ってきていることがある。本人から返らなくても、不思議な巡り合わせで、ビリヤードの球のようにいくつかのクツションを経て、どこからか返ってきた。だから、徒労に終わったという感じがしない。

一見徒労に終わったと思った後で、また一段とパワーアップした自分を感じるのだ。

もしかしたら、このパワーはどこかから返ってくるものではなく、自分の心の井戸から新たに湧いてくるものなのかもしれない。その意味では、自分以外の何かのために力を出し切ることも、輝き続けるための秘策といえるだろう。

この感覚は気功に近い。息を吐くのももったいないというような小さな息をしていると、新鮮な空気も少ししか肺に入ってこないが、これ以上吐くものはないというくらいに吐き切ると、新しい酸素がドドーッと入ってくる、その感覚だ。新しい酸素は確実に細胞を活性化し、体を覚醒させてくれる。だから、私は精いっぱいという言葉が好きだ。出し惜しみして

いる限り、自らの活性化、覚醒はない。

倍返しは誰にでも経験できる。どんな力でも誰の力でもいいから貸してほしいと、血の滲むような思いで待っている人は、誰の周りにもいるはずだ。

私の母は九十四歳にもなるのに、まだ周りの人たちの面倒をこまめに見ており、どこに行っても愛され、必要とされている。体力も知力もすっかり弱って、時々記憶の回路も混乱するようになってしまったが、それでも持ち前の笑顔と笑い声で周囲を明るくすることはできるらしい。そんな母を誇りに思っている。

どんな自分でも、誰かの力になれる。通りがかりにかける一声で、そこから何か始まることがある。出し惜しみをして小さく小さく生きていると、魅力ある新しい自分と出会う機会はなかなか回ってこない。もちろん、精魂込めて助けた人から裏切られることもたくさんあるし、恩を仇で返されることもある。だからといって、人に対して恩を仇で返したら、それもまたいずれ間違いなく倍増で自分に戻る。

精いっぱい力を出し切って「倍返し」の人生を送れば、確実に人間力は増していき、いくつになっても失速することなく、能力の高みに昇っていくことができる。やってみる価値のある人生ゲームではないだろうか。

 

5 年齢への飽くなき挑戦

マイアミでの「楢山節考」

自分が六十代になってみて、それまで描いていた六十代のイメージは完全に覆った。六十代はどこから見ても高齢者なんかではないというのが実感だ。イメージと実態があまりにも乖離していることに気づくと同時に、そのイメージの中に括り込まれてしまった同世代の人

たちの戸惑いを思った。一般に六十代は定年で、これまで人生の大半を過ごしてきた場からは去ることになる。企業の中で教育され、その価値観で評価されて、朝から晩まで慣れ親しんできた行動パターン

の中で居心地よく生きてきたのが、そこから出された瞬間にこれまでとは価値観のまるで違う空間での暮らしを強いられる。その結果、どう生きたらいいのかわからなくて、すべてのエネルギーが抜けてしまう。老人性鬱病が多発しているのも、そこに大きな原因がある。

果たして、そういう人たちがすべての社会活動から離れて、年金をもらい、家族から面倒を見てもらうという、いわゆる社会福祉の対象として生きなければならない存在なのだろう

か。昨日まで働いていて、ゴルフも毎週こなせるし、体力は十分。下手な二十代より今の六十代の方が体力はある。仕事に関しても専門知識や熟練の技術はあるし、六十年間築いてきた人脈も持っている。このまま世の中のお荷物になるのはごめんだという気概もある。世の中の財として十分活用できる人たちだ。

ただ問題は、活用する仕組みがないことだ。国はお金もないのに、この人たちの面倒をどう見るかという負の発想から社会システムをつくる。私は逆だと思う。手厚く面倒を見るシ

ステムをつくる前に、彼らが六十年間築いてきた能力をどう活用するか、プラス思考で社会の仕組みを見直し、組み立て直すことだと思う。二〇〇三年にマイアミで、「世界の高齢化とグローバルエコノミー」というテーマで各国要人の集まる国際会議があり、私は何を間違われたのか、日本代表として招待されて行った。

各国代表の話を聞いていて、参加者一同みんな次第に暗指たる気分に陥った。なぜなら、各国とも程度の差はあれ高齢化が進み、経済的重圧に苦悩しており、そこから上がってくる未来のシナリオはどれも暗いものばかり。三日間の会期中、重苦しい雰囲気は増す一方だった。

 

最終日に、「世界の高齢大国日本としてどう考えるか」と突然指名された。私も各国代表同様、厚生労働省からデータを豊富に取り寄せて準備はできていたのだが、なぜか他の国と同じ論調で話す気にはなれなかった。「二十一世紀は地球上で高齢化が進展して、財政を圧迫し、経済は鈍化し、世界はますます活力を失い暗くなっていくというシナリオで、この会を閉じるのをやめませんか」アドリブで切り出した。というと、流暢な英語でとうとうとまくし立てたように思われるかもしれないが、そうではない。突然、下手な英語で意表を突く発言が飛び出し、みんなびっくりして、こちらを向いた。言葉を探りながら、私が話し出したのは『楢山節考』だった。

「日本がまだとても貧しかった時代、北国では、年寄りが六十歳を迎える前に自発的に雪の日を選んで、若者に背負われて凍てつく雪山に登り、そのまま一人残って死んでいったという伝説がある。それを聞くと皆さんは多分、やっぱり日本は残酷な国と思うかもしれないけれど、全くそうではありません。各地の檜山伝説には一つ一つ本当に素晴らしい心温まる家族愛の物語や、地域社会がいかに年寄りを敬い、その知恵を大事に扱ったかを伝える話がいっぱいある」

「もし、今もそういう風習が続いているとしたら、私はとっくに若者に背負われて雪山に登

らされる運命だった。今六十八歳の私が、もしそうなったとしたら、どうなるか。打ちしおれた若者がとぼとぼと里にたどり着く前に、私は脱兎のごとく山を駆け下り、家で温かい味唸汁を作って若者が帰ってくるのを待ち、ご苦労さんとねぎらうと思う」皆がドッと笑った。「つまり、それくらい今の六十代は、体力も気力も知恵も、あらゆることで昔とは全然違う。

であるならば、彼らを雪山に置いてくるのではなく、貧しい人たちが無理して大勢の年寄りを養うのでもなく、もっと村のため、困っている村人たちのために彼らに活躍してもらえば

いい」「高齢者が働いて力のない若者を養うこともできるし、不幸な子供たちを抱き留めて心を育てる役割も十分果たせる。高齢社会の周辺には、彼らの生活や活動を支える多様な新産業の可能性がある。健康や観光などのグローバルエコノミーも大いに期待できるのでは。高齢者はそういう存在であり得るのだという認識に立って議論を始めないと、二十一世紀の明るい

シナリオを描くことは到底できないと思う」三日間で初めて拍手が起こった。すると、「最後に日本から明るい提言が出されて良かった。実はそういう伝説はアメリカにもあって」と米国代表が言い出した。ネイティブアメリカンたちが居留地を変えていくときに、必ず最長老がその地にとどまり、土地を清め、皆の無事を祈って送り出すという風習があったという。そうしたら、いろんな国が「自分の国に

もそういう話がある」と言い出したのには驚いた。六十代、七十代の人たちの力をどう生かすかは、自由に考えていいはずだ。企業の中で引き続き働きたいという人たちには、そこでいったん定年という仕切りをした後で、もう一回  ヌ新しい雇用の形を考えて、再雇用すればいい。経理や営業の経験者はベンチャー企業でも歓迎されるはずだ。地域社会の中で働くというなら、例えば、今、若い未熟な教師たちが様々な問題を起こしているが、そういう教師のアドバイザー役ということも考えられるし、子供たちの遊び相手でも相談相手でも送り迎え役でもいい。孤独な子供、荒れている子供、そんな子供たちの通学・通園の道すがら、いろんな話を聞いてあげる役を誰かが担ってもいいだろう。報酬は二の次で、「子供たちが喜んでくれるんだったら、どんな仕事でも自分は喜んでやる」という人たちはたくさんいると思う。

要は、そういう人たちをマッチングさせていくこと。ダイヤル・サービスが九三年から続けている「ボランティァ・アクティビティ・ホットライン」という個人向けの無料情報サービスがそうなのだが、「どこかにこういう人はいませんか」という需要と「こういうことで誰かの役に立ちたい」という供給をマッチングさせていけばいい。ボランテイアというのは全く無償で働くというのではなく、今まで月給五十万、六十万円もらっていた人が、十万円でいいということだ。退職金をもらって家もあって年金ももらつ

ていれば、たとえ働くことで十万円しか得られなくても、子供に「おじいちゃん、ありがとう」「おばあちゃま、ありがとう」と言ってもらう生き方をすることに、価値や生きがいを見いだす人たちは少なくないと思う。

私自身も九歳で戦禍に遭い、魂が荒んでいた頃、小学校の帰り道に毎日、お風呂屋さんのおじいさんが待っていてくれて、バラック同然のお汁粉屋さんでいろんな話を聞いてくれた。まだ私が小学校に上がる前に、毎晩、その人の膝に上って、かまから燃え上がる紅蓮の炎を前に、いろんな昔話をいっぱい聞いた。そのときは私が一生懸命おじいさんの話を聞いて、私が荒れているそのときは、おじいさんが一生懸命、私の話を聞いてくれた。大好きなおじいさんに話を聞いてもらえて、私はどんなに癒されたことか。後で考えてみれば、お汁粉を食べているのはいつも私。おじいさんは空襲で家業を失い、なけなしのお金をはたいて私にだけごちそうしてくれていたのだった。あのときのおじいさんは、お金に余裕が全くなくても、私の心を救ってくれた。その小さな仕事が、きっとおじいさんにとっても生きがいになっていたと思う。今、お金に困っていない高齢者の中で、そういう心温まる役割をしたいと思っている人たちは少なくないはずだ。

 

この国で老いることの意味

年齢って何だろう。

年齢に従って振り出しから上がりまで、「人生すごろく」のフルコースがはっきり見える大企業にいると、自分の年齢とその先の運命が連動して見えているのだろうか。

「さあ、やるぞ」と思ったときには窓際で、気がついたら定年、そして退職である。すべて

一律に年齢という一見平等かつ曖味なものでプログラムされたシステムの中に、わが身を放り込んで生きることになる。私にはそうした大組織の経験がないから、大活躍していた同じ年の仲間たちが次々と社会の第一線から去っていくのを見送りながら、ずっとその違和感に悩んできた。

人によっては、初めからそういう社会システムを暗黙の了解にして生きてきたせいか、退職後もいそいそとNPOやボランテイア、または長年後回しにしてきた家族との絆づくりと、結構エンジョイしているように見える。でも、世の中そういう人ばかりではない。ダイヤル・サービスの「熟年一一〇番」には、不完全燃焼のまま力を持て余し、このまま社会のお荷物になりたくないと悩む人々の声が数多く寄せられている。

偉い肩書の人ほど、それを外したときの落差が大きい。ピラミッドに支えられなければ何もできない、自分の靴下のある場所すらわからない。「亭主は元気で留守がいい」と可処分時間を謳歌してきた主婦の前に、ある日から突然、何の生活能力もない夫が居続けることになる。「濡れ落ち葉」「産業廃棄物」「粗大ゴミ」などとマスコミにまで書き立てられて、男たちは家庭にも地域社会にも居場所を見失っていく。この国で老いていくことは、決して幸せとは言えないのではないかと思う。確かに彼らは、食事を作ったり洗濯をしたり、地域社会の中でうまく立ち回ることは下手かもしれない。きっと家族とのコミュニケーションも不器用だろう。だが、この国の経済発展にわき目も振らずに働いて貢献した世代である。当時としてはあれで精いっぱいではなかったか、それ以上の何を望めたのか。この世代が残したアンバランスな生き方は国際社会でも指摘され、もう十分非難にも耐え、痛みを受けてきたはずだ。それを反面教師と受け止め、いたわりと感謝の気持ちを持ちながら、次の世代がバランスを取り戻していくことはできないか。それが歴史の中で、時代を引き継ぐ者たちの使命ではないのか。先人をあざ笑って切り捨てていられる時間は決して長くはない。もうすぐ自分の番が回ってくるのだから。自分たちの世代が生きてつくって残そうとしたものを、次世代にどう受けてもらいたいか、そこから発想する力が働けば、今よりもう少し幸せな国になれると思う。

 

銀の卵

そんなことを考えてきた私に、ある日、小さな出来事があった。私の都合で前後の来客のアポイントメントが重なってしまい、やむなく両者を紹介して、うまく場を収めることになったときのことだ。

 

ちょうどその頃、新しい事業プランを一人でああでもない、こうでもないと考えあぐんで “いたので、話の流れで、その悩んでいる案件を話題にした。すると意外なことに、二組の人がその話に乗ってきて次々とアイデアを出し、それを可能にする技術やサービスを提供する人や企業まで紹介してくれた。次に会うときは、別のもう一人に声をかけた。いずれも、つい一、二年前まで大メーカーの技術者としてトップクラスにいた人や、外資系企業の社長を務めていた人たちである。技術はもちろん、その世界の人脈やそれをまとめ上げていく力も、私の及ぶところではない。

どちらかと言えば、私はこれまで人様のお世話をする役で生きてきた。力もない私がなぜか若いベンチャーに頼られて、いっぱい面倒を見てきた。もちろん、それは決して嫌なことではなかったし、 一人でも二人でも育ててくれるのを見て生きがいとしてきたのだが、正直なところ、本当にしんどかった。でも今、日の前にいる人たちは必要なものをすべて身に付けて定年を迎え、私に何かを求めるというよりは、持てるものを社会の誰かのために生かせる喜びに夢中になっている純粋な少年のようにさえ見えた。

お世話になる、力を借りる喜びというものを、私はすっかり忘れていた。肩ひじ張って生きるだけが能ではない。「教えて」「これ、手伝って」「助けて」と気軽に頼める幸せをもっと享受できたら、私は今からでももっと楽ちんに楽しく、もっとダイナミックに人生を変えられる。そのアイデアは天啓のように閃いた。「ね、試しにプロジェクトとして、この仕事、やってみませんか?・成功したら、利益はみんなでシェアしてちょうだい」気軽に口を突いた一言に、いつの間にか定年を過ぎた様々な人々が集まってきた。その人たちを現役時代に集めるのは、至難の業だったに違いない。こんなに元気で、少なくても発想や生き方の面で若々しく、知恵と情熱に盗れ、人間的にも豊かで大きく、世の中のこともしっかりと見えている。こんな人たちにこそ、人材不足に悩むベンチャー企業をはじめ世の困っている人たちを助けたり、不具合な社会の仕組みを見直したりつくり直したりする仕事に就いてもらいたいものだ。

戦後の高度経済成長の担い手は若者だった。地方から青田買いした中卒の若者は「金の卵」

としてもてはやされたものだった。                           て

半世紀以上が過ぎた今もはや高度経済成長の波は中国やインドなどアジアの国々へと移っていき、代わりに日本は未曾有の少子高齢化の波に直面している。今や国民の十九・五%、約二割が六十五歳以上の高齢者だ。

そんな日本で、六十代の人たちは社会のコストなんかではない。下手をすれば若者以上に 暉生産性を上げる可能性を持つ、立派なしかも付加価値の高い社会の「財」である。この価値 第ある資産を無理に負債として計上したりするから、介護や医療費、年金で破綻する暗黒のシナリオにつながってしまうのではないか。では、何をもって「高齢者」とすればいいのか。国土事務次官から後にNIRAの理事長となった下河辺淳氏は、かつて「国民の年齢上位一〇%を高齢者としよう」と提案された。

一〇%なのかどうなのかは専門家にゆだねるとして、六十歳以上という考え方は実態にそぐわない。若者たちには、自分たちが稼いだものを老人たちが使うという対立構造や被害妄想があるから、高齢者を疎ましく思う風潮ができてしまったのではないのか。元気で能力のある人は、年金を返上して何歳になっても働けばいい。税制面でのインセンティブを付ければ返上する人はたくさんいると思う。健康で財産もあり、お洒落でダンデイーなシェアたちは、自分のためにもっとお金を使おう。残りの人生を気にしてタンス預金などしなくてもいいように、生保業界はもっとビジョンを持って、長生きをサポートする新しいコンセプトの金融商品を開発してほしい。

NEET(Not in Employment,Education or Training))と呼ばれる、学校も行かない就職もしない若者世代が増えている。シニアが彼らの話を聞いてやり、相談に乗ってみてはどうだろうか。彼らは決して人生を放棄しているわけではない。今の日本で何を目指して努力するのか、日標がまだ見えない状態なのだと思う。人は誰も、誰かのその一声を待っている。

シェアのすべき仕事はたくさんある。これまでの社会システムの中でやり残したことを、

新しい仕組みの中で勇気も持ってやり直してみよう。

戦後、十代の若者が「金の卵」だったとすれば、二十一世紀、超高齢国日本の六十代、七十代は「銀の卵」だ。このネーミングに仲間たちは盛り上がり、早速「銀の卵の会」をつくろうということになった。大工さんでも庭師さんでもお医者さんでも何でもいい。将来、日

本中に「生涯現役のカリスマ高齢者」たちが、輝きながら地域の人々の心を支えてくれたら、どんなに生きがいのあるすてきな国になるだろう。そういう私も、長い助走と修業の時代を生かすときが近づいている。「さあ、これからが私の本番―」

 

エピローグ

「僕のこと覚えていませんよね。昔、ヤントン(セブンーイレブン。ジャパン提供の「ヤング・トークトーク・テレホン」)で働かせてもらいました」

さっきまでお上の席で難しい顔をしていた人が、会議の後一転して少年のようにはにかみながら声をかけてきた。某省の課長だ。みんな結構、偉くなっているのには驚かされる。妻が働いていた、妹が、娘が、という話もたくさん聞いた。

地方でも講演の後、三十代の若者から時々こんなことを聞く。「子ども一一〇番で毎晩、話し相手になってもらいました」「母から聞きました。エンゼル一一〇番に相談しながら僕を育ててくれたそうです」

「ダイヤル・サービスの社長さんは、こんな人だったのですね。初めて知りました。お世話になりました」赤ちゃんや子供のためのサービスというイメージがあるから、立派な大人から世話になったと言われると、 一瞬驚いてしまう。いったいどれくらいの人たちが、私たちのサービスを使って育ってくれたのだろう。「赤ちゃん一一〇番」「エンゼル一一〇番」はそれぞれ一九七〇年代前半に始まっているから、当時三歳だった子供は現在三十六歳くらいになっているはずだ。「子ども一一〇番」は七九年に始まった。その頃が十歳だったとして今年三十五歳、十五歳の中学生だったならちょうど

四十歳。いずれも今まさにバリバリと活躍している世代である。

社内のデータによれば、現在までに育児関係で寄せられた相談件数は、延べ六百二十五万件、「子ども一一〇番」は四十五万件に達している。これらの相談を利用して育った三十代、四十代が何万人いるのかは知らないが、改めてこの数に驚いている。さらに健康相談の件数は逢かに多く、この比ではない。行く先々で声をかけられるとしても、さほど不思議なことではなかったのだ。

あの日あの時、あなたのご両親たちは、そしてあなたは、いったい何に悩み、私たちに訴

え、問いかけてきたのだろうか。私たちの答えをどのように生かし、壁を乗り越え、どんなあなたが育ってきたのだろう。私たちと縁のある何万、何十万もの若者たちが今、日本のどこかで何かをしながら、社会の中核を担って生きている。それを想像するだけで胸がいっぱいになる。この仕事をさせてもらえて本当に幸せだった。時は流れて、今はあなた方の子供たちが「子ども一一〇番」に電話をかけているかもしれない。あなたの娘が、あの日のあなたと同じ思いで、「エンゼル一一〇番」に相談を寄せて

いるかもしれない。 一回の電話で私たちはその人の心に何を伝え、何を残してあげられるの

か。改めて、その一回の電話の重さを感じている。

こうした仕事を支えたのは、たくさんの素晴らしい社員たちだ。

ダイヤル・サービスも生活科学研究所も、自慢ではないが素晴らしい人材を世に送り出し

た。彼女たちが活躍するにつれて「今野学校の卒業生」と評価を頂くようになったが、私が何かをしたわけではない。みんな勝手にやって来て、勝手に苦労して成長し、また時が来て勝手に出ていった、その繰り返しにすぎないのだから。

強いて言えば、私たちの仕事自体が社会の縮図でありエッセンスそのものだから、日々それとの熱い交歓は嫌でも個々人の能力を引き出し、燃焼させてくれたのだと思う。

彼女たちは見違えるほど成長し、さあこれからと思うときに去っていく。それが割り切れ

なくて、思わず弱音を吐いたこともある。「私って何?」。その問いに某大先輩は曰く、「場所貸しさ」。

「経営者は良い仕事、良いクライアント、良い環境や人脈、できれば良い待遇を用意して、やる気のある人たちが自由に出入りできる場をつくるだけでいいんだ一。

そんなの割が合わない。でも、この道を選んだのはほかでもないこの私だ。それに彼女たち一人ひとりから、思い出という素晴らしい置きみやげを一生退屈しない分だけもらったではないか。多分、それが私にとって最後まで消えることのない財産として残ることだろう。

昔、下河辺淳さんに言われた。「一流の専門家はたくさんいる。しかし、日本にはゼネラリストが育っていない。特に女性にいない。これが問題だ。三流でいいから、ゼネラリストになれ。そのためにはもっと自分の国を見よ、世界と交流せよ」

「科学も技術も自分の関心領域として首を突っ込め。自分の暮らしや生きざまを通せば、どんな分野も見えてくる。頭が悪い者は抽象化せず、何事も具体的に現実論的思考をせよ。実体験で皮膚感覚としてとらえたものだけを語るようにせよ」「褒められようと思うな。世間の評価に媚びるな。評価は百年後の社会に任せておけばよい。

そのうえで、ダイヤル・サービスや生活科学研究所を人間・生活の総合情報の集積の場、情報発信基地にするのだ」この明快な指針は、私の弱点や資質を善くも悪くも見抜かれてのものだったから、何の違和感もなく受け入れることができた。若い社員や研究員たちも目を輝かせてそれに呼応し、学び、そして成長した。あれから二十年、私はこれをずっと行動の指針としてきたつもりだが、下河辺師匠からはまだ一度も認めていただいたことも、褒められたこともない。考えてみれば、なぜか私の尊

敬する先輩や師匠たちはみんな決して私を褒めることをしない。いつも吐き捨てるように「情けないやつだ。ばかなやつだ」と言い、 一笑に付す。

 

しかし、私には素晴らしい秘密の武器がある。どんな言葉もたちどころに自分に都合の良

いように解釈する今野流自動翻訳機である。アホと言われれば「よし、よくやった」、情けないやつと言われたら「もう一息だ、頑張れよ」といった具合だ。これはなかなか高性能で間髪入れずに翻訳してくれるから、めげたことなど一度もない。諸先輩方は、自分の言葉がまさかこんなふうに伝わっていることなどご存じないし、また知る必要もないことだ。三流の私が、それでもどっこい生き抜いていくための三流の知恵なのだから。

田舎出の私が、思いもかけず起業家になり、時代の鼓動と同期(シンクロ)しながら、いまだ見えないものを追い求め、形あるものにする仕事に半生をかけて、今ここにいる。無謀だ、奇行だと言われたグランドティトン登頂やギネス記録達成も、私をこの仕事に駆り立ててきたものと同根なのだ。多分そのような偏ったDNAを埋め込まれて、私はどこからかやって来たのだろう。ないない尽くしの私が、なぜか逆風の中をここまで来られた。考えてみれば不思議と言いようがないだから人はほんのちょっとしたキッカケをつくることさえできれば自分も知らない力を発揮して、思いがけない人生を見つけることができるものなのだと思う。今の自分に満足できず、でも、どうしていいのかわからずに悩んでいる人はいっぱいいると思う。むしろ、そういう人の方が多いはずだ。なぜならそれが二十代三十代つまり  2青春なのであり、先の時間が長い分、迷い、悩み、苦しむ。五十代、六十代になると、もはやそんなぜいたくな悩みや迷いとゆっくり向き合っている余裕などないのだ。でも、そろそろちょっと何かしたいと思うのだったら、今よりもう少しだけ自分らしく生きたいと願ってみてはどうだろうか。自分の知らない自分の力を思い描き、それを信じればいい。自分の好きなことでも誰かのためになることでも、何でもいい、やってみようと思うことから、すべては始まるのだから。

 

You can do it!一あなたならきつとできる―

 

人間は計り知れない力を持っている生き物である。一つ力を引き出して何かに活用できたとすれば、後は次から次へと必要なだけ無限に出てくるものだと思う。

私には満ち足りてこれでいいということがない。いつも遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえ、それに誘われてまた次の旅支度を始める私がいる。ダイヤル・サービスの次の展開に向けて、やり残している新しい仕事にもチャレンジしたい。私を待っているたくさんの人たちとの約束も呆たしたい。人生はどこまで行っても、いつも見果てぬ夢の途中なのだ。

 

あとがき

三年もつかと言われながら、ダイヤル・サービスは三十五周年も無事に乗り越え、また新しい未知の時間へとこぎ出しました。

この本を出すと決め、まず山にこもろうということになりました。この喧騒の巷にいて、まとまった時間を取れるわけがない。静かな山の中ならきつといい本ができるはず。日本経済新聞社の福沢淳子さんと速記者の熊野靖子さん、三度の食事と三人の世話を豪快に引き受けてくれた友人の中島晴江さんと私の女四人が、勇んで八ヶ岳高原・海の回自然郷にある山荘を目指しました。

途中から天気が荒れ始め、山荘に着くと本格的な台風襲来で、ピカピカゴロゴロ。

いきなり鳴り物入り照明付きのドラマティツクな第一夜となりました。「この本の運命を象徴するような舞台装置ね。波瀾万丈、山あり谷あり嵐ありー」

そのときは、この予言が現実になるとは誰も予想しませんでした。台風一過の翌朝、里に高原野菜を買い出しに行って車に追突されました。もちろん軽いもので、誰にもけがはありませんでしたが、しょつばなから大事なスケジュールが狂ってしまいました。三日半の口述筆記に熱中し、完全燃焼の達成感を味わいましたが、それからが大変でした。次々と不測の事態に襲われ、出版予定が大幅に遅れてしまったのです。もともとタイトに組まれたスケジュール満載の今年の秋。こなし切れるかと緊張感を持って迎えたのですが、そこを狙い撃ちするかのように、私の周りで事件が続発。思わず笑い出したくなるほど、これでもかと襲いかかってきました。それでも福沢さんからは容赦のない原稿チェックの鞭が入る。眠る暇も食べる暇もなくなって、ついに数キロやせてしまった……。でも、今回もまたタダで人生ダイエットをさせてもらい、自分で言うのもナンですが、少しきれいになれた。この点だけは感謝です。勝ったと思えば負け、負けたと思えば思わぬご褒美がいっぱい来る。仕事は真剣勝負の人生ゲーム、何度やっても、これ以上楽しいものはない。この本は、私の半生を、福沢さんの好奇心から生まれた切り口で編集したもので、いわば二人のコラボレーションです。第一章は私とダイヤル・サービスの苦闘の歩みを、第二章は山″″もあったけれど″谷〃も多かった私の半生のうち、特にきつかった谷″底からの脱出″に絞ってみました。第三章は絆を育むという観点から、第四章は「これからが私の本番」という思いで、明日の希望に挑む自分を描いてみました。

本の内容に関しては何度か福沢さんとも話し合いました。

「こんな個人的な出来事なんかいったい誰が読んでくれるのかしら」と私。

「山あり谷ありの人生だからこそ、これから頑張ってみようという人たちに、元気と勇気を贈れるのです」と福沢さん。

息子の譲司のくだりも難航しました。当人からも周囲からも様々なクレームが付いて、五回も書き直しました。でも、そのたびに譲司をより理解することができたような気がします。真実を曲げずに愛を伝えることの難しさを実感しました。

この苦しい数力月を何とか無事に乗り越えられたのは、息子譲司の献身的な支えが

あったから。そして、この本の出版にこぎ着けることができたのは、深夜まで一緒に頑張ってくれた秘書の野口千栄子さん、岩永久仁子さんの助力があったからです。

人のために生きているわけではないのですが、思えばこの長い仕事人生、私はいろんな役をさせられました。今でこそ、女性起業家はブームといわれるほどに、たくさんの女性が活躍する時代

になりましたが、当時、馬車馬のように働き詰めの私を見て、若い女性たちからは「私は、ああはなりたくない、経営者なんてとんでもない」とよく言われたものです。「仕事のためとかいって、結婚や子育てを犠牲にするなんてサイテー」などなど。それはちょっと寂しかった。

だからといって、私は生き方を変えるわけにはいかなかったから、せめて反面教師でもいい、これから何かを始めようとする人たちに、何か一つ小さなヒントにでもなりたいと願うようになりました。

スタート時点で、人に比べて決して条件が良いわけではなかった私が、結果の良しあしはともかく、ここまで来れたのです。読んでくださった方が、「それなら今の私の方が有利、この程度なら自分にもできる」そんなふうに思ってもらえたらという願いを込めてこの本を書きました。いつかどこかで、見知らぬ誰かに声をかけられる日を夢見て。「あなたの本を読んで、私は今、ここにいます」と。

そして最後に、三十五年の中でそれぞれの時間を受け持ち、個性豊かな役割を演じてくれた社員の皆さん、あなたたちの心意気と才能こそ、ダイヤル・サービスそのものです。 一人ひとりに心からの拍手を送りたくて、皆さんに代わってこの本を書かせていただきました。

 

二〇〇四年十一月心からの感謝を込めて 今野由梨

 

今野由梨(こんのゆり)

1936年、三重県生まれ。津田塾大学英文学科卒業。様々な仕事を経験して、1969年にダイヤル・サービス株式会社を、1979年に株式会社生活科学研究所を設立。代表取締役社長・CEO。1993年より財団法人2001年日本委員会理事長を務める。

 

タイトルとURLをコピーしました